『わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、
実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、
刈り込みをなさいます。』
(新約聖書・ヨハネの福音書 15章1-2節)
“I am the true vine, and My Father is the vinedresser.
Every branch in Me that does not bear fruit He takes away;
and every branch that bears fruit He prunes, that it may bear more fruit.
( John 15:1-2, NKJV )
先日、ある木の剪定(せんてい)をしているところを見させていただいた。
畑(の土)を作る手伝いや、ベランダ菜園程度はしたことはあっても、剪定することはなかったからだ。
ばつっばつっと枝を切る姿や音を聞き、何度も全体を見渡してさらに刈り込みをする姿を見ながら、
キャベツの脳裏には、あの聖句(せいしょのことば)が浮かんだ。
「わたしはぶどうの木」
イエスのことばである。
木それ自体がキリストであり、私たち(キリスト者)は枝である 1)とおっしゃった箇所を。
実がならないなら取り除かれるし、実を結ぶものは刈り込みをされるのだ、ということを。
あるものは30倍、60倍、100倍と実を結ぶ 2) ことを。
9つの実 3) も。
【注】
1)ヨハネ15:5
2)マタイ13:1-23
3)愛、喜び、平安、 寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。cf.ガラテヤ 5:22-23