さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

トラウマ

2014-01-20 06:14:28 | Thursday 生活
 顔を整えて行ったにもかかわらず、「かなり疲れているんだね…、良く来れたねっていう顔をしているよ」と言われ、苦笑いした。昨日発見した“毒”のおかげでこの様(ざま)です、と言ったとしても、なかなか理解できないかもしれないと、少々試みた結果、感じた。

 幾年も生きていれば、何かを見た時、「フラッシュバックする」ことを経験する人はいるだろう。

 赦す赦さない、という問題ではなく、

 暴力を振るわれた者が、手を上げられると反射的に自分の身を守るように、レイプや痴漢に遭った者が、―全員が全員同じ反応ではないだろうが―人に触れられるのにびくびくしたり夏の暑い日でもだぼっとした長袖を着るように、経済的圧力をかけられ何らかを強いられたり罵られたりした者が、ふと何かにそれを見出しぎょっとして目の届かないところに退けようとするように、

 傷を負うと(痛みを覚えると)、反射的に自分の身を守ろうとする。

 キャベツにもそんな、ちょっとした“トラウマ”がある。

       *************

 そのせいなのだろうか、「自分は安全な平和なところにいて、無責任で、空虚な“きれいごと”を言う者」が、生理的に苦手になるのは。

「おい。“死”を口に出すなら、もうちょっと経験してからにしてくれ。そんな軽いもんじゃないぞ。目の前で、冷たく、紫色になっていく肢体を感じながら、同じ調子で言えるのか。もっと厳粛なものなんだ。いい加減にしてくれ。ふざけるな」

「おい。きれいごとは俺だって知っている。あいつだって、知っている。同じことを経験しても、同じ調子で言えるなら、そのときは言ってくれ。中身がないんだよ。
 ことばがうわっすべりしている。
 頼むから、中身がない、そんな空虚なことを言わないでくれ」



 その点、イエス・キリストは、実行があったからこそ、言葉に重みがある。

 たとえば、理不尽な暴力に巻き込まれたこともなく、そこそこ順調で平凡で平和な人生を歩んで、「想定範囲が狭い」 ―書籍等で、二次体験でもしていたら違うだろう― 人が、「みぎのほほを打たれたら、ひだりのほほを差し出せ」と言うならば、「いい加減にしろ」となるだろうが、何の咎もなく、従順な羊のように十字架についたイエスだからこそ、その言葉には、重みがある。


 まだまだ、精進が足らない。
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