沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩632 日米政府と沖縄の在り様 23

2018年04月29日 08時32分38秒 | 政治論

「南京大虐殺と日本人の精神構造」 津田道夫著 社会評論社刊

 著者は「大虐殺」よりも「大残虐」という表現が適当していると考える。それは例の右傾化グループが論う30万人殺戮の事実関係が、いずれにしろ数値的には曖昧な根拠しかないことがわかっている(それでも明らかに数万の大陸人が南京入城後殺されたことは間違いない)からだが、一方で、虐殺あるいは大虐殺という文言の持つ一塊の括りが、個々の殺戮(一人一人の人間殺害)の残虐ぶりをその(戦後理念的)抽象化で何気に希薄化し覆い隠す働きがあると思われるからだそうだ。

 実際、個々の事例についての様々な証言から見る限り、それが到底正視に堪えない惨たらしさで確実に迫ってくるため、夫々の具体的な例証が、夫々の残虐さを事細かくリアルに伝えようとしているのだと、我々は感じないわけにいかない。そこに、「一人ひとりの人間」「一人一人の女性(その中には10歳に満たない幼女や70過ぎの老女も見境なく含まれている)」の身に起こった一つ一つの残虐な犯し方、殺し方、が、歴史修正主義者どもが「なかったことにしたい」はずの南京事件という、一括りの非人間的な事件の向こう側に、後代が何事か必ず解き明かすべき「意味」というものを暗示し始めるのだ。

 平時には、普通のありきたりな、平凡な一市井人にすぎないはずの兵士たちが、何故、戦後世界から見れば目を覆うような残虐な殺戮・強姦に耽ったのか(一方でそれらは戦時中には手柄話でしかなかったし、戦後も又彼等からまともな人間的苦悩を見出すことは容易ではなかった)、という疑問から、実は平時においても戦時においても、当時の(あるいは現代においても)日本人の中には、これを為すべく必然的な精神構造が隠されていた、と見る。同時に近代日本の歩みそのものの中に、南京事件の遠因は潜んでいたと考える。

 ハンナ・アレントが論究したアイヒマンに関するそれは、今にしてみれば一般的な、人間に関する一つの普遍的テーゼだったかもしれず、それとは別に、この事件には日本人に特有のおぞましい条件があったということ。丸山真男や朝河貫一が披瀝したところの日本人の性向。これに相乗した戦陣訓や皇民化教育。そして何よりも重大な要素がほかにある。

 何故それは他ならぬ中国大陸の南京という都市で起こったか。引き続きアジア各地で日本人兵士による蛮行が起こったのか。何故、韓国は併合されたか。何故琉球は日本に服属させられたか。何故対華21箇条は発せられたか。明らかに脱亜入欧のアジア蔑視、東洋軽視、弱小民族蔑視、がそこにある。しかも今もある。沖縄県北部高江(米軍北部訓練場ヘリパッド建設現場)で、本土(大阪)の若い機動隊員が、県民の一人に発した「土人」という言葉が顰蹙を買った事件は、未だ真新しい記憶としてある。筆者の周辺でもこれに大きなショックを受けた年配の方がいる。

 日本人にある差別心性は、恐らく鎖国下の日本では対外的に起こり得なかったであろう。封建的なものを排除していく維新の過程で、欧米との交渉の中それは醸成されていった。.....

 どう考えても、あれは侵略戦争だった。そして、アジアの解放どころか真逆の残虐行為で同じアジア人を見境なく殺し凌辱し、....。(つづく)

 

 



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