オスプレイの配備に危機感をもって反対意見を提示する地方自治体は本土46都道府県のどこにもない(琉球新報政治記事)。日米安保体制を支持するものは本土だけで71%にのぼる。(沖縄の負担軽減について、すべきとするものが51%だそうだ。)沖縄では安保反対が90%を占め当然オスプレイ配備にも同様の結果を示している。こうした数字上の際立った対立性には殆ど意味がない。誰でも己の身に降りかからぬ「対岸の火事」は傍観者の目でしか眺めないし、誰でも現状維持することを「安全圏」と無意識に思う。現状、とは米軍がこの国の安全を保障し危難に際しては米軍が出動して敵から日本国民を守ってくれる、という一種の神話信仰状態(日米同盟の約定には有事即対応要件はない)乃至、事に対する決定的な無関心(安保条約に対する)である。つまり実際上の根拠がないところに発生している無意識の信仰で、例えば神国日本は神風によって元寇を撃退し大国清露に勝利し、爾来一旦事あれば必ずや国難を排除することになっているという思い込みが先の大戦を引き寄せたのだが、こうした科学的論理的根拠を持たないところで無意識に納得している日本人の精神性はかつての同盟国ドイツ人と真逆な性向を示している。思弁的傾向が伝統的に顕著なドイツで何故単なる弁舌効果に過ぎないヒトラーの詐欺が通用したのか不思議だが、「狂熱」というべき、情念の深所を貫いた、人間の最大の弱点を見出すことは、ある種の人間には比較的容易ではある。日本における「狂熱」は詐欺よりも弾圧、特高脅威、非国民扱い、といった周辺事情から発生した。従って「熱」はない。情熱のない愛国主義こそ日本人の精神性を表しているのであり、「発狂」というにふさわしい症状を示している。妄想、幻想、錯覚、精神分裂、仕舞いには幻聴すら聴こえたのであろう。欧米人が理解しがたい「特攻」精神や玉砕行為はまさに「発狂」の極みであり、しかもそれは熱のない一般人にあって次第に醒めたとしても、将官将軍参謀たちにとって至極当たり前な通常戦略の一環でさえあった。「発狂」している上層部を戴いた日本は真に不幸ではある。しかしこれを繰り返さんとする安倍政権乃至日本の為政者連を性懲りもなく生み出す日本人は、最早、不幸不運不首尾で済まされるがものではない。沖縄の憂いはそこにある。また繰り返すのかあの大惨事を、と。しかも彼ら為政者の「発狂」は大部分民衆の突き上げから派生する。そして多くの民衆的錯誤は周辺の所謂知識人層の不用意な扇動的言辞に拠っている。マルクスではないが「大衆」に運動エネルギーを与えるのは集団化を促す一定の「理論」でありこの始源的な原理はこの場合にも通用する。見よ、おのれに降りかかる火の粉とみられた日米安保の実質的担保たる米軍基地が存在する所とそうでないところ(火の粉が降りかからない)との集団化する正反対な傾向を。71%の日米安保支持者は事実上の不労所得者、従って非当事者であり、90%の反対者の反応が日米安保体制当事者の正常な表徴と言える。(中断)
最新の画像[もっと見る]