(ガリレオ探査機による地球の写真。何年前かは忘れた)
見よ。神は強い。
だが、だれをもさげすまない。
その理解の力は強い。
(旧約聖書・ヨブ記 36章5節)
見よ。神は強い。
だが、だれをもさげすまない。
その理解の力は強い。
(旧約聖書・ヨブ記 36章5節)
人でさえ、力 1)を持つと、『弱さ』を理解できなくなる。
だが、人と比較するのが失礼な程 2)、力を持つ『神』は、
人の脆(もろ)さを知っており、それをさげすむこともない。
逆に、人の弱さを理解し、憐(あわれ)み、慈(いつく)しんでくださる。
神と人とをつなぐ祭司(さいし)は、自身もまた人の『弱さ』を持つため、
羊のようにさまよう人々を思いやることができる(cf.新約聖書・へブル5:2)
神ご自身でありながら、人のために人となり、
人と神とをつなぐ大祭司(へブル参照)ともなったイエス・キリストはまた、
私たちの弱さに、同情できない方ではない。(cf.へブル4:15)
故に、
私(たち)は、大胆に(あつかましく)も、
神に祈ることが、できる。
【注】
1)力を持つ:人においては、身体的能力の他、知性・権力等、「周囲との力関係で優位に立つ」ことを指す。
2)比較するのが失礼な程:これについて、ある友人から言われたことを思い出した。
「そもそも、もし本当に、イエスが『神』であるならば、
人と比較すること自体が愚かなことではないか?
それなのに、『モーセよりもすぐれたイエス』などとクリスチャンが言うのは、
クリスチャン自身が、『神』を自分たちの位置まで貶(おとし)めていないか?」⇒それに対するある答え
その返答とは別に、確かに、人は自分の分かる範囲(枠)に物事を当てはめようとしがちなところはある。
それは、クリスチャン・ノンクリスチャン関係ない。それもまた、『弱さ』なのかもしれない。