久しぶりの更新となりました。
ちょっとこの1週間はバタバタしておりまして…。パソコンすら開きませんでしたので、更新することはおろか、コメントの返信すら滞ってしまいました。すいません。
先週、祖父が亡くなりました。
非番で研修に行くはずだった日、次男が熱を出して保育園を休ませると嫁から連絡が。研修をキャンセルして家に帰って次男を小児科へ。
小児科の受診待ちの間に母からメールが来まして、祖父が危篤だと。さすがに熱を出した次男を連れていくわけにも行かず、かと言って嫁は仕事で戻ってこれないため夕方までは身動きがとれず。
小児科の受診を終わらせて次男を昼寝させて。遠方(北九州)のためすぐに駆けつけることも難しい。
嫁が帰ってきて急遽身支度をして、北九州まで行ってきました。
いつかのブログにも書いたと思いますが、色々な事情があって私が祖父の存在を知ったのは就職してからの話。
中学生の頃に父方の祖父を亡くし、もう私に『おじいちゃん』はいないものだと思っていましたが、実は存在していた。でも、病気を患って先が長くないと知って会いに行ったのが8年ぐらい前の話。
結婚する前も事あるごとに九州へ顔を見せに行ってきた。結婚して子どもが産まれる度にも顔を見せに行ってきた。その度にだんだん身体も弱ってきているのかなとは思っていたけど、食欲はあったし元気もあったから少しは安心した部分もありました。
でも、とうとう最期の日がやってきた。日付が変わるちょっと前に北九州に到着し、そのまま1泊。翌朝私が駆けつけた時、病院のベッドで酸素投与、モルヒネ、点滴、モニターのコードがいくつか繋がれている状態。もう呼びかけに反応することはありませんでした。
酸素バルブは既に全開、でも数値は良くないし、血圧も低い。脈も速いし呼吸も徐呼吸。もうこのまま息を引き取るのを待つと言う状況でした。
病院にいる間時々は呼びかけてみたけどやっぱり反応はせず。でも、聴覚だけは死亡後も少し残ると言う話を聞いたことがあるから、たとえ目を開けなくともずっと話しかけてはいました。
どうしても都合がつかず、私はその日のうちに帰らなくてはならなかった。私がいる間は容体がそれ以上悪くなることはなく、持ちこたえているように感じた。
飛行機の時間が近づいて、帰り際に『息子たちの写真、置いて行くから目を開けて見てね、またね』って言って病室を後にしました。
さよならだとやっぱり悲しくなるから。
帰り道、やっぱり色々な思いが込み上げてきました。
初めて九州に足を踏み入れたのもおじいちゃんがいたから。私の実家は隣町ですし、祖母も実家から歩いて行ける範囲にあるため、田舎と言うものが私にはなかった。
8年と少しの短い付き合いだったけれども、九州に行く時は田舎に帰る感覚でした。会う度にだんだん身体は弱っているのかなって複雑な気持ちもあったけれども、楽しみもあった。
運転こそ私がしたけれども、色々なところに連れて行ってもらった。色んな話もしてもらった。もし、こっち(地元)におじいちゃんがいれば、九州は単なる観光地だったかもしれなかったけど、おかげで思い出の地になった。でも、それももうおしまい。
空港に着いて母に連絡を取った時はまだ頑張っていた。
そこから電車に乗って自宅に戻って、そこから30分もしないうちに息を引き取ったって連絡を受けました。最期まで眠るように、穏やかな顔で逝ったって。
九州に行って帰る度に、どんなに遅くなっても良いから着いたら必ず電話しろ。それまでは起きてるからって毎回言ってました。
今回もそうだったのかな。私が無事に自宅に戻るのを待っててくれたのかもね。
お墓が京都にあるため、納骨はそこにする予定。九州に行くきっかけも何もなくなってしまったけど、頃合いを見てまた訪れようと思います。
おじいちゃんに案内してもらったところを今度は私が子どもたちに。2歳の次男には記憶にないかもしれないけど、4歳の長男の記憶にはひいおじいちゃんの存在はしっかりと刻まれていますしね。
ある程度覚悟はしていたけど、いざ亡くなるとやっぱり悲しいですね。少し時間が経ちましたが、まだ虚無感は少し残っています。でも、泣くだけ泣いたら後は笑う。
子どもにもそう言ったんだから、私も実践しないとね。残った人間はまた前に進んで行かなきゃ。
