この国を洗いざらい点検することは最も枢要な現代的課題であり、特に2011年3月11日の午後2時46分以来、この国がその混沌とした喧噪の割には内容のない、実質性に欠けた時代風潮に染まっていく状況にあることは既に多くの識者が指摘しているところである。それは結局、この未曾有の大災害と人災の混淆したカタストロフィーがこの国にとって何を意味していたかについて何ら実質的論考がされてないということに尽きる。とりわけて福島第一原子力発電所を襲った、現在および未来にわたって尋常ならざる規模と深刻さで進行しつつある放射能汚染事故に関しては、東京電力という一企業の周辺にグルグルと問題性を降りかけながらその実この国の政府が爾来「平和利用」という名の対米追随エネルギー施策によって主に過疎地に押し付けた行政的瑕疵行為について何らの謝罪、反省も示さず、一方人民側にあっても責任追及の手立てを厳然と講じない、という、驚くべき一億総馴れ合いを演じきってしまった、この国の根本的体質自体の洗い出しが望まれよう。これはこの国の歴史的な課題を析出するのであり、特に近代日本を最悪の事態に導いたあの戦争に関する重大な省察を喚起することでもある。
馴れ合いと事勿れ主義、あるいは長い物には巻かれよとか事大主義、あるいは一市民としての自由と権利に関する意識の低さ、などが相俟ってこの国は性格的に一種の立ち遅れた近代性を醸し出している。それはとりわけこの琉球沖縄において歴然とする封建遺制としての国内植民地化と地方自治権のほぼ完全な封じ込めにおいて、この国の差別主義の「未必の故意」的な無反省の在り様を国家犯罪的に実現しているという、特に辺野古で強行されている米軍基地建設に如実に示されたものは、自国民のことよりも異国の軍隊のための施設拡充に重点を置くという点で指摘すべき誤った民主制のことである。基地の存在によって生じてきた実害に関して、沖縄は、本土よりはるかに多くの実体験を通し否応なくこれを知らされている。と同時に沖縄戦の負の記憶は、それを語る体験者の口伝により追体験され、日常的にこれを話題に据えることでより身近で心根に深く育つ「不戦」「非戦」の志が、現存する軍事基地への忌避の念となって、根強くコモンセンス化しているといえる。ウチナンチュの内にもまた、一般には先鋭化しえず単純化しない反基地の意思となって多くは失望、諦め、落胆の心的脆弱を託つことになる。しかしそれは、執拗な圧力をかける日米政府官僚たちの分断統治策が一部功を奏しているということにすぎず、恐らくは沖縄の場合事実上の反基地、基地嫌忌感覚でオールなのだと認めざるを得ない(県知事の裏切り、自民党議員の変節が中央執行部政権幹部の何らかの恫喝、籠絡、懐柔によっていることは容易に推察できよう)。(つづく)