炊き出しに路上生活者が長い列 苦情で中止、苦渋の決断(朝日新聞) 2009年3月13日(金)
不況の深刻化とともに、路上生活者のための炊き出しに並ぶ行列が伸びている。そんな中、隅田川にかかる駒形橋(東京都墨田区、台東区)では、近隣住民からの苦情を受けて3月末で炊き出しが中止になる。ベテランのボランティア団体が12年続けてきた活動だけに、ほかの団体にも不安が広がっている。
5日午後2時、墨田区側の駒形橋近くの「隅田川テラス」と呼ばれる川沿いの遊歩道に長い列ができた。NPO法人「山友会」が行う毎週木曜の炊き出しだ。パック詰めのご飯を求めて349人が集まった。
並んでいた男性(71)が、「炊き出しスケジュール」と書いた紙を見せてくれた。曜日ごとに各団体の炊き出しの場所を支援団体がまとめたものだ。東京の東部地域の木曜の欄は「14時~隅田川・駒形橋」の1カ所だけ。浅草の商店街で路上生活を送るこの男性は「ここがなくなれば木曜は腹をすかしたまま寝てしのぐしかない」と肩を落とす。
山友会の代表ルボ・ジャンさん(64)によると、昨年9月、遊歩道を管理する東京都第五建設事務所の職員から「場所を変えて欲しい」と申し入れがあったという。12月に「3月いっぱいで駒形橋下の炊き出し行為を中止する」という文書に署名した。「せめて寒い時期だけは」(山友会)と3月末までになった。
第五建設事務所は、河川法に基づき「公共の空間で独占的な使用は認めがたい」と指導してきた。管理課によると、近くに児童公園があり「子どもが声をかけられ怖がる」「狭い道で並んでいると通りにくい」といった苦情は07年度から少なくとも十数件あったという。同事務所の担当課長は「昨今の厳しい経済情勢は理解しているが住民の苦情もないがしろにできない。両立できればいいが難しいところだ」と話す。
隅田川沿いや近くの上野公園は段ボールやテントで野宿する人が多く、簡易宿所の集まる山谷からも近い。昨秋から不況が深刻化した影響か、この1年で炊き出しに並ぶ人は200人から500人に増えた。生活保護費の支給前だった前週は512人にまでふくらんだ。
■周辺の団体にも動揺
「あれだけ手際よくやっていた山友会がダメなのか」。駒形橋に近い蔵前(台東区)で毎週日曜に炊き出しをしている浅草聖ヨハネ教会の牧師、下条裕章さん(49)はショックを受けている。
99年ごろから教会の敷地内で「日曜給食」として炊き出しをしている。01年秋には50~60人くらいだったのが今では300~400人。最も多い日には500人を超える。
教会では厳しいルールを定めている。どうしてもその日に食事をとることができない人に限る、配布30分前より前に並ぶことは禁止、近隣の公園で食べない。それでも、ゴミが捨てられた、自転車を置きっぱなしにした、などのクレームを受けたという。活動中止の要望も来ている。
上野駅地下通路で毎週日曜に炊き出しをしていた山谷労働者福祉会館も、近くに飲食店ができたため8日を最後に中止した。これまで上野公園と駅地下通路の2カ所で行っていた炊き出しを上野公園だけで続けていくという。
「近隣の方のためには炊き出しを一切やめるのが一番だが、これだけの人が困っているのも現状。どうするべきなのか。ずっと悩みながらやっている」と浅草聖ヨハネ教会の下条さんは話している。(中村真理子、川崎紀夫)
病院にも、その地域性が出てきますが・・・ある団体が炊き出しを別のところでやり始めたら、そのために路上生活者の大移動があって、患者さんにそういう人が増えたという話も聞いたことがあります(具体的な統計は不明)。
今の日本だと、ほんとうにいろんな方がいて、そうするのがいいのかどうなのか、地域の方々とのことも、また、それをお渡しする相手のことも。社会構造やら、そのときそのときの対処療法でいいのか、どこまでやるべきか、どこまでふみこむべきなのか、またそれを提供する方々の負担や心境など、考えればきりがない。あげるだけでは、ただ依存者を増やすだけ、という側面もある(特に、日本では。病院においても、さまざま実例を目のあたりにする)。
ただし、少なくとも、物質面で援助する側が、「助けてあげてる」という意識や、感謝されることを当たり前と思う気持ちを間違ってももってはいけないと思うし、地域の方々の安全や協力や理解だって、必要。
(80年前になるが、ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』だと、スパイクの様子やその当時の放浪者等の様子や意識がわかりやすい。最近の日本の炊き出しに関してだと、本田哲郎の『釜ヶ崎と福音』が面白そう←まだ、きちんと読んでいない)。
