えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・暦のありか

2016年01月09日 | コラム
 大晦日から元旦にかけてのひと騒ぎも落ち着いて、朝の電車の空席も埋まり正月という季節が終わってゆく。先の予定を滞りなく務めるために、背広の群れがうつむき加減に各々の勤め先のビルへ行進のように粛々と歩いている。行進に紛れ流されながら空の澄み切った青さに感謝のような気分がよぎり、青信号の点滅に急かされて横断歩道を渡り終えた。

「二月にはあれを、三月にはこれを、四月にはどれを、そのために一月にはこれを」
 といった具合に回り続ける仕事には言葉の合間に交わされる数字が日を追って変わるのみで、「こそあど」の中身は去年の今頃と今年の京都で全く異なるのだけれども、蛍光灯の下で窓も見ずにパソコンのちらつく画面と睨めっこをしていると十二か月一月あたり二十八日から三十一日を止めて一、二、三、四、……三百六十五、三百六十六、三百六十七……と時が過ぎた分を番号付けするだけの暦がケイダンレンや便利業者、効率家の大声で定められる日が来るのではないかと思ってしまう。

 こなごなに取り壊した地面の上へモルタルを被せるように十二か月をうち壊して数字を流し込み、時の流れのコテで平たくしてしまえば「カナラズ十二月ノオワリカラ一月ノハジメニヤスミヲトラセナケレバナラナイ」等々手足だけ欲しい連の頭を悩ます管理は減りそうだ。「今日は六万七十と二日です」「十の十乗日だ」算数には強くなれるかもしれない。松の内や小正月の見えないめくらの様に一月二月決算とつぶやかせながらビルは生きているのだろう。
 行きつけの喫茶店やご飯所でかけられる「今年もよろしくお願いします」のことばは、かろうじて今を正月でいさせてくれるくさびとして働いている。

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二〇十五年、ブログというメディアを使いだしてから数年の間に昔の自分がとても信じられないだろう速度で
言葉を使ったサービスやメディアは様変わりし、メディアとしてのブログも随分古典になりました。
インターネットを通した手に触れられない道具といえども使い続けておりますと多少の愛着もわきますもので、
メディアの提供元がこの道具を使わせてくれる限りは続けようかといった心持です。

拙文を読んでいただいている方、そうでない方にも、本年もどうぞよろしくお付き合いを頂ければ幸いです。

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