私の仕事柄常々思っていたことですが、明日があることってとてもありがたいことなんだと。当たり前に思っちゃいけないんだと。
おじいちゃんの死から、改めてそう思いました。
そんなわけで、せっかく頂いたコメントのお返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。
疲れもやっぱり出てきたのか、咳も出るし体調もいまいち。タイミングが良かったのか次当直はお休みを取っていましたので、ゆっくり休むことに専念したいと思います。
頂いたコメントのお返事も、明日改めてさせて頂きますのでもう少々お待ちください。
梅雨入りして雨も多いし気温差もあったりします。
風邪などひかぬ様、お身体を大事になさってくださいね。
ちょっとこの1週間はバタバタしておりまして…。パソコンすら開きませんでしたので、更新することはおろか、コメントの返信すら滞ってしまいました。すいません。
先週、祖父が亡くなりました。
非番で研修に行くはずだった日、次男が熱を出して保育園を休ませると嫁から連絡が。研修をキャンセルして家に帰って次男を小児科へ。
小児科の受診待ちの間に母からメールが来まして、祖父が危篤だと。さすがに熱を出した次男を連れていくわけにも行かず、かと言って嫁は仕事で戻ってこれないため夕方までは身動きがとれず。
小児科の受診を終わらせて次男を昼寝させて。遠方(北九州)のためすぐに駆けつけることも難しい。
嫁が帰ってきて急遽身支度をして、北九州まで行ってきました。
いつかのブログにも書いたと思いますが、色々な事情があって私が祖父の存在を知ったのは就職してからの話。
中学生の頃に父方の祖父を亡くし、もう私に『おじいちゃん』はいないものだと思っていましたが、実は存在していた。でも、病気を患って先が長くないと知って会いに行ったのが8年ぐらい前の話。
結婚する前も事あるごとに九州へ顔を見せに行ってきた。結婚して子どもが産まれる度にも顔を見せに行ってきた。その度にだんだん身体も弱ってきているのかなとは思っていたけど、食欲はあったし元気もあったから少しは安心した部分もありました。
でも、とうとう最期の日がやってきた。日付が変わるちょっと前に北九州に到着し、そのまま1泊。翌朝私が駆けつけた時、病院のベッドで酸素投与、モルヒネ、点滴、モニターのコードがいくつか繋がれている状態。もう呼びかけに反応することはありませんでした。
酸素バルブは既に全開、でも数値は良くないし、血圧も低い。脈も速いし呼吸も徐呼吸。もうこのまま息を引き取るのを待つと言う状況でした。
病院にいる間時々は呼びかけてみたけどやっぱり反応はせず。でも、聴覚だけは死亡後も少し残ると言う話を聞いたことがあるから、たとえ目を開けなくともずっと話しかけてはいました。
どうしても都合がつかず、私はその日のうちに帰らなくてはならなかった。私がいる間は容体がそれ以上悪くなることはなく、持ちこたえているように感じた。
飛行機の時間が近づいて、帰り際に『息子たちの写真、置いて行くから目を開けて見てね、またね』って言って病室を後にしました。
さよならだとやっぱり悲しくなるから。
帰り道、やっぱり色々な思いが込み上げてきました。
初めて九州に足を踏み入れたのもおじいちゃんがいたから。私の実家は隣町ですし、祖母も実家から歩いて行ける範囲にあるため、田舎と言うものが私にはなかった。
8年と少しの短い付き合いだったけれども、九州に行く時は田舎に帰る感覚でした。会う度にだんだん身体は弱っているのかなって複雑な気持ちもあったけれども、楽しみもあった。
運転こそ私がしたけれども、色々なところに連れて行ってもらった。色んな話もしてもらった。もし、こっち(地元)におじいちゃんがいれば、九州は単なる観光地だったかもしれなかったけど、おかげで思い出の地になった。でも、それももうおしまい。
空港に着いて母に連絡を取った時はまだ頑張っていた。
そこから電車に乗って自宅に戻って、そこから30分もしないうちに息を引き取ったって連絡を受けました。最期まで眠るように、穏やかな顔で逝ったって。
九州に行って帰る度に、どんなに遅くなっても良いから着いたら必ず電話しろ。それまでは起きてるからって毎回言ってました。
