さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

不思議なラオデキヤ

2013-04-29 11:11:22 | Sunday 聖書
黙示録1-3章にある7つの教会※1については、いくつか言われている。

  ・「時代区分」(ディスペンセ―ション)
  ・同じ時期であっても、様々な状態の「教会(集会)」がある 等。

 その7つ目の教会が「ラオデキヤ」。白い衣、目薬、金、時代・・・etc前半はよく学ばれているが、この前、池袋でふと思ったのは、そのあとの部分だった。


  ※1私たちの群れでは、大抵「集会」と使われるが、ここでは表記に従い、「教会」とする。


     *************

ラオデキヤの「不思議」― 主(しゅ)が不在
                ― 「教会」と呼ばれている


  主が不在でも、それは「教会」足りえるのか?

      ⇔「ふたりでも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)


  「教会」とは何ぞや?
     ・広義では、建物をも指すが、元々は、その集まり(エクレシヤ)。

      -鯛焼きは、鯛が無くても“鯛焼き”
      -メロンパンは、メロンがなくても、“メロンパン”

      →“教会”も?? (反語)


     *************


 とても、不思議だ。


「教会」の定義

   - ×建物(であるならば、中途半端はやめてけろ。
            大学の教養の音楽の講義で、「自分たちのお古を、神や上の人に献上するのはOKだが、逆に、神のお古を使うのは×って、不思議だよな~」なんて話もあったことを思いだす。
            だが、建物自体は、本来、何に使用してもOK(ex.教室)
            もし、神聖視するならば、それに見合った形、にしようよ。
            また、神聖視しないにしても、わざわざ醜く / 使いにくく する必要はない。)



   - ○    「2,3人」「主の御名のもとに集う」

 ということにすると、、、




では、なぜ、ラオデキヤでは「主が不在」だったのか。

     ・「2,3人」=信者 → 「主の御名」によって、ではなく、他の何かが中心となって集っている?
                    (ex.高慢、誰かを中心とする派閥 etc)
                       ↓
                  確かに、ラオデキヤは「満たされ」ていた。cf.コリントの教会


           ⇔だが、人々はそんなつもりはない
            主もまた、それを「教会」と呼んでいる


もし、その状態がマズイと思う(感じる)ならば、どうすれば良いか?


   ↑「悔い改める」・・・ということは、その状況下であるならば、人々は皆、“ことば”としては知っている。


もし、その状態が続くならば、それはどうなってしまうのか?

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ラオデキヤにある教会のみつかいに

2013-04-29 10:01:00 | Sunday 聖書

 また、ラオデキヤにある教会の御使(みつか)いに書き送れ。

 『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

 「わたしは、あなたの行いを知っている。

  あなたは、冷たくもなく、熱くもない。

  わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

  このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、

  わたしの口からあなたを吐き出そう。


************


  あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏(とぼ)しいものは何もないと言って、

  実は自分がみじめで、哀(あわ)れで、貧しくて、盲目で、裸(はだか)の者であることを

  知らない。



************


  わたしはあなたに忠告する。

  豊かな者となるために、火で精錬された金(きん)をわたしから買いなさい。

  また、あなたの裸の恥(はじ)を現さないために着る白い衣(ころも)を買いなさい。

  また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。



************


  わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。

  だから、熱心になって、悔い改めなさい。


************



  見よ。

  わたしは、戸の外に立ってたたく。

  だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、

  わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。



************


 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座につかせよう。

 それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座(みざ)に着いたのと同じである。


************



 耳のある者は、御霊(みたま=聖霊)が諸教会に言われることを聞きなさい。」』



                  (新約聖書・ヨハネの黙示録3章14-22節)

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