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Donald O’Connor - ボードビルから映画スターへ!

2005-11-08 12:58:01 | Musical 往年の名優
Michael君(マイケル・グルーバー)がすでに7回も主役のDon(ドン)を演じた「Singin’ in the Rain」。タイトル・ソングをはじめ、素晴らしいナンバーがいっぱい使われています。特に、ドンの相棒のCosmo Brown(コズモ・ブラウン)が披露する”Make’em Laugh”は、一度見たら忘れられない素晴らしいダンスナンバーです。今回は、映画でこのコズモを演じたDonald O’Connor(ドナルド・オコーナー)をご紹介致しましょう。(写真は、「Singin' in the Rain 雨に唄えば」 の撮影現場をフレッド・アステアが訪問した際の写真です。左から、ドナルド・オコーナー、ジーン・ケリー、フレッド・アステアです。)

彼の本名は、Donald David Dixon Ronald O'Connorといい、1925年8月28日にイリノイ州シカゴで、アイルランドから移民してきたボードビル一家に7人兄弟の末っ子として生まれました。父のJohn Edward "Chuck" O'Connorは、サーカスでアクロバットや飛び降りのパフォーマンスを見せていました。また母のEffie Irene Crane O'Connorも、裸馬の騎手やダンサーとしてサーカスで活躍していました。結婚して家族を持つようになると、2人は、サーカスを離れてボードビルの世界に転向しました。”The O'Connor Family - Royal Family of Vaudeville”と名乗って、コメディありアクロバットありのパフォーマンスを演じるようになったのです。
7人兄弟のうち、3人は若くして亡くなりました。特に、姉のアーリーンは、6才の時に、当時1才3ヶ月だったドナルドと一緒に道路を渡っていて車にはねられ、ドナルドは助かったものの、彼女は命を落としてしまいました。
また、この事故の数ヶ月後には、47才だった父親のジョンが、心臓発作のために、ステージの上で亡くなってしまいました。この度重なる悲劇の中、母のエフィは、自分が中心となって残された子供達と一緒に、ボードビルの興業を続けて生計を立てました。しかし、エフィは、娘を亡くした悲しみから完全に立ち直ることはできず、残された子供達、特に末っ子のドナルドを守ろうと必死で、彼女は、彼を片時も自分のそばから離そうとはせず、事故のショックから、ドナルドが13才になるまで、彼が一人で道路を渡ることを禁じていました。
一度、友達でミュージカル女優のジュディ・ガーランドを母に紹介しようと劇場に向かっていたドナルドが、母との約束を忘れてうっかり道路を渡ってしまったことがあり、怒ったエフィは、ジュディ・ガーランドの目の前で、息子の頬を思いっきりひっぱたいたそうです。

ドナルドの映画デビューは、12才の時で、ワーナー・ブラザーズのミュージカル「Melody for Two (1937)」に、彼の兄のジャックとビリーと一緒に出演しました。1938年から1939年にかけて、11作もの映画にしたドナルドでしたが、1939年に兄のビリーが、猩紅熱のために26才で他界してしまいました。オコーナー一家は、ちょうどオーストラリアでの興行を控えており、ビリー亡きあとは、ドナルドだけが頼りだったため、彼はハリウッドからボードビルの世界に舞い戻り、1942年の初め頃まで古巣での活動を続けたのです。

1942年にシカゴのStratford Theatreに出演していたドナルドに、再び映画界進出のチャンスが訪れました。ユニバーサル・スタジオが「What's Cookin’ (1942)」に出演する若手ダンサーを探していたのです。ボードビルの世界では、物心がつく前から踊っていたドナルドでしたが、正式にレッスンを受けたことはなく、ステージで共演したダンサー達のステップを見よう見まねで覚えたダンスでした。ユニバーサル・スタジオが新しく結成した「The Jivin' Jacks and Jills」という若手のダンス・グループに入ったドナルドは、初めて正式なダンスのレッスンを受けました。基礎となる基本的なステップを知らないドナルドは、慣れないレッスンにだいぶ苦労したそうです。
「What's Cookin’」では「The Jivin' Jacks and Jills」としかクレジットされませんでしたが、Bakersfieldでの先行上映では、その素晴らしいダンスで観客の注目を一身に引きつけてしまいました。ユニバーサルが観客に配布したアンケートの多くには、「あの髪の色の濃いカップル(ドナルドとパートナーのペギー・ライアンのこと)は誰?」という質問が書かれていたのです。

