沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩349 沖縄と日本 15

2011年11月16日 14時24分29秒 | 政治論
 今となっては、「フクシマ」がこの数年のうちに放射能汚染に関わる症例を正確にか曖昧に、日本人の前に何となく流布することは確実だが、この決定的な事象においてなお決してジタバタはしない日本人がいるということも、何となく現実化するような気配ではある。
 ジタバタしないということは益荒男振りということだが、少なくともその伴侶は手弱女の部類でなく、つまりは「武士の妻」の良人という風情だ。ここにある「痩せ我慢」が果たして何を意味するのか、第一にそれは戦前の敗戦知らずの日本人において美徳だったものであり、近代日本が、跛行的に行軍した明治大正昭和の天皇中心「帝国主義」がでっち上げた、「文化」の香り一つしない機械化した封建的価値が、未だに戦後日本の精神的価値足りうるという驚愕すべき時代錯誤には、どう見ても異常な精神状況を想像せざるを得ない。(欲しがりません勝つまでは)(「フクシマ」からの脱出が市民間で感情的齟齬を来している実情があるらしい)。
 我々は「痩せ我慢」する必要がない現今「民主主義」という自律的価値を手に入れたはずなのに、国家は国民自生の「意思」から遊離し、恰も単独に自動する「観念」があらゆる妥当な民意を超越して、独行するが如く観念されたように、決して最善とはいえない多数決原理に基づき横行していくという実情に置かれている。
 国家が自ら国法を踏み外すなら、人民はこの現行国家という観念を叩き壊すことになる。古い官民闘争の形態らしくみえるが、実際はもっと深刻に立ち遅れた現実が、取り分け沖縄では日常茶飯事となっている。
 鳩山失政時輿論の趨勢が辺野古移設を否認する流れになったとき、日本は沖縄差別の構造的実情に気づいたのかと思いきや直近調査結果は数字的に逆戻りしたらしい。(NHK1,000人調査)もしかすると沖縄県民においても、時間的風化現象に晒されて半ば虚無的に「痩せ我慢」の傾斜を始めたかもしれない。恐らく沖縄における「痩せ我慢」は本土のそれとは違い、「この国のため」ではなく「この国の差別精神の改変不能実態」のためだが「本土から移住した」者にとってはそれは全く無意味なことだ。
 現に大震災被災者特に「フクシマ」の避難者が急増している沖縄では、最早「沖縄と日本」などという差別の言辞が通用しない方向へ傾斜している。当事者となったこの人々が辺野古容認傾向を継続するとは到底思えない。できるだけ「放射能」から逃れてきたのに今度は爆音と墜落危険性と米兵犯罪に脅かされてノホホンと「ああそうですか」はあるまい。
 地位協定やら教科書問題やら経済問題やら学力の低さ、労働条件など沖縄問題は数限りなくある。先の大戦の傷跡は米軍基地を含め未だに高齢者の精神的苦痛の原因となって疼き続けている。沖縄は日本のために「痩せ我慢」してはならない。瀕死のヨーロッパや財政危機のアメリカに加担した日本政府の「死なばもろとも」に付き合ってはならない。政府が滅亡しても人民は永らえるのです。(中断)