「沖縄謀反」鳩山友紀夫、大田昌秀、松嶋泰勝、木村朗編著 かもがわ出版刊 2017年8月
大田昌秀氏は2017年6月12日逝去
絶望感というものを実感として味わうこの状況を例えば移住者の残された余生の中でどう考え対処し、解消すればいいのか。50年ほど以前、高校生の筆者はベトナム戦争の惨状を見聞きし、「ベトナムに平和を」のプレートを通学自転車の前に付けて登校することにした。道行く人は「これは大変なことになった」などと言っていた。当時、こういうことをする高校生は東北の片田舎ではまず殆どいなかったので、筆者は気恥ずかしさや決まりの悪さをいつも感じながら登校する羽目になってしまったのだが、何となく3年間これを続けることができた。程なく米軍はベトナムから撤退し、筆者の、最早文字すら消えかかったプレートは自転車から外された。同級生がそれを指摘し「外すのかい?」というので、「一応効果はあったから」と答えたと記憶する。
説明するまでもないが、当時、国際世論も又「ベトナム反戦」の旋風が吹き荒れ、米国内でもこれが盛り上がっていたので、我々一般人にはある種の問題解決の「希望」が自然にあって、筆者のような若年者の発作的な「正義感」さえ引きずり出し得たのである。そこに例えば言葉にできる普遍的な標語など元々なかったのであり、「平和」という言葉の内容も何らかの実際的な検証を経たわけではなかった。つまり、その後、世は学生運動という時代思潮洪水が横溢し、まるで流行性感冒のようにパンデミック化したのだが、筆者は、大学入試中止となるような世情のなか、ほどなく一切の「希望」が個人的にも消滅する体験と共に、「現実主義」的な醒め果てた情感のうちに、若き日の愚行の走りである「正義感」からも逸脱していった。
移住先の名護市の図書館で、今思えば一切の現在が始まったらしい。正確にはその図書館から借りだした数10冊の「オキナワ本」が、筆者の今を決定づけた、ということか。
個人的な話はここまでだが、どうもみても個人的でない話がこれから延々と続く。それはいつか解消する「希望」を含む話でなく、到底及びもつかぬ「絶望」を抱えて這いずり回る話だ。勿論筆者には、戦争のことなど、何ら身近に転がっていたことなどない。高度経済成長期の前段階に「尋ね人」なるラジオ番組を耳にしたばかりで、総じて戦争の影はまるでやってこなかった。しかし、頭の中では毎年の8月15日の循環のうちに戦争意識は情報的に醸成された。沖縄は、本土内地ヤマトゥの生存生活の中には何ら、その姿を現さなかったが、先述の学生運動雰囲気のうちには「屋良主席誕生」のニュースも我々に届いたし、高校の同級生は少なからず歓喜の声を上げたのだった。しかし、成長するにつれ沖縄は忘れ去られた。恐らく団塊の世代もそれ以前、それ以後も、沖縄は本土内地ヤマトゥの日本人には「忘れ去られた」存在となっていったはずだ。しかしこのことが、実は今の沖縄の「絶望」に、重大で抜きがたい底流を加えている。そうとしか思えない
本土内地ヤマトゥの日本人に拠って「絶望」的な境遇に置かれた沖縄(この言いぐさは沖縄の人には鼻白む臭い言いぐさだが)は、司法・立法・行政三権の非分立体制(安倍一強独行体制....恐らくは皆そう思い込まされた、内容も実体もないものだ)において現実に救いがたい囲い込みに遭い(実際辺野古は護岸工事で囲い込まれようとしている)、日本国憲法への復帰としての沖縄返還が今になって何の意味もなかった、という事態を経験している。だから、仲井真承認の撤回さえ、司法の「統治論」に斥けられる畏れを抱きながら今県の心根をじわじわいたぶっている。それは、民主制選挙の結果に関わらず強行されている辺野古工事に代表される、日本国家の明らかに「非民主的な」政治、思潮、情勢が然らしめた、沖縄特有の「絶望」として筆者には受け止められた。そしてその度し難い絶望感は、ほぼ知性の欠片もないpost truth現象の中で悶絶する気配だ。
いずれにしろ、かつてベトナム戦争における米帝国主義への世界中挙げての闘争が勝利したように、日本政府が馬鹿の一つ覚えで繰り広げる、何らの正当性もない辺野古工事のかつてない蛮行は必ず大団円を迎えるだろう。沖縄の人たちを馬鹿にするがものではない。安倍ごときのへっぽこ恣意政治に誰が負けるか。移住者で、沖縄に脳手術された筆者は、最早、究極の「希望」に賭ける以外の何の希望もこれなきことを思う。しかし、未だに我が余生への確かな視野は開けていない。(つづく)