こうしてユニバーサルの若き人気俳優となったドナルドでしたが、18才の時に、再び映画界から離れることになってしまいました。徴兵され、陸軍に入隊したのです。軍務についたドナルドは、彼にぴったりの特別任務を与えられました。他の兵士達のために、パフォーマンスを披露したのです。軍隊に所属していた間に、ドナルドは、3,000回もステージに立ちました。彼の観客のほとんどは、負傷して本国に送り返されて来た兵士達でした。彼らに笑顔を取り戻してやることが、彼の仕事だったのです。軍部は、彼を将校にしようとしたのですが、「兵士達を楽しませるのが僕の仕事なのに、彼らの仲間でなくなってしまったら、どうやって楽しませることができるんだ?」と考えたドナルドは、申し出を断ってしまいました。しかし、ドナルドが兵役を終えて軍を離れる寸前に、軍部は、彼を上等兵に昇格させました。
入隊する前日の1944年2月7日、ドナルドは、幼なじみで、当時17才だった女優のGwen Carter(グエン・カーター)と結婚しました。1945年8月には、ドナルドとグエンの間に、長女のDonna Gwenが生まれました。

ドナルドは、1946年に兵役を終えて普通の生活へと戻り、翌1947年に映画界へと復帰しました。復帰後初めて出演した映画は、当時、ユニバーサルの看板女優だったDeanna Durbinと共演した「Something in the Wind」でした。
その後、いくつかのマイナーなミュージカルに出演したドナルドに舞い込んで来たのは、ラバとの共演でした。1949年に第1作目の「Francis the Talking Mule」が撮影され、1950年に公開されました。この映画が大ヒットとなり、最初は1本だけのつもりで出演したドナルドは、その後6年間に渡って、毎年ラバと共演することとなりました。
このシリーズの大ヒットのおかげで、ユニバーサルには大金が転がり込み、ドナルドの知名度も上がったのですが、彼が本来やりたかったのはミュージカル映画で、ラバとの共演ではなかったのです。素晴らしいミュージカル映画に出演した後に、またラバとの共演に戻らなくてはならないというのは、次第にドナルドにとって苦痛以外の何ものでもなくなっていきました。
特に、ドナルドにとって悔やんでも悔やみきれないことは、このラバとの共演のせいで、「White Christmas (1954)」での大役を棒に振るハメになってしまったことでしょう。いくつかの資料には、彼が「肺炎」になったためにこの映画に出演出来なくなり、代わりにダニー・ケイがフィル役を演じることになったと記述されているのですが、ドナルド自身が語ったところによると、Q fever(Q熱)に感染してしまったからなのだそうです。
Q熱というのは、マダニを介して感染する病気で、通常、家畜を通じて伝染していきます。フランシス役のラバか、そのスタンド・インを演じていた何頭かのラバの1頭から感染してしまったらしく、ドナルドは入院することになり、スタジオ側は、彼の快復を半年間待ってくれたのですが、退院してきた彼は、病み上がりでとても映画に出演できる体調ではなかったために出演を辞退せざるを得えませんでした。

素晴らしいパフォーマーである彼の力量が遺憾なく発揮された代表作といえば、やはり「Singin' in the Rain (1952)」ではないでしょうか。MGMは、彼の出演に対して、ユニバーサルに5万ドルのオファーを提示しましたが、長年ユニバーサルとの間で金銭的なトラブルを抱えて来たドナルドは、嬉しいと思いながらも初めは断ったのだそうです。しかし、ユニバーサルが、彼へのギャラの支払いを約束したので、最終的には出演を了承し、この歴史的な名作ミュージカルへの彼の参加が実現したわけです。

コズモ・ブラウン役の最初の候補に挙がったのは、実は、ドナルドではなく、「An American in Paris パリのアメリカ人 (1951)」 でジーン・ケリーと共演したオスカー・レバントでした。プロデューサーのアーサー・フリードの推薦だったのですが、共同監督を務めたケリーとスタンリー・ドーネンは、「この役は、ダンサーでないとダメだ」とフリードに申し入れ、ケリーとドーネンが出演を希望したドナルドが、この役を手に入れました。
当時、映画に加えてTVで自分の番組を持っていたドナルドは、ケリーに勝るとも劣らない超人気者で多忙を極めていました。しかし、以前からケリーの映画を見て好ましく思っていたドナルドは、この共演を楽しみにしていました。
実際にケリーと会って、自分の役柄について聞かされたドナルドは、とても気に入ったのですが、1つだけ気がかりなことがありました。通常、たいていのダンサーは、左から右へと踊り始めるのに、ドナルドは、逆に右から左へとスタートするのが常でした。そのために、振付師は、彼用に振付を変更しなくてはならず、いつも大変な思いをしてきたのです。ケリーと会った時も、そのことを心配していたドナルドでしたが、ケリーの方から「君は、いつもどっちにターンする?」と聞かれました。ドナルドが「左へターンします。」と答えると、何と、ケリーからは、「よかった!僕もなんだよ。」 という思いがけない答えが返ってきて、ドナルドの悩みは、あっけなく解決されたのでした。