今回もそうだったのかな。私が無事に自宅に戻るのを待っててくれたのかもね。
お墓が京都にあるため、納骨はそこにする予定。九州に行くきっかけも何もなくなってしまったけど、頃合いを見てまた訪れようと思います。
おじいちゃんに案内してもらったところを今度は私が子どもたちに。2歳の次男には記憶にないかもしれないけど、4歳の長男の記憶にはひいおじいちゃんの存在はしっかりと刻まれていますしね。
ある程度覚悟はしていたけど、いざ亡くなるとやっぱり悲しいですね。少し時間が経ちましたが、まだ虚無感は少し残っています。でも、泣くだけ泣いたら後は笑う。
子どもにもそう言ったんだから、私も実践しないとね。残った人間はまた前に進んで行かなきゃ。
私の仕事柄常々思っていたことですが、明日があることってとてもありがたいことなんだと。当たり前に思っちゃいけないんだと。
おじいちゃんの死から、改めてそう思いました。
そんなわけで、せっかく頂いたコメントのお返事が遅くなりましたことをお詫びいたします。
疲れもやっぱり出てきたのか、咳も出るし体調もいまいち。タイミングが良かったのか次当直はお休みを取っていましたので、ゆっくり休むことに専念したいと思います。
頂いたコメントのお返事も、明日改めてさせて頂きますのでもう少々お待ちください。
梅雨入りして雨も多いし気温差もあったりします。
風邪などひかぬ様、お身体を大事になさってくださいね。
しっかりとやすまれましたか?お母様もやすまれましたかしら??お母様の方が少し心配…。ムサシさん、ごめんね。
息子を授かった春に、母が他界しました。
昭和な彼女は、それはそれは厳しい人でした。そして、乳幼児にはとても甘い母でした。
自分の事は後回し。いつも、お父さんがお父さんがと父をたてていたバツイチ母ちゃん。
娘の七五三参りのあと入院して、半年もたなかった。
入学式どころか入園の姿も見せてあげれなかったなぁ~。
『パパ』『ママ』よりも先に『あかほし』と言う言葉を発した娘に
病床から『赤星、応援しておいでなぁ』と送り出してくれたっけ。
日にち薬のおかげで、元気に過ごせています。それが一番の贈り物だと思うから。
『またね』
私もよく使う(笑)
どの場面でも、さよならは会えなくなりそうで、使いたくないですね。裏を返せば、私がさよならを口にするときは。それ以上はやめておきましょう(^_^)
こちら本日も快晴です。
火災事案があったらちょっとヤバいかもデス。水利確保できないかも。
ムサシファミリーも、ムサシさんのご両親も。ご無理なさりませんように。
またね。
でも、最初にそんな話を聞いてから8年とちょっと。よく頑張りましたよ。本当は去年12月までは持たない…って話だったんです。そこからさらに半年も頑張った。
今は、お疲れ様の気持ちの方が大きいですかね(^^)
納骨の時には、好物の生まれ育った故郷の有名どころのシュウマイを手土産に、行けたら良いなと思います。
置いとくわけにもいかないので、私があとで食べる予定ですけど(笑)
長男も3回ぐらいしか会ってないんです。でも、記憶にはしっかり残っており、亡くなった際にはひどく落ち込んでいました。
前述しましたが、いつかは死が訪れるもの。身近な人の死は彼にとっても試練でしょう。でも、時間が経つのが一番の薬なのでしょうね。
2年前の震災の直後も繋がるまでずっと電話をかけ続け、心配してくれてました。病室においてあった携帯電話の待ち受け画面は、息子たちの写真になってたっけ。
意識を無くす前日、お世話になった病院スタッフの方に手紙を書いていたそうです、ありがとうって。母が言うには、もうじき意識を無くすだろうから、その前に…と。本人も、もう本当に最期だと悟っていたのかもしれません。
自分も具合が悪いのに、それ以上に人の心配をする。私の母がそう言うタイプなのですが、そのルーツはここにあったんだなって思いました。
最初は行くつもりなかったんです。次男が風邪ひいてたし、置いて一人だけ行くわけにもいかないし。でも、内心はせめて最後に一目会っておきたかった。
そんな気持ちを嫁は汲み取ってくれ、送り出してくれました。ありがたかったですね
病院から帰られたあとに息をひきとられたというのは、やはり、言葉で反応がなくても声が届いていたのかも知れませんね。
