沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩631 沖縄を生きるということ、とは 15

2017年10月30日 08時28分17秒 | 政治論

 低投票率、実質支持率と獲得議席数の、矛盾に満ちたアンバランスを決定的な欠陥として持つ今次自公政権(ほか補完党派)が、あわよくば憲法改悪の国民投票に打って出ることができたとしても、十中八九その国民的支持は得られないだろうと、我々はどこかで確信している。しかし、よくよく考えればこれは確信などというものではなく、単なる薄っすらとした思い込みでしかなく、ヒトラーナチスのように彼等右傾化した与党などの権謀術数、印象操作に引っ掛かって国民が籠絡され、いつの間にか手の付けられない程の翼賛化が進むかもしれないということを、はっきり想定しておく必要がある(まさに戦前の日本が再現されるのである)。

 ところで、沖縄の反戦、反軍、反軍拡、非戦、避戦、厭戦といった傾向は、当然沖縄戦という、非本土的体験の苦い血塗られた教訓から導き出されているが、少なくとも本土空襲等同じような戦禍に塗れたはずの他の日本国の国民においてそれが極めて希薄化しているという実態には、一体如何なる納得できるような理由があるというのか、我々には到底理解しがたい。移住者の筆者には最早それが単なる大和民族の「喉元過ぎて」の低レベルな愚かしさとしか受け止め得ないでいる。中国に攻めていった(侵略した)のは君らの崇敬する爺様たちではなかったのか、関東軍の卑劣な陰謀があの望まざる泥沼戦争の発端ではなかったのか。そういう歴史的事実を忘却等閑視して、あるいはあろうことかこれらを否定して、殊更に対北、対中脅威を煽り軍事的拡大を企図する(旧日本軍の二の舞)右傾化した連中の、恐らくはおのれらの利のためにこそそうしている財界他安保マフィアの厚顔な自己正当化に乗せられて、あたら愚行を繰り返すその情けない、敗戦国ならではの国民性(臥薪嘗胆、捲土重来、汚名返上、名誉挽回)には嘔吐とともにげんなりうんざりさせられる。

 少なくとも、沖縄の反戦、反軍、非戦、避戦、厭戦における反基地闘争の背景には、県民の明らかな同じ意思(選挙結果は勿論世論調査でもこれを証明している)があり、一部活動家の「運動のための運動」などは限定的にしか立ち現れない(むしろそうした傾向をたしなめる風情さえ顕著であろう)。非暴力不服従は沖縄の場合、権力側のやり方が、高江辺野古のような暴力的弾圧的なものとして浮き上がるほどに徹底して精神化されている。そして何より、あの72年前のこの国が齎した残虐な戦禍は忘れようったって忘れ得ず、今なお日常的に反芻され、人々の耳目にさらされ、「戦争など絶対嫌だ」「戦争などしてたまるか」という気持ちに決定的な証拠を突きつけているのだ。これが本土と沖縄の違いだ。そしてそういう土地にこの国は殊更に軍拡行為を実践している。非常識、不人情、でたらめ、米国追従、と言われても君らは言い返せまい。そういう、到底許容できない、通常あり得ないことを君ら日本人は何気に差別的に、厚顔にしているのだよ。恥を知れ、ということだ。(つづく)

 



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