沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩631 沖縄を生きるということ、とは 2

2017年09月03日 20時30分44秒 | 政治論

 安倍晋三一派と現行自公政権特に自民党は、確かに官僚以上に官僚的な「官尊民卑」思潮に則って、かつて大日本帝国創出において伊藤博文が企図した官僚支配国家体制における明治日本が押し出した富国強兵、殖産興業、市場開拓、最終的に国家総動員体制化する挙国一致ファシズムの天皇制超国家主義を、他に眼もくれずに現代によみがえらせるべく、(実体のない)優秀な?頭脳集団を気取って我が物顔で時代錯誤を執り行っているので、ほぼ戦後民主主義の様々な理念的自然発生的な焼き付け塗装を経た「戦争を知らない世代」的な、意識せざる(現憲法)無条件受益者として存在規定される我々は、まるで維新期に生きた一般平民のような心持でいるのだ。当然そこには実質的な参政権はない(民意は無視される)。選挙至上主義が齎す詐術的選挙戦の結果実質支持率に沿わない議席配分が行われると、政権政党の恣意的な強硬路線が恥も外聞もなく横行し、トンデモの法案が次々と採決される独裁的専権的な政治が我が物顔で傍若無人にこの国の行く末を決定していく。

 官僚養成旧帝国大学を出て明治日本を一身に背負ったこの国の選び抜かれた俊秀たちは、まさに官僚主導の国家運営の中枢を占め、この国の近代化を独占的専制的に推し進め、結果的にこの国を戦争への途に立たせ、挙句は狂気の国際的孤立と世界的(アジア的)覇権主義に前のめり、物理的には到底かなわぬ相手(英米)を敵に回して、闇雲に軍事的解決を図って(玉砕的だが権力的には敵前逃亡の無条件降伏という醜態をさらした)不様に潰えた。

 これが近代日本の辿った否定し得ない歴史的真相であり、これを初めからもう一度繰り返そうという安倍一派以下自公維系の狂気は到底放置し得ないものがある。官僚以上に官僚的な彼等政治屋集団は我々一般平民を排除し、これを無視し、かつ軽視し蹂躙さえして、如何様にもこの国を牛耳ろうとあらゆる画策、陰謀を巡らしては国民の目からその悪徳を覆い隠し、卑劣にもおのれらの非道、悪辣な恣意的政治の具体化に関する説明しようもない実態から見苦しく逃げ回っている。「美しい日本」以下彼等の吐く一切のきれいごと、美辞麗句は全て大嘘であり、偽善欺瞞誤魔化しであり、そこに一片の「憂国」的赤心もこれなく、武士道に悖る亡国の徒以外の何者でもありはしない。

 こうした見方、感想はここ沖縄に来てから真実と信じたことであった。しかし筆者は決して「沖縄を生きて」いない。数万語を費やしても高江辺野古の現場に「生きる」人には及びもつかない。筆者は残念ながら「本土」の生き方を抜け出せないでいる。しかも肉体は沖縄にある。かつて伊江島闘争を生きた阿波根昌鴻(あわごん しょうこう)http://uccjkojima.grupo.jp/free1755286は「ペンは鍬よりも重し」といったそうだが、面白い言い回しであると同時に、彼が言葉に込める思いの丈が伝わってきて、筆者などにも一種の勇気を加えてくれる。言葉、言葉、言葉。今、この国に必要なのは真実の言葉、生きて糧となる言葉ではないのか。言葉が足りない。息苦しい。それが今の日本の現状だ。啄木の慨嘆が聞えてくる。(つづく)

 

 

 



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