共同監督のドーネンが「映画史上最高のタップ・ナンバー」と呼んだ「Moses Supposes」という素晴らしいナンバーがあったものの、当初は、まだドナルドのためのソロ・ナンバーが用意されていませんでした。しかし、Roger Edensが「Make’em Laugh」を書き上げ、ケリーに「ダンサーも伴奏者もいるんだから、好きなようにやってみたらどうだい?」と勧められ、ドナルドが、尻餅をついて見せたりといろいろアドリブを演じて見せ、特に受けのよかった部分をダンスに取り入れていきました。
ナンバーのフィニッシュは、ドナルドが、自分が他の2つの映画でやった壁を駆け上るというアイディアを思い出し、2つの壁を駆け上り、最後の壁を上ろうとしてぶち抜いてしまうという今までにやったことのないフィニッシュにすることになりました。
撮影は、1日に全てが行われました。殺人的と呼んでも過言ではない撮影で、コンクリートの床の上で撮影されたため、激しいショックをまともに身体に受けたドナルドは、その後、3日間の入院を余儀なくされました。
退院して現場に復帰したドナルドを、スタッフ・キャストが拍手で迎えてくれました。「素晴らしいナンバーだった!」と誉めてくれたケリーが、「あのナンバーを、もう1回やれると思うかい?」と彼に尋ねました。「もちろん!いつだって!」 とドナルドが答えると、「実は、明日、もう一度、撮影しなきゃならないんだよ。この間の撮影の時、誰もカメラの絞りをチェックしていなくてね。全部、ダメになっちゃったんだよ。」とケリーが言ったのです。翌日、再度、撮影に望んだドナルドでしたが、撮影が終わった時には、彼の両足はアザだらけになっていました。こうして、映画史上最高のコミカルで素晴らしいダンスシーンが完成したというわけです。

「雨に唄えば」のリハーサルは、とても和やかで楽しく、笑いの絶えないものでしたが、いったん撮影が始まると、ケリーは、パフォーマーの顔から監督の顔に変わり、ドナルドやデビー・レイノルズは、ただ黙って従うだけという状態になりました。
特にまだ19才だったレイノルズにとっては、撮影はとても辛いもので、サウンドステージでよく泣いていたそうです。本来、ダンサーではなかった彼女にとって、レッスンは過酷で、両足は痛み、どんなにがんばっても、なかなか満足がいくようには踊れず、すっかり落ち込んで怯えてさえいました。どうしてケリーが、こんなに自分に厳しくするのか、また、どうしてドナルドにさえも、ケリーが辛くあたるのか、彼女には理解出来ませんでした。ケリーは、撮影現場で、ドナルドを怒鳴りつけ、激しく罵ったのです。
撮影から何十年も経ってから、ドナルドが、レイノルズに、初めてその理由を話してくれました。ケリーが本当に怒鳴りつけたかったのは、教えても教えてもうまく踊れないレイノルズの方だったのです。けれど、まだ若くて、厳しいショービジネス界での経験が浅いレイノルズを怒鳴りつけたら、ただでさえ厳しいレッスンに打ちのめされている彼女が、ショックのあまり仕事を降りてしまうかも知れないと、ケリーは考えたのです。レッスンについて来られないレイノルズでしたが、映画には彼女が必要だと思っていたケリーは、ドナルドに頼み込んで、彼女に言えない分を、彼にぶつけていたのでした。

それほど、厳しい撮影現場だったにも関わらず、ドナルドは、「雨に唄えば」をお気に入りの1作として挙げています。何と言っても、リハーサルがとても楽しかったからだそうです。彼は、1953年に、この映画での素晴らしい演技を讃えられて、ゴールデン・グローブ賞を授与されました。

