沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩632 日米政府と沖縄の在り様 22

2018年04月17日 14時37分50秒 | マスコミジャーナリズム

「沖縄ー或る戦時下抵抗」 -当山昌謙と灯台社-  高阪薫著 麦秋社刊

「慰安婦たちの太平洋戦争」沖縄編 山田盟子著  光人社刊

 キリスト者は、新約聖書に伝説的に記述(四福音書)されているイエスという人に心打たれ、その教えに付き従い、単独者として人間として「生きる」道を聖書と共にありながら歩むべく、その人生における全てを撰取った者、という意味になる。戦時中応召され、戦場にあって、上官の命に従い、殺し殺されるという現実は、如何ともしがたく彼を試す場面として当然想定される。しかし、「汝、殺す勿れ」は十戒の一であり、同時に「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」からすれば、敵でなく銃口は空に向けられる以外はない。当山はそのキリスト者として「試される」現実をできるだけ避けたいが、実際、現実にはそういう場面に遭遇せずに済んだ。神は彼をそういう試練に立たせるべき必然から、彼を遠ざけた?だから彼は想像の中で「そういう場面にあったら自分ならどうするか」と自問自答する(神の前の単独者であるキリスト者ならその自問は極めて切実であろう)。一方、実際に現人神の天皇を拝せと言われ、(唯一神エホバ以外に神はないと)これを拒否するという試練がある。彼はそういう場面で天皇拝跪を拒否し、同時に、この戦争(太平洋戦争)自体を「主の教えに反する」と否定した。それで、当時の特高に捕縛され(治安維持法から、キリスト者の現状否定思想を指摘し立件)、沖縄の監房に収監された(沖縄戦時、彼はここで「鉄の暴風」の渦中に否応なく巻き込まれる)。一方兵役を拒否しなかったので、戦時下の彼の兵士としてのふるまいにつき、軍法会議は彼を訴追したが未決のまま終戦に至る。

 既成のキリスト教会が、積極的に反戦運動を起こし、人命救助等の活動や他者の危難回避画策を講じたかと言うとほぼゼロに等しい、と言われる。これは日本ばかりでなく大戦時の諸外国でも同じだったらしい。時のローマ法王などは一時積極的とさえ言えるほどヒトラーナチスのやり方に協力的だったと言われる(戦後厳しく糾弾された)。思うに、当山が指摘するように、教義的教会的に世界に流布した所謂宗教としてのキリスト教は、永らく現世的思惑の誘惑に抗し得ず、徐々に聖書の原点から大きくはみ出し、遠ざかり、反対に体制順応型の無力な、教会的な拠点思想に堕して行った。当山氏が苦闘したのはまさにこのことに掛っていて、もし聖書中の重要な教訓に現実に従えないとすれば、結局はキリスト者など名ばかりの単なる人間的な弱さで終わってしまう。

 先の大戦時、キリスト者として聖書の原点に絶えず立ち戻ろうとして、結果的にだが彼は反戦的抵抗の姿を見せている。実はあの戦争は、世界化したはずのキリスト教自体を鋭く切実に試していた、ということだ。ところで、アメリカ合衆国はクリスチャンの国だというが、君らのやっていることはまさに聖書中のイエスに逆らうユダそのものの行為なのだよ。ユダは自らこれに気づいて耐えきれず縊死する。(つづく)

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。