弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚(うお)を二匹持っています。
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
(新約聖書・ヨハネ6章8-9節)
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚(うお)を二匹持っています。
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
(新約聖書・ヨハネ6章8-9節)
先日、キャベツはマカロンを頂いた。
職場の方から、「お誕生日だから」と、5つのマカロンを頂いた。
せっかくだからと、誰かと分けようと思った。
ただ、集会(教会)の人々は、人数が多く、
姉妹方(=女性のクリスチャン)だけにでも、と思っても、
マカロンを最低でも6等分しなければならなかった。
マカロンは、ナイフをいれるには難しかった。
結局、マカロンは4等分となり、
ほんのひとにぎりの人としか、この甘いモノを分け合えなかった。
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5つのマカロンに、ナイフを入れながら、思った。
イエス様なら、5つのマカロンを1万個にでも、できるのに、と。
その昔、イエス・キリストは、5つのパンで、男性5千人の腹を満たした。
昔々(のイスラエルでは)、カウントするのは、軍務につくことのできる成人男性のみ。
男5千人ならば、女子どもを含めて1万人いたっておかしくない。
どうやって、分けたのだろう。
イメージがわかない。
少なくとも、分け与えるために、高速でシュパパパパ…とちぎっていったのでは、と思うが、
不思議だからこそ、ありえないからこそ、「奇跡」なんだろう。
50人ずつに座らせて、そこに分け与えて、
皆が満腹して、なおもあまったパン屑が、大かご12かご分だった。
イエス様なら、この5つのマカロンを5千個にでも、1万個にでもできるだろうが、
私は、4等分するのが、関の山だった。
食べたことのない、年配の方もいるだろうに。
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帰ってから、また、思い出した。
4福音書すべてに、描かれているその「奇跡」を。
あのとき、イエスのそばにいるお弟子さん達でさえ、
「それが何になる」と見下した、
少年の、たった5つのパンと2匹の魚。
だが、どんなにわずかであっても、焼け石に水のようであっても、
それが主の手にかかれば、
5千人でも、1万人でも満たす大きなものになったことを。
今、私が持つもの/できることはわずかだが、
どうか、それが祝用されますように、と。