ユニバーサルは、他の映画会社とは違い、所属俳優がTVに出ることに関して特に規制をしていなかったので、ドナルドは、映画だけではなくTV界へと活躍の場を広げていきました。1952年にはエミー賞にノミネートされ、そして1953年には、TV番組「The Colgate Comedy Hour」での演技で、最優秀男優賞を受賞しました。そして、TVとフランシス・シリーズに出演という忙しい中を縫って、彼は、1953年に別々の映画会社が制作した3つのミュージカル大作に出演したのです。ユニバーサル制作の「Walking My Baby Back Home」、MGM制作の「I Love Melvin」、そして20世紀FOX制作の「Call Me Madam」です。
このうち、MGMの「I Love Melvin」では、「雨に唄えば」で共演したデビー・レイノルズと再共演を果たしました。ドナルドがローラー・スケートを履いて素晴らしいダンスを披露するという見せ場もあったのですが、平凡な曲と出来の良くない台本のせいか、あまりヒットしませんでした。
また20世紀FOXの「Call Me Madam」では、ミュージカル界の大女優Ethel Merman(エセル・マーマン)や、ドナルド自身が「一緒に踊った中では、ペギー・ライアンと並んで、最高のパートナー」と認めているVera-Ellen(ヴェラ・エレン)と共演しました。
エレンと一緒に踊った「It’s a Lovely Day Today」は、ドナルドのお気に入りのナンバーでした。彼女との再共演を何度か計画したドナルドだったのですが、前述の「White Christmas」同様、どの企画もうまく運ばず、残念なことに、彼女と再共演する夢は叶いませんでした。
マーマンと一緒に歌うシーンの撮影では、彼女の声量があまりにも大きすぎ、2メートル近く離れたところに立っていたドナルドの鼓膜がビリビリと震えるのが分かるほどで、その後数日は、ドナルドの耳がよく聞こえなくなってしまったそうです。そこで、ドナルドはスタジオの隔離防音室に入り、彼女は、オーケストラと一緒にスタジオに入って、どうにか録音を行いました。

1954年には、ドナルドは、これも彼の代表作である「There's No Business Like Show Business」に出演し、「Call Me Madam」で共演したエセル・マーマンや、まさに売り出し中のマリリン・モンローと共演し、まるで彼自身の人生を描いたようなボードビル一家の次男役を演じました。
しかし、ドナルドにとって、この映画は、楽しい経験ではありませんでした。仕事上では、マリリン・モンローの遅刻癖とわがままぶりに、ドナルドを含めたキャスト全員が悩まされましたし、個人的な面では、ドナルドの結婚生活が暗礁に乗り上げてしまったのです。すでに別居していた妻のグエンが、この映画の撮影中に、作中でドナルドの父親を演じていたDan Dailey(ダン・デイリー)と付き合うようになったのです。撮影終了後、ドナルドとグエンは離婚し、程なく、グエンとダンは結婚しました。

ユニバーサルが彼に与える「好青年」という決まり切った役柄に嫌気が差したドナルドは、「ちゃんとした役がやりたい」と、ユニバーサルからの独立を申し出ました。ラバとの共演にもウンザリしていた彼は、ユニバーサルとの契約が解消されない限り、二度とフランシス・シリーズには出ないと宣言し、ユニバーサル側もその申し出を受け入れたのです。
15年間、ユニバーサルのために大金を稼ぎ出してくれていたスターのドナルドが去る時、ユニバーサルは、彼のためにちょっとしたパーティを開き、小さなカメラとフィルムを14本くれたそうです。それが、ユニバーサルが唯一彼にくれた別れのプレゼントでした。1955年に彼が出演した唯一の映画は、フランシス・シリーズの最後の1作「Francis in the Navy」でした。しかしながら、TV界では、彼は相変わらずの売れっ子で、スケジュールは満杯状態でした。
その後、1956年にビング・クロスビーと共演した「Anything Goes」が、彼の最後のミュージカル映画出演となりました。同年、ドナルドは、Gloria Nobleと再婚し、2人の間には、その後3人の子供が生まれました。

1957年には、「The Buster Keaton Story」でバスター・キートンを演じたドナルドでしたが、その後は、映画出演の機会は少なくなり、活躍の場は、TVが主体となりました。
1963年には、ニューヨーク・シティのホテル・アメリカーナで、1万2千ドルという当時では破格の高出演料で、ステージに出演しました。また「Little Me」というミュージカルでラスベガス、リノ、ニューヨークをツアーし、5つの違った役を演じてみせ、変わらぬ素晴らしいパフォーマンスで多くの観客を魅了したのです。

1968年には、短期間で終わってしまった「The Donald O’Connor Show」というトークショーを行ったドナルドでしたが、その後、アルコール依存症になってしまいました。酒量が増えるに連れて、日付を忘れたり酔っぱらって姿を見せたりすることが多くなりました。誰からも愛されてきたドナルドは、たちまちショービズ界の鼻つまみものとなり、妻のグローリアは、家を出てしまいました。(その後、ドナルドが治療を受けるようになり、彼女は、彼のもとに戻りました。)
アルコール依存症という問題を抱えながらも、TVへの出演は続けてた彼ですが、この時期に出演した映画は、多くのホストの1人として出演した「That’s Entertainment (1974)」だけでした。
ドナルドは、1978年にアルコール依存症の治療のために入院しました。しばらくは、退院したかと思うとまた飲酒を始めて入院するという生活を繰り返していましたが、どうにかアルコールの誘惑を断ち切ることに成功しました。

