沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 「考える自由」を自ら捨てる人々

2019年01月04日 14時45分32秒 | 政治論

 現場近辺に活断層が走り、調査結果マヨネーズ並みの軟弱地盤と言われる大浦湾辺野古崎の一角に、これに先立ち、既に全国警察警視庁機動隊警備会社数百人を総動員して市民活動を排除し、暴力的に高江地区に設けたオスプレイのためのヘリパッドを有する、不要地返還という詐術を弄して縮小強化された北部訓練場と併せ、沖縄島北部一帯を広大な軍事拠点とする一大新軍事基地をでっちあげようという、日本国家政府の所謂「国家専権事項」(国家にそんな専権性の法的根拠はない)たる安全保障は、どうみても二重基準に基づく砂上の楼閣づくり(見た通り自然災害に弱くかつ自然環境を徹底的に破壊し、周辺航空機離着陸許容高さ基準に沿わない多数の建造物を等閑視した、滅茶苦茶な新設軍用飛行場)にしか見えず、多くの意味合いで安倍一流の「やっつけ仕事」(在任中に是が非でも仕上げたい懸案事項の私的な強行解決手法)という印象を拭えない。それは「オキナワ」に特化したこの国の偏頗で狭小な国策、明治以来の欧化的劣等感または対アジア優越の特権的思い上がりによる、甚だしく不健全な島国根性的国家施策にほかならず、それの最たる犠牲者である「琉球民族」の、留まるを知らない虐待弑逆境遇こそ、他の日本人が、おのれらの怠惰にして無責任な無関心から生じている、「未必の故意」的な犯罪性の高い事態だと自覚すべきものだ。

 安倍一派の右傾化は日本会議を母胎とする戦前価値復活、皇国史観踏襲、自民改憲草案通りの国民滅私奉公型国家主体のファシズムであり、「軍国化」「殖産興業」「大資本中心主義」を旨とする、トップダウン式馴化による「愚民化」策が基本の、先の大戦を招来した元凶たる所謂明治帝国官僚支配体制に立ち戻ることだ。我々は至る所でこの体制の基本である「官尊民卑」のデジャブ的光景を取り分けて沖縄において目にしてきた。取り分けて沖縄高江、辺野古、普天間、嘉手納等ではまさに「琉球処分」のデジャブそのものを体験する羽目になった。さながら昔日の、苦々しい日本国家による虐待の歴史が今に蘇る光景である。

 日本国民は、現在この安倍一派の動きを多くの政治的自己主張の一として見ている感がある。そして実際には彼らの実質的勢力は総体的有権者の2割弱にしか支持されてない。見た目よりはるかに、その時代錯誤は国民の眼には異様な、異常な跳ねっ帰りとして見られている、と思われる。だが、ヒトラーナチスのおぞましい実例は、こうした国民的良識乃至常識をいともたやすく組織的殺人的行為へ誘った、と教えている。つまり、ハンナ・アレント流に言えば、普通の市民的一般人が組織的に懐柔され馴化されれば、国家を上げた犯罪的行為さえ黙認黙過、剰えその実行協力密告等の裏切り行為に走ると警告する。つまり我々は、我知らず「仕方がないこと」として国家行為に加担するおのれの、「自由を奪われた」奴隷的な身分に、いともたやすく陥れられる危険にさらされているという現実があるのだ。

 どうすればいいか。既に歴史はこうした暴虐的巨魁に対してまるでそうすることが当然であるかのように抵抗し、闘い、不服従を貫いて痛ましく散った幾つかの実例を数えている。彼らもまた、普段はごく普通の市民であり、歴史に名を遺すような勇ましい烈士だったわけでは決してない。むしろその存在は消え入るような慎ましい生活に甘んじていた人たちだった。しかし我々は、彼らが何より大事にしたものが「自由」だったことを思い出すべきであろう。コルベ神父の話から学ぶべきは、彼が普段から心掛けた「考える自由」の全面的な支持とその確保のための勇敢な実践だ。神父のそういう生活態度から収容所での彼の捨て身の行為がいかに当然の帰結だったかがわかる。

 「自由」を得るために人はどんなに勇気を必要とするか、それは我々の普通の日常生活の中でいつも試されている。どんな暴力的権力者も思い通りにいかないのは、支配せんとする人間の、頭の中に芽生える「思考する自由」という敵だ。しかし多くの人は折角芽生えたそれを自分から否定し打ち捨てる、支配者の圧政によって。結果としてある種の組織に属する普通の職業人が、否応なく「悪への加担」という過ちを犯す。モリ・カケ・防衛省事件で我々は痛いほどその実態を見てしまった。勿論これを促す悪の張本人こそが最大悪なのは間違いないし、これを許容することは結局おのれの奴隷的身分を何気に忘却することでしかない。一方で、国家悪を「仕方なく」実行させられる組織的職業人には、多くのいじましい言い訳が残されているが、その行為の内容によっては「仕方なく」では済まない人間的な意味の責任問題に帰着する。

 同じウチナンチュである沖縄県警機動隊が、おのれらのおじいおばあが老体に鞭打って座り込む基地ゲート前へ大挙して乗り込み、無礼にも痛々しいご老体をごぼう抜きにして強制排除する醜い光景は、こうした組織的非人間的行為に普通の職業人を連れ込んで止まない国家の恐るべき破壊的犯罪性を予感させる。この光景が常態化するとあらゆる「考える自由」が力なく萎え、やがてそれを無感動に眺める「物言えぬ」「物言わぬ」沈黙する民の国に成り下がる、既にそうなってきている。(つづく)

 

 

 

 



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