彼らは自分たちがしていることを自身の内面において如何なる意味になるのかを了解してない(するわけがない)。それはつまり、彼らが人間として精神的に欠陥を抱えているという証左でしかなく、この国と米国が、戦後ずっとそういう精神性に生きてきたことについて、彼ら自身なんらの考察も加えずひたすら動物的に、平坦に、他者への真摯な顧慮もなく(沖縄施策を見よ、原発政策を見よ)、エゴイスティックに、時に非人間的に、むしろ完全な残虐性において彼らだけのパクスロマーナを満喫しようと、それだけにのめり込もうとその生存を限定的に続けてきたのだった。
彼らの基本姿勢は防共(この心理状態は不可思議なほどにサイコなものだ)、であるが、おのれらの安寧をはかるためには(対9.11ブッシュの戦争以来)対テロ的に、無差別に(イラク戦争の大嘘を誰が見逃すか)他者を抹殺し、其処に生じた混乱と破壊、殺し合いの連鎖(全て彼ら米国傀儡群の無反省な淘汰主義によって生じた不可測な非常事態にほかならない)については知らぬ存ぜぬの頬かむり、大戦後彼らがしでかした行跡の功罪を全くと言っていいほど問われることもなく、のうのうとその獣的な素面を押し隠しつつ偽善的に世界を籠絡、傀儡化し尽してきた。
米国のお先棒を担ぐべく、戦後レジーム脱却を金科玉条に掲げ安倍政権は稀にみる右寄りの思考法を臆面もなく実践的に具現化し、アジア各国に軍国復活の疑念を抱かせ、それでもなお一点突破の猪突猛進を繰り返し、この国の人心(とりわけ沖縄県民の意思と尊厳)を圧迫し続けている。
到底許しがたいのは、1995年時米軍兵士によって引き起こされた沖縄の少女に対する暴行事件に端を発した「普天間問題」が、今や同一県内に新しい米軍基地を建設することによって真逆の精神的意味を加えていることにこの国の民はなんらの反発抗議、同情も示さない、という異常な国家ぐるみのエゴがまかり通っていることだ。
少女暴行事件とその後の米国対応、そしてこれに抗議する県民大集会、あらゆる人間的な関心はここに集中されなければならない。出発は沖縄県民の激越な怒りだ。自分の身内があろうことか他国の軍隊の兵士によって無際限の危険にさらされている、ということに誰が笑顔で平然としていることができるのか。米国はその抗議集会に周章狼狽し安保体制の危機を感じなんとかしようと日米政府間に行動委員会を発足させたはずだが、残念ながらその理念的な形骸化は恐るべき軍隊論理の横行を許しただけの、まことに愚昧な封建的代官政治再現にしかならなかった。(つづく)