ちなみに、『炊き出し』という形でいうならば、公共の外において行うより、その集まっている場を開放して、そこで食べていただくのなら、『ごみが増えた』といった食事提供に関する苦情は緩和するかもしれない。何百人、という単位では難しいかもしれないし(その場を開放することに関して、不満を抱いたり、なんとも言えないわだかまりを覚える方も出てくるかもしれないが)。
たとえば、・・・地域は異なるが、・・・、私がおじゃました、ある地域(どちらかというと、移民が多く、求職中の方々が多い様子)にあるキリスト集会でも、聖書のショート・メッセージとお食事の提供をしているところがある。そこでは、主に、火曜の朝と、木曜の夜、のみだが。
<ある火曜の朝の光景>
朝訪れると数人の男性が、近くの公園でたむろっていた。
朝9:45-10:00 そこに入ることが可能(ちなみに、時間を1分でも過ぎたら、入れません)。
紅茶を飲んで一息ついて、10:00になったら、
5分、10分程度、聖書の話がされ、食前の祈りがなされて、
朝食が出される。
コーンフレークと牛乳だったり、トーストしたバターつきパンや、焼いたソーセージ(東京で普段目にするものより、かなり大きい)やお肉、豆の煮た物やいろいろ。
そのとき、来られていた方々はとても礼儀正しくて、挨拶もされるし、待つこともできるし、…多少、特有の臭いもあるけれど、それほどひどくない。食べ方もきれいだったし、食後きちんと片付けのためにお皿を持ってきたり、挨拶をして、外に出て行った。
ただ、その人たちが、ゆっくり食事したり、お茶を飲んでいる間、時折、ひどくノックする音が聞こえる。けたたましく門を打ちたたく音がする。
それに関しては、
「前々から、アナウンスしていたし、時間で戸が閉まることも言ってある」
と、責任者は厳しい面も見せていた。むろん、必要としている人もいるのに、戸をあけてあげられないことに心も痛むが。
(ノアの箱舟の戸が閉じられたときに、おのずと思いを馳せてしまった。そして、今が、『恵みのとき』(コリントⅡ 2:6)であるということにも)。
その日は10数人であり、「今日は少なかったわ」という話を聞いた。
そうして続けられるのも、また、(主の)恵み、憐みなのかもしれない。
**********
ほんじつのひとこと。
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
(新約聖書・マタイの福音書4章4節)
もちろん、物質的なものだって大事だし、精神的な支えだって、人は必要。
今の日本では、…もちろん路上生活者なら、しょく(食・職)が一番最初に必要だろうが…、精神的な安心や所属、愛情を求める人が多いのではないかと感じる(マズローの欲求段階-けっこう有名-で言うと、「所属・愛情欲求(belongingness-love needs)」のあたり)。
だが、天からのマナ(その昔、イスラエル人が大移動していた頃、食べていた食べ物。荒野の旅の間、朝、天から降ってきていた。みつかいの食べ物。転じて、聖書のことば、神からのことば)も必要なのだ、という。
実際、人はそれによって、生きる。
もし、希望がなかったら、約束がなかったら、神の恵みも憐みもなかったのなら-
何のために、人は生きているだろう。
不況の深刻化とともに、路上生活者のための炊き出しに並ぶ行列が伸びている。そんな中、隅田川にかかる駒形橋(東京都墨田区、台東区)では、近隣住民からの苦情を受けて3月末で炊き出しが中止になる。ベテランのボランティア団体が12年続けてきた活動だけに、ほかの団体にも不安が広がっている。
5日午後2時、墨田区側の駒形橋近くの「隅田川テラス」と呼ばれる川沿いの遊歩道に長い列ができた。NPO法人「山友会」が行う毎週木曜の炊き出しだ。パック詰めのご飯を求めて349人が集まった。
並んでいた男性(71)が、「炊き出しスケジュール」と書いた紙を見せてくれた。曜日ごとに各団体の炊き出しの場所を支援団体がまとめたものだ。東京の東部地域の木曜の欄は「14時~隅田川・駒形橋」の1カ所だけ。浅草の商店街で路上生活を送るこの男性は「ここがなくなれば木曜は腹をすかしたまま寝てしのぐしかない」と肩を落とす。
山友会の代表ルボ・ジャンさん(64)によると、昨年9月、遊歩道を管理する東京都第五建設事務所の職員から「場所を変えて欲しい」と申し入れがあったという。12月に「3月いっぱいで駒形橋下の炊き出し行為を中止する」という文書に署名した。「せめて寒い時期だけは」(山友会)と3月末までになった。
第五建設事務所は、河川法に基づき「公共の空間で独占的な使用は認めがたい」と指導してきた。管理課によると、近くに児童公園があり「子どもが声をかけられ怖がる」「狭い道で並んでいると通りにくい」といった苦情は07年度から少なくとも十数件あったという。同事務所の担当課長は「昨今の厳しい経済情勢は理解しているが住民の苦情もないがしろにできない。両立できればいいが難しいところだ」と話す。
