さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

自己卑下と謙遜 (2)

2013-09-08 20:22:57 | Sunday 集会・生活


 考察中。
 自己卑下の害は、何か。

1)自己のタラント(才能、賜物)を用いず、地に埋める。

2)「主から愛されている自分」というのを無視する。同様に、他者にも(無意識に)行う。
      (=「主の恵み」を無とすることにつながりやすい)

3)自己卑下からくる、ゆがんだ自己満足が生まれやすい。

4)自己を認めてもらいたい、という願望が逆に強くなる。
    (承認欲求は人間だれしも持っているものだが、それとは性質が少々違うか?)

5)真面目な人ほど、それを無視しようとするので、無意識的にそれを発しやすい。

6)その害をモロに受けるのが、その人よりも下とされる人々。
    (つぶれるくらいなら、距離を置けば良かっただろうに)


 そんな人を見かけたら、どうするべきか。

1)先ず、その人が頑張っていることを認める。

2)自分を大切にするよう、繰り返し伝える。


 主イエスが、キリストの戒めとして伝えたのは、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと』(ヨハネ15:12)
 彼が、律法の中において第二の戒めとして伝えたのは『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』(新約聖書 マタイ22:39)
 だが、そもそも、自分を愛せない(大切にできない)人は、他人をも愛せない。このことばは昔、何度か非常に反感を抱いたものだが、なるほど、先ず、「自分とどう付き合うか」か。
 無意識に、他人をこけおろしたり、否定する人は、よくよく見ると、自分に対しても卑下していたり、自分をないがしろにしている。本人は、「自分を無にしている」つもりなのに、「自分」が抑圧された中で、しっかりと顔を出している。

 (これに関して、「(自他を)大切にする」→「喜ぶ」という観点/側面において)ローマ15:3、ヤコブ4:9他との整合性はどうなのか、という問いも出るのだが、これは、テサロニケ第一5:16またガラテヤ5:22(Fruit of the Spirit)他も忘れてはならないだろう。また、喜びは感謝につながる。


 「自己卑下」している人は一見、とても「謙遜」な人に見られやすいためか、「ほうびをだまし取られるな」(コロサイ2:18)とさえ言われているが、、、さてはて。祈りつつ、行うべし。
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