(絵:モネ・マグリット「大家族」)
家を建てる者たちの捨てた石。
それが礎(いしずえ)の石になった。
これは主(しゅ)のなさったことだ。
私たちの目には不思議なことである。
これは、主(しゅ)が設けられた日である。
この日を楽しみ喜ぼう。
(旧約聖書・詩編118編22-24節)
家を建てる者たちの捨てた石。
それが礎(いしずえ)の石になった。
これは主(しゅ)のなさったことだ。
私たちの目には不思議なことである。
これは、主(しゅ)が設けられた日である。
この日を楽しみ喜ぼう。
(旧約聖書・詩編118編22-24節)
困ったことだ。
一方では「甘すぎる」と言われ、一方では「厳しい」と言われる。
甘えたことを言わせていただけるなら、もし、私に要求されていることがどういうものであるかを知ったら、私に対して「キビシ―――!!」などと言うことはないだろう。元々、私は、穏健な平和主義者だ。
逆に、同情してくれるだろう、とさえ思ふ。
一方では「甘すぎる」と言われ、一方では「厳しい」と言われる。
甘えたことを言わせていただけるなら、もし、私に要求されていることがどういうものであるかを知ったら、私に対して「キビシ―――!!」などと言うことはないだろう。元々、私は、穏健な平和主義者だ。
逆に、同情してくれるだろう、とさえ思ふ。
(いや、「甘い」と言われるやも)
あなたの心が、それを望んでいない、ということを暗に示している。
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むろん、何かを選んだら、他の選択肢を捨てなければならないことは多くある。
(また、何らかの競技、何らかを追い求めるためには、他の選択肢を犠牲にしなければならないことは、往々にしてある。)
だが、「それ」を選んだこと自体を「犠牲」と言い、かつ「それ」が大事なんだ、「それ」を喜んでいるというのは自己欺瞞だ。Hosea 6:6
喜んでいないのに/尊重していないのに、自分をも偽って、喜んでいる/尊重しているつもりになっている人は、とても不自然であり、
加えて、周りにも、その欲求不満を伝染させる/強いるため、はた迷惑であったりする。
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だから、
先ず、「自分」が何を感じているのか、認めてください。
どんな感情であれ、「自分」を受け入れてください。
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実のところ、あなたの心が「これは良い!」と本当には思っていないのに、そう思っているつもりになって、他者に押し売りするのは、ご遠慮願いたいのです。
(場合によっては、自分がそう思っていないということを自覚しているほうが、まだ救いがあるかもしれない)
わからない? そんなはずはないでしょう。
もし、本当に、あなたの心が、「それ(事・人問わず)は、そうするだけの価値がある」と思っていたら、あなたは、
「○○や××の選択肢もあったが/犠牲にしたが、
それ以上に、これには価値があるんだ。大切なんだ」
それ以上に、これには価値があるんだ。大切なんだ」
と、前者ではなく、後者を強調するでしょう。Philippians3:8-9
(わがままで、負担を強いる恋人や伴侶に、理解してもらいたいときならいざ知らず)「オレはこれだけ犠牲を払ってきたんだ」「それは犠牲だ」と連呼している時、本当に、あなたの心は、それを望んでいるのでしょうか。喜んでいるでしょうか。
ある日、キャベツは、日帰りでちょっくら数百キロ西に行ってきました。
(その前の休日もフルに動き、その後、準夜・日勤・日勤(以下略)という、疲れがたまったときに…何やっているんだか。)
(日の出40分前の、海岸にて)
なぜ?と聞かれても、元々行くつもりもなかった…思いもよらなかった…ところだったので、自分でもよくわかりません。
「今、おいで」
と、西の森と海に、呼ばれたのです。(たぶん)
確かに、海で見た日の出も、樹(き)も、森の香りも、小川流れるカフェも、気持ちが良かった。
私たちはわかっていなくても、
神様は、本当にステキなものを私たちに用意してくださった。
主(しゅ)は、彼らに「ここにいこいがある。
疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」
と仰(おお)せられたのに、
彼らは聞こうとはしなかった。
(旧約聖書・イザヤ書 28章12節)