琉球独立の狼煙を上げるのは、必ず県民の自発的な意思統一の結果としてでなければならない。それはヤマトゥ国家から逆輸入されたもので行われるのではない。例えば、地方行政単独で伸びあがって(民意から乖離した政治的思惑によって)決定していくようなものではない(翁長知事のオール沖縄は、多様性のある民主制を基本に据えたとき、恐らく初めて政治の舞台に、民族単位の腹八分目の共同戦線が可能となった)。だからそれは、ヤマトゥ国家が不作為に奏でる通底音としてのそれ(構造的差別)によって自然発生的に開示された、民族的分断(大和民族と琉球民族の分化)という事態(国連勧告は、この事実を国家が認めない限り両者の不如意な関係は終わることがないということを指摘している)において、琉球民族という単一民族が確固として歴史的に甦るということであり、人間がこれに加えるのは非常に単純だが重大な精神的なあるものである。そしてそれは、ここでは様々な局面で日常的に生かされているので、人は見るだろう、溢れんばかりの琉球文化の、神々しいほどの輝きを。ヤマトゥくずれの筆者には、到底思い及ばない花々の芳香に酔痴れつつ、新玉に息吹くレキオ(りゅうきゅう)の威風に心底感嘆の声を上げるしかない。
琉球精神とは何か。不勉強な移住者にそれは未だはっきりとは見えてこない。ただ、こちらが虚心になればなるほど打って響くような確かな答えが返ってくる。ここに10年住んで筆者が感得したものは此処に住む人の「人間的上等さ」であり、汚してはならず消してはならないマブイ(魂)の息づきだが、ヤマトゥ国家は言葉巧みにこれを騙しにかかり、ある日突然不意打ちすることを恥じない。彼らは、イエス・キリストに言わせれば「自らのしていることを知らないでいる」哀れな人群だ。言わば独立した法治国家のはずの日本政府が異国の軍隊の為にそれ(人民弾圧)を盲滅法に実行し、米国政府がこれにただ乗り便乗加担している。両者の罪過の多寡は相同じい。
日米安保は既に賞味期限が過ぎている、と言われる。蔓延っているのは利権、既得権益、その他というどうしようもないダニどものいかがわしい、臭い人いきれだ。彼らに如何なる正当性もない。だからこそ、高江も辺野古も普天間も嘉手納も闘う人民が退きも切らない。後退して諦め、ただぼんやり郷土が食い荒らされるのを眺めているような腐った魂は、此処に何の縁もありはしない。(つづく)