沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩195

2010年09月30日 16時16分56秒 | 政治論
 元沖縄県知事太田昌秀氏の学者としての事跡をごく部分的にしか知らないのだが、沖縄に来て最も多くその著作に接した結果としての沖縄観や認識、歴史観、沖縄学、といった展開は実に興味を惹かれる事件だった。とりわけて氏が実際体験した沖縄戦とそれにまつわる沖縄概説は種々見解を新たにさせる真に革命的なインパクトを叩きつけた。生涯で最も実り多く示唆に富み、稀に見る邂逅だった。正直言えば沖縄には何一つ期待も希望も願望もなく、基地によって醜くズタズタにされた島という印象しかなかったし、異人種に毒された町といったイメージや裏社会の暗躍する奇怪な国、戦後民主主義が一時的に注目したときを除けばいつもその著しい差別的境遇を忘れ去られた土地など、少なくとも南国の楽園などという印象は全くなかったのだ。その本島に移住してきてまずはっきりと印象されたのは人間の出来具合だった。その内実を知らないが、言わせてもらえば本土の人間にみる煩悩の確執からくる醜悪な生存形態に、狂気と化した戦後日本の精神崩壊を想像させた。何故日本の戦後は本土と沖縄をその根底において相違させたかというと、敗戦を終戦として落着させ、戦後を戦無として認知し、沖縄にとって屈辱の講和条約により無条件の安保を手に入れた本土の日本人は、まっしぐらにエコノミックアニマル街道をひた走り、ついには人間としての本源の希求と定式化において自己を失い、利己主義の最も醜悪な結末に陥落し、他力依存による安穏な危機管理から自律的防衛機能を無効化し、正常判断と健全反応が欠落した自家撞着に陥ったのだった。沖縄は戦後も戦時体制に置かれ、異人種に統治され、永続的に占領支配される独自の運命を強いられることで、未だ日本的解決を完了しない戦争と敗戦及び近代日本の総括という問題の現場に強制的に放り込まれたのだ。こうして沖縄は未だに日常的に戦争を体験しているという、本土では想像できない現実を有している。(中断)


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