読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

歎異抄に学ぶ

2008年02月24日 | 読書

◇「私訳 歎異抄」五木寛之 [東京書籍2007年9月第1版1,200円]
 刊行から既に五ヶ月も経ってしまったが、気になっていた本を漸く買い求め、
 読み始めている。小説ではないので細切れで読んでいる。
 「歎異抄」という古典の存在は、多分中学校あたりで知識として知ったと思う
 が、積極的に読んで見ようという気持ちにならないまま今に至った。

 「歎異抄」は1287年頃、親鸞の教え(親鸞の仰せごと候ひし趣)について、
 その弟子唯円が著したものとされている。親鸞の没後25年に当たる。「教行
 信証」などの親鸞自身の著作よりも親鸞の教えの真髄をよく表わしているとし
 て評価されている。原典は、前序後序のほかわずか18章、読み下し文で35
 ページほどの短いものである。
 序
 「竊回愚案、粗勘古今、難異先師口傳真信、思有後学相続疑義・・・」
 写本はあるが原本は存在しない。

 「善人なほもって往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」
 第3章にあるこの段を読んだとき、おや、キリストと同じようなことを言っているで
 はないかと思った。「貧しいものは幸いなり。金持ちが天国に入るのは駱駝が
 針の穴をくぐるより難しい。」言葉こそ違え、趣旨は同じなのではないか。
 歎異抄ではこう続けている。
 「しかし、世間の人びとは、そんなことは夢にも考えないし、言わないはずだ。
 『あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽
 往生するのはきまりきってっていることではないか』こういうところが、普通一般
 の考え方だろう。」・・・(本書18ページ)実にやさしく説明してくれている。
  この教えの根底には、人間は本来罪深い存在である。という「原罪」思想があ
 る。ますますキリスト教の教えに近づいてくるではないか。
 「悪人正機説」浄土真宗の一番の要点とされるところである。

 弥陀の本願、本願他力、摂取不捨・・・元来が宗教書であるが故に仏教用語が
 頻出するが、五木寛之氏はこれを噛砕き、分かりやすく教えてくれる。文節や
 行間の深遠なる思惟の流れを捉え言葉にするところはさすがである。

 われら罪深き「煩悩具足の凡夫(悪人)」はひたすら念仏を唱え、弥陀の本願す
 なわち慈悲の心にすがれ。まだわずか数章であるが、これが今まで読んだ「歎
 異抄」の印象である。

 書棚には「正法眼蔵随聞記」がある。これは長女が大学で教材として買ったも
 ので結婚の際の置き土産である。曹洞宗開祖道元の弟子孤雲懐弉が、師に随
 侍した嘉禎元年から四年間(1235~40)の記録とされる。在俗信者を含む初心
 入道者向けということでは、歎異抄に似た性格の書である。歎異抄とほぼ同時
 期の宗教書である。これはまた「学道の至要を聞くに随って記す」だけにやや専
 門的で歯応えがあってなかなか進まない。 

 

  
  
 
 

コメント
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