(メモ)
『メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、
すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、予言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が70年であることを文書によって悟った。
そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。
・・・・・・・・
「・・・私たちは罪を犯し、
・・・私たちはまた、・・・・・」』
(旧約聖書・ダニエル書9:1~)
その時代、その場にいなくとも、ダニエルは「私たちの罪」と考え、祈り求めた。
直接、それに携わなかったとしても。
なすべきことがなされていなかったとしても。
それは、「他の誰か」の問題ではない。
これは、「私たち」の問題であり、課題なのだ。
『メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、
すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、予言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が70年であることを文書によって悟った。
そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。
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「・・・私たちは罪を犯し、
・・・私たちはまた、・・・・・」』
(旧約聖書・ダニエル書9:1~)
その時代、その場にいなくとも、ダニエルは「私たちの罪」と考え、祈り求めた。
直接、それに携わなかったとしても。
なすべきことがなされていなかったとしても。
それは、「他の誰か」の問題ではない。
これは、「私たち」の問題であり、課題なのだ。