post truthにおける非論理、非倫理、反知性、非理念と言えば、突き詰めればただのやくざ、チンピラ、ごろつき、ギャングの類にしかならない。今この国は、国政はじめ政治的権力をそういう類の勢力に何気に寄託しているし、其処から初めて警察、司法、行政、剰えメデア・マスコミ・ジャーナリズムまでもがこれになびいている。言ってしまえば、今回の日本学術会議新会員任命において、菅内閣が行った違法な人事権の説明のつかない行使(排除理由が開陳されない限り昔年の思想弾圧に匹敵する国家的行為)もまた、一連のposttruth的「(良識?警察?)あってなきがごとき」政治環境から説明がつく。これが現今自公政権の根底的な性格を明示している。
我々は、主に第二次大戦または15年戦争にまつわるあの時代に歴史的着眼点を置き、「戦前価値復活」「皇国史観再生」「歴史修正主義」という、そういう明らかな傾向にある「日本会議」直系の自公系保守政治勢力のすること、為すこと、口にすることに、明治維新以来の近代日本がして来た、多くの負の事跡のデジャブをいやが上にも見出して、体験も経験も絶無か希薄な戦無世代ながら、我々自身の歴史的追体験や想像力の連続的発展的な全面的展開により、これらへの警世的警告的反攻を企図しない訳には行かなくなってきている、という立場に置かれていることになる。我々、というのは民俗学にいう「常民」であり、知的な意味では「常識」人のことだ。
勿論、例えば北一輝、大川周明など所謂国家主義(超国家主義)の泰斗と目される思想家並みの、純粋に指導的な理論なるものを今この国で見つけることは容易ではない(というよりそもそも右翼に理論などないわけで)ので、無思想、無知、という誹り以外現今似非国家主義者に向けて発するものはない。ついでに言えば昭和45年の三島事件で、この国のそういう思想方面はその後完全に亜流化するしかなかったと思われる。
アベイズムという、空気感染のようなパンデミックが発生し、この国の8年間を汚染の非アンダーコントロール下においた安倍晋三が、本物のパンデミックである殺人的新型感染症の猛威(コロナ禍)によって、その危機管理能力欠如をその周辺ともども暴露せしめ、かくして無様にその政治的野望を、以前と同様再び潰えた格好で空しく消えたわけだが、恐らくはその下支えとでも形容すべき立ち位置で、本来的な野望なき(目指すべき国家像や目標を元々持たない宰相)ままにポピュリズム的に場当たりな諸策をさも深慮遠謀から導いたとでもいうように、そのサメのような死せる顔貌にうつろな眼を蠢かして、安倍同様事あるごとに国民の耳目を塞いで好き勝手し放題の権力の亡者になるというのが見えている、菅の末路への道だ。
「憂国」は古い治国平天下の国士的情熱であろうか。それはしかし国というものに対するある心情なしにはあり得ない話だ。ある心情とは一種の「愛国心」だと言えるが、しかし、抑々「国」とは何かということに関して一定の定義がなければ成り立たないはずの極めて曖昧な心情だと言えよう。「日本」という国名が世上に浮かび上がるとき(ノーベル賞、あるいは国際競技などでのこと)、我々が故知らず感じる拍手喝采などのそれはしかし、この愛国心とは別物だと思われる。自然発生的なものでなく、やはり「国」というものに対する個別の明確な意識なしには説明がつかないのだ。すると、この「国」という実体のない名称(勿論国体などというものではない)に我々が見るのは、我々の中に醸成された後発的観念というものだと言わざるを得ない。当然ながらこの「国」に対して我々が要求するのは、観念であるがゆえに言える「理想」というものであり、「理想」から外れていく「国」に対する「憂国」が一般心情だ。「愛国」を胡散臭いものだと思うのも、自称「愛国者」どもがいう「国」が、多面的に考えられた「国の在り方」に添ってないからだ(保守主義の論理的矛盾)。若干乱暴な言挙げになろうが、野党合同ヒアリングなど聞いていると、公僕たる官僚たちに決定的に欠けている「国民向け」の視点であり、取分け安倍内閣以降目に余る逆賊的言動の数々が、我々一般国民の「国」に抱く一種の「理想像」から苦々しくも乖離していると思うことだ。そしてこれを強制的に助長しているのがアベスガイズムにほかならない。
いずれにしろ、戦後日本のあげて重大な危機を意味するこのコロナ禍の中、リアリテイのない(現に実を上げることがない)、従って当然に目指すべき国柄が見えない、更には「理想」をどぶに捨てて顧みないこの現行政権を支持する日本国民の自ら自分の首を絞める行為は、到底座視すべからざる様相を呈してきている。しかしながら戦後75年は永すぎた冬であった。凍えきった国民に雪解けはあるのだろうか。(つづく)