沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩512 琉球の捉え返し 8の2

2014年04月05日 17時52分18秒 | 政治論

 我々が抱き得る確信は死においてしかありえない。しかし必ずしも死は万能なわけでないし、それの重きが全人的に決定的だとも言いきれない。ということは他に確信へ至る方途がない以上、この世はあらゆる不信の渦にあり、疑惑の底知れぬ奈落を経るにしろ、偶々逆説的に反対命題をもってそこへ徐々に導かれる、ということになる。「惜しみなく愛は奪う」という。愛がそのような「ジゴロ」的「ドンファン」的な力学に基づくものなら、「愛する」主体はこの世を即物的には立ち去っていることになるし「死」を超えている、否「生」をすら超えているといえる。これを無償のものとするなら彼は悠に奇跡的な精神の優越を証明したことになる。勿論ほんの一瞬の出来事なのだけれど。

 現在我々の前にあるのは、恐らくはこのままのありようで行くであろう、安倍政権乃至自公政権による4年近くに及ぶ独占企業が、徐々に醸しだすであろう再軍備手立てと国家主義的な自治権介入、干渉、教育行政への復古主義的な思い入れ、大企業優先諸施策、など、かつて55年体制と高度経済成長期に基調となっていたもの(従って安倍晋三の言う、戦後レジームからの脱却はありえない)と同時に、戦前、この国を根本において支配した皇国史観の復古情調がなんらかの形質で息を吹き返す、といったものである。

 地元を離れれば、強固な国家という概念が幅を利かす。地元、福島、原発立地地域、沖縄米軍基地、など、地元の苦渋、悲惨、現実、あるいは歴史的な培養を経た抜きがたい棘は、この政権の露骨な国家第一主義の理念なき横行によって、踏みにじられる。ここに生じた隔絶、あるいは隔絶感は一切の希望を押しつぶす傾向へ向かう。裁かれず抹殺されなかった原発事故の永年的責任者どもは、生き延び、同じことを何度でも繰り返す。彼らに単純な論理的動機は金輪際皆無だし、当然核被害国的な理念的倫理的認識はごみ芥のようにしか扱われない。同様に、地震大国で連鎖的地震帯の直上にある日本列島の辺地に、それら時限発火装置である原発を抱えながら、それでも「何の為に」か再稼動を切望する命知らずの人々がいる。地元を裏切ってでも辺野古の海を埋め立てたい議員、首長たちがいる。(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。