黙示録1-3章にある7つの教会※1については、いくつか言われている。
・「時代区分」(ディスペンセ―ション)
・同じ時期であっても、様々な状態の「教会(集会)」がある 等。
その7つ目の教会が「ラオデキヤ」。白い衣、目薬、金、時代・・・etc前半はよく学ばれているが、この前、池袋でふと思ったのは、そのあとの部分だった。
※1私たちの群れでは、大抵「集会」と使われるが、ここでは表記に従い、「教会」とする。
*************
ラオデキヤの「不思議」― 主(しゅ)が不在
― 「教会」と呼ばれている
主が不在でも、それは「教会」足りえるのか?
⇔「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)
「教会」とは何ぞや?
・広義では、建物をも指すが、元々は、その集まり(エクレシヤ)。
-鯛焼きは、鯛が無くても“鯛焼き”
-メロンパンは、メロンがなくても、“メロンパン”
→“教会”も?? (反語)
*************
とても、不思議だ。
「教会」の定義
- ×建物(であるならば、中途半端はやめてけろ。
大学の教養の音楽の講義で、「自分たちのお古を、神や上の人に献上するのはOKだが、逆に、神のお古を使うのは×って、不思議だよな~」なんて話もあったことを思いだす。
だが、建物自体は、本来、何に使用してもOK(ex.教室)
もしも、神聖視するならば、それに見合った形、にしようよ。
また、神聖視しないにしても、わざわざ醜く / 使いにくく する必要はない。)
- ○ 人 「2,3人」「主の御名のもとに集う」
ということにすると、、、
では、なぜ、ラオデキヤでは「主が不在」だったのか。
・「2,3人」=信者 → 「主の御名」によって、ではなく、他の何かが中心となって集っている?
(ex.高慢、誰かを中心とする派閥 etc)
↓
確かに、ラオデキヤは「満たされ」ていた。cf.コリントの教会
⇔だが、人々はそんなつもりはない
主もまた、それを「教会」と呼んでいる
もし、その状態がマズイと思う(感じる)ならば、どうすれば良いか?
↑「悔い改める」・・・ということは、その状況下であるならば、人々は皆、“ことば”としては知っている。
もし、その状態が続くならば、それはどうなってしまうのか?
・「時代区分」(ディスペンセ―ション)
・同じ時期であっても、様々な状態の「教会(集会)」がある 等。
その7つ目の教会が「ラオデキヤ」。白い衣、目薬、金、時代・・・etc前半はよく学ばれているが、この前、池袋でふと思ったのは、そのあとの部分だった。
※1私たちの群れでは、大抵「集会」と使われるが、ここでは表記に従い、「教会」とする。
*************
ラオデキヤの「不思議」― 主(しゅ)が不在
― 「教会」と呼ばれている
主が不在でも、それは「教会」足りえるのか?
⇔「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)
「教会」とは何ぞや?
・広義では、建物をも指すが、元々は、その集まり(エクレシヤ)。
-鯛焼きは、鯛が無くても“鯛焼き”
-メロンパンは、メロンがなくても、“メロンパン”
→“教会”も?? (反語)
*************
とても、不思議だ。
「教会」の定義
- ×建物(であるならば、中途半端はやめてけろ。
大学の教養の音楽の講義で、「自分たちのお古を、神や上の人に献上するのはOKだが、逆に、神のお古を使うのは×って、不思議だよな~」なんて話もあったことを思いだす。
だが、建物自体は、本来、何に使用してもOK(ex.教室)
もしも、神聖視するならば、それに見合った形、にしようよ。
また、神聖視しないにしても、わざわざ醜く / 使いにくく する必要はない。)
- ○ 人 「2,3人」「主の御名のもとに集う」
ということにすると、、、
では、なぜ、ラオデキヤでは「主が不在」だったのか。
・「2,3人」=信者 → 「主の御名」によって、ではなく、他の何かが中心となって集っている?
(ex.高慢、誰かを中心とする派閥 etc)
↓
確かに、ラオデキヤは「満たされ」ていた。cf.コリントの教会
⇔だが、人々はそんなつもりはない
主もまた、それを「教会」と呼んでいる
もし、その状態がマズイと思う(感じる)ならば、どうすれば良いか?
↑「悔い改める」・・・ということは、その状況下であるならば、人々は皆、“ことば”としては知っている。
もし、その状態が続くならば、それはどうなってしまうのか?