飲酒という悪癖と縁が切れたドナルドは、1980年代以降、TVや舞台での活動に力を注ぎました。うまくいかないプロジェクトも多かったのですが、1983年に「Showboat (リバイバル)」でBroadwayに挑戦、これがヒットを納めました。このショーを率いて、ドナルドは、その後、何年もの間、ツアーを行いました。
また長らく映画出演とは縁がなかったのですが、ジェームズ・キャグニーの最後の映画出演となった「Ragtime (1981)」やロビン・ウィリアムズの父親役を演じた「Toys (1992)」、ジャック・レモンとウォルター・マッソーの「Out of Sea (1997)」と、それほど大きな役ではないのですが、時折、何本かの映画に出演するようになりました。

1998年に、ドナルドは、「The Fabulous Palm Springs Follies」というレビューに出演しました。彼が主演で、彼流のダンスと歌を週に8回披露していましたが、1月30日に両側肺炎を発症し、病院へとかつぎ込まれました。病状は、かなり危険なもので、医者は、生存の確率は30%しかないと宣告したそうです。しかし、何とか危険を脱した彼は、3月1日には退院を許可されました。再起不能のウワサを吹き飛ばすかのように、彼は、「Follies」のラストを飾りたいと申し出て、最後の4回のショウに出演したのでした。

2003年には、かなり体調が悪かったにも関わらず、ドナルドは、「the Roger Ebert Overlooked Film Festival」や、「Judy Garland Museum」のオープニング・セレモニーに出席しました。そして、2003年9月27日、78才のドナルドは、カリフォルニア州カラバサスで、心不全のために息を引き取りました。数々の映画・TV番組・ステージで、素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたドナルドは、ロサンジェルスのForest Lawn – Hollywood Hills Cemeteryに眠っています。


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2 Comments

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ありがとう (I love cosmo.)
2008-03-23 20:58:38
「ショウほど素敵な商売はない」を初めて見たのが
今から20年くらい前。
そのときからドナルド・オコナーの大ファンでした。
けれども、インターネットなどない時代、
出演作については本作と「雨に唄えば」の2作しかわからず、どんな人だったのか、どんな人生を
送っているのかとずっとずっと気になっていました。
この記事に出会えて、その長い間の願いがかないました。ありがとうございます。

「Make’em Laugh」はとても有名ですが、
私の中のナンバー1は、なんと言っても
エバ=エレンと踊った
「It’s a Lovely Day Today」です。
最近になって、「Call Me Madam」を手に入れて
本当に感激しました。

ドナルドの首のラインが美しく、燕尾服姿は最高にきまっていますし、二人が踊るシーンには
清潔感があって、ロマンティックで、
何度見てもため息が出てしまうほど、すばらしい。
「White Christmas」にドナルドが出演していたら、
また、どれほど素敵なナンバーを目にすることができたろうかと思うと、私も残念でなりません。

ネットのおかげで、これまでには手に入らなかった
彼の出演作やCDを今、集めているところです。
そんな過程でこの記事に出会い、
ドナルドの一生を知りました。
アルコール依存症を乗り越えて、立派に人生をまっとうしたんですね。
よかった。私も、頑張らなくては、と勇気がわいてきました。
情報を提供してくださって、心から感謝します。
ありがとうございました。

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ステキなコメントをありがとうございます♪ (ナズ)
2008-03-28 12:20:49
>I love cosmoさん
ステキなコメントを寄せていただいて、ありがとうございます♪ ナズの書いたつたない記事が、少しでもお役に立てたかと思うと、本当に嬉しいです~!

ドナルドは、アステアと並んで、ナズの大好きな俳優さんなんです。どちらも生え抜きのパフォーマーで、大変姿勢が良く、軽やかに美しく踊るところがステキです♪

最初はアステアがオファーされた「White Christmas」のフィル役、ぜひぜひドナルドに演じてほしかったですよね~! ダニー・ケイのフィルもひょうひょうとしてよかったのですが、ドナルドが演じていたら、きっと素晴らしいダンスシーンを見ることができたと思うんです。

I love cosmoさんが、ドナルドの出演作やCDをたくさん集めることができるようにお祈りしております。ナズのブログを読んでくださって、本当にありがとうございました。またお気が向かれたら、お気軽にのぞいてみてくださいね~♪
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