沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩395 「人間の国」でない国にいる我々 8

2012年10月14日 11時58分25秒 | 政治論
 広島原爆ドームを訪れた米国人の大半、いや全てが「戦争を終わらせるためには仕方がなかった」と言うがその彼らからこの正当化を意味する言以外に謝罪めいた言葉は一切聞かれないというのは実に不思議な気がする。いやむしろ「あれは正しい選択だった」という積極的肯定的必要性への言及さえ往々にして見られるというのだから、彼らが原水爆禁止という理念を純粋培養することは向後絶対にありえないという感想を持たざるを得ないわけで、それは「ことと場合によっちゃいつでもこの大量殺人兵器を自在に駆使しますよ」と言っているのと同じなことになる。つまりオバマが言うように「段階的縮減」のどこかの段階でこれを使う可能性は十分にあるということになる。しかしながら原爆も水爆も中性子爆弾もこれを使う以前に、アメリカは「大量」に、一般人を、巻き添えで戦闘行為により「しかたなく」殺し続けていることは周知の事実だ。アメリカが絡んだ戦争はすべてこの一般人殺傷を含んだ戦争であった。今回のオスプレイ騒動はこうしたアメリカの、アメリカ人の戰爭観、つまり一機や二機墜落して偶々一般国民を殺したとしてもそれはしかたがないことで、最初からそういう想定のもとに実施された(予定殺人実質の)新型輸送機配備計画だと彼らは言うに違いない。しかも「おまえさんがたのお偉いさんがそれでもいいというのだから我々にはおまえさんがたがいかにして死傷してもそれについての責任なんてものはないのだよ」と言い放って平然としているだろう。つまり殺される我々は明らかに死に損であり、地位協定によって免罪されている国の望まざる犠牲者となる。彼らが殺人を犯したその手で家族のために祈りを捧げる図は吐き気を催す光景ではある。このような質の軍事同盟を堅持し人民が死をもて贖う安保とは一体何か。それは我々の何を守るものとして継続されているのか。そして国がこの方針を持続する根拠たる国体乃至その愛国精神というものは一体何人の日本人に支持されているのか、あるいは実感させているのか。恐らく誰ひとり国体の恩恵を受けてはいないし、「愛国心」とは何かを知っているものはない。そういう戦後教育で大概の一般人は生きてきた。戦前同様に今も「国体」は「象徴天皇制」という幻想のもとに祭り上げられ「愛国心」はオリンピックで日の丸の国旗掲揚に踊らされる程度のものでしかない。つまり精神的内実がない。人々が嫌だというオスプレイも安保も軍事同盟も、この国の本質においては意味のないカラクリ時計に過ぎず、はっきり見据えるならすぐにも見えてくる。つまりは「我々は他国の軍隊のやりたい放題を黙認している哀れなヒツジに変わりない」事実に気がつくだろう。ヒツジはヒツジとして生きるしかない。家畜として。アメリカの従属国家として。そこに「誇り」などないし、自力で作り上げた独立国という意識もないし、無論愛する対象たる実体を感じることもできない。(中断)


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