私も祖母が入院中ですが痴呆も入ってきて、これから人生の最後を迎えるまで、大変です。母方の祖母ですが、いろいろと勝手ばかりをしてきた祖母に苦労してきた母のことを考えるとしんどくなります。母にとっては実の母。文句を言いながらも身内なので知らん顔もできない複雑な心境なのだと思います。
どんなことがあっても生き抜くしかありませんし、人生を振り返り良かったと思えるかは自分の生き方次第ですよね。
私も4月から異動で別の保育所へ。ところ変われば気を使い疲れることも多々ありますが3ヶ月目でやっと、慣れてきた頃です。
このままでいいのかな…私はどんな生き方をしたかったのか…後悔もありますし不安にもなりますが生きていると信じられない奇跡に出会うこともあるんだということを実感することもあります。
前向きに生きていくことなんだなって思います。
お疲れが出ませんように…。ご冥福をお祈りします。
追伸
消防士の彼が元気でいることを最近、知ることがありました。 少し、安心しました。
私も少々体調に難アリ?な気もしてますが、新しい職場でも何とか上手くやっています。
もう長くない…から8年9年、最後に会ったのが昨年9月。その時がもう本当に最後なのかなとは思ってましたが、時々連絡取ってはまだ元気そうだったので少し安心した部分もあったんですけどね。
人生まだまだやり残した事がある。それまでは何があっても生き抜かねばと思います。今までに後悔もたくさんしたけれど、いざ人生終わる時に『これで良かった』と思えるような生き方をしたいですね。
彼はお元気でいるのが確認できたんですね?直接連絡取っているのかな?
どんな形であれ、自分に縁あった人が元気で過ごしているって分かるのは良いですよね(^^)
私にも最近、そんな出来事がありましたよ
何故か、ムサシさんのブログにたどり着きました。
骨髄バンクの記事、全部拝読させていただきました。
とても感銘を受けました。ありがとうございました(*^_^*)
私は、事務系ですが、16年間、医療系のお仕事をさせていただいてます。
この仕事が大好きです(*^_^*)
私も、娘と息子がいますが、息子の出産時に生死を彷徨いました。
通勤途中に大量出血し、常位胎盤早期剥離で緊急帝王切開により出産しました。
その際は、救急隊の方や、駅員の方にもお世話になりました。
まさか、自分があのようなお産になるとは思いもせず・・
病院で、目の前にいる患者(私)と、お腹の中で呼吸ができていない息子を必死で救おうとしてくれた医師や、ナースの方々のお顔は、今でも忘れません。
日常の生活に「当たり前」などというものはなく、普通に過ごせている事に感謝なのだと、あの時ほど感じたことはありません。
障害が残るかもしれないと言われた息子は、お陰様で何事もなく、すくすくと元気に育っております(*^_^*)
ムサシさんがご自分の身体を傷付けてまで救おうとされた、大切な大切な一つの命。
その勇気と、強さと優しさに、感動いたしました(*^_^*)
ご両親、奥様、お子様達は、そんなムサシさんを、とても誇りに思ってらっしゃることでしょうね(*^_^*)
もちろん、ムサシさんご自身は、決して誇りに思われたくてドナー登録や、提供手術をされた訳ではないということは、承知しておりますが(*^_^*)
また、ムサシさんのブログを拝読させていただく日を楽しみにしております(*^_^*)
暑い日が続きますので、お身体にはくれぐれも気を付けてくださいね(*^_^*)
息子さんの出産に際し、大変な思いをされたのですね。でも、今が無事ならば本当に良かった。息子さんも何事も無く無事に成長されていることに私も嬉しく思います
学生の頃から献血はずっとやってましたので、たとえ消防職員として働いてなくとも骨髄バンクへは登録していたと思います。たまたま消防職員として仕事をし、そこで『命』接する機会が多々あるために、明日があることがありがたいことなのだとより思うのかもしれません。
何事も健康で過ごせることが一番…かな?
先日、一家揃ってダウンしましたので、余計にそう思うのですが(笑)
またどうぞ、お越しくださいね
九州っていうのもビンゴ
みんな知ってるよ、このブログのこと
救急の情報漏らしすぎでやばいよ先輩