隅田川沿いや近くの上野公園は段ボールやテントで野宿する人が多く、簡易宿所の集まる山谷からも近い。昨秋から不況が深刻化した影響か、この1年で炊き出しに並ぶ人は200人から500人に増えた。生活保護費の支給前だった前週は512人にまでふくらんだ。
■周辺の団体にも動揺
「あれだけ手際よくやっていた山友会がダメなのか」。駒形橋に近い蔵前(台東区)で毎週日曜に炊き出しをしている浅草聖ヨハネ教会の牧師、下条裕章さん(49)はショックを受けている。
99年ごろから教会の敷地内で「日曜給食」として炊き出しをしている。01年秋には50~60人くらいだったのが今では300~400人。最も多い日には500人を超える。
教会では厳しいルールを定めている。どうしてもその日に食事をとることができない人に限る、配布30分前より前に並ぶことは禁止、近隣の公園で食べない。それでも、ゴミが捨てられた、自転車を置きっぱなしにした、などのクレームを受けたという。活動中止の要望も来ている。
上野駅地下通路で毎週日曜に炊き出しをしていた山谷労働者福祉会館も、近くに飲食店ができたため8日を最後に中止した。これまで上野公園と駅地下通路の2カ所で行っていた炊き出しを上野公園だけで続けていくという。
「近隣の方のためには炊き出しを一切やめるのが一番だが、これだけの人が困っているのも現状。どうするべきなのか。ずっと悩みながらやっている」と浅草聖ヨハネ教会の下条さんは話している。(中村真理子、川崎紀夫)
病院にも、その地域性が出てきますが・・・ある団体が炊き出しを別のところでやり始めたら、そのために路上生活者の大移動があって、患者さんにそういう人が増えたという話も聞いたことがあります(具体的な統計は不明)。
今の日本だと、ほんとうにいろんな方がいて、そうするのがいいのかどうなのか、地域の方々とのことも、また、それをお渡しする相手のことも。社会構造やら、そのときそのときの対処療法でいいのか、どこまでやるべきか、どこまでふみこむべきなのか、またそれを提供する方々の負担や心境など、考えればきりがない。あげるだけでは、ただ依存者を増やすだけ、という側面もある(特に、日本では。病院においても、さまざま実例を目のあたりにする)。
ただし、少なくとも、物質面で援助する側が、「助けてあげてる」という意識や、感謝されることを当たり前と思う気持ちを間違ってももってはいけないと思うし、地域の方々の安全や協力や理解だって、必要。
(80年前になるが、ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』だと、スパイクの様子やその当時の放浪者等の様子や意識がわかりやすい。最近の日本の炊き出しに関してだと、本田哲郎の『釜ヶ崎と福音』が面白そう←まだ、きちんと読んでいない)。
ちなみに、『炊き出し』という形でいうならば、公共の外において行うより、その集まっている場を開放して、そこで食べていただくのなら、『ごみが増えた』といった食事提供に関する苦情は緩和するかもしれない。何百人、という単位では難しいかもしれないし(その場を開放することに関して、不満を抱いたり、なんとも言えないわだかまりを覚える方も出てくるかもしれないが)。
たとえば、・・・地域は異なるが、・・・、私がおじゃました、ある地域(どちらかというと、移民が多く、求職中の方々が多い様子)にあるキリスト集会でも、聖書のショート・メッセージとお食事の提供をしているところがある。そこでは、主に、火曜の朝と、木曜の夜、のみだが。
<ある火曜の朝の光景>
朝訪れると数人の男性が、近くの公園でたむろっていた。
朝9:45-10:00 そこに入ることが可能(ちなみに、時間を1分でも過ぎたら、入れません)。
紅茶を飲んで一息ついて、10:00になったら、
5分、10分程度、聖書の話がされ、食前の祈りがなされて、
朝食が出される。
コーンフレークと牛乳だったり、トーストしたバターつきパンや、焼いたソーセージ(東京で普段目にするものより、かなり大きい)やお肉、豆の煮た物やいろいろ。
そのとき、来られていた方々はとても礼儀正しくて、挨拶もされるし、待つこともできるし、…多少、特有の臭いもあるけれど、それほどひどくない。食べ方もきれいだったし、食後きちんと片付けのためにお皿を持ってきたり、挨拶をして、外に出て行った。
ただ、その人たちが、ゆっくり食事したり、お茶を飲んでいる間、時折、ひどくノックする音が聞こえる。けたたましく門を打ちたたく音がする。
それに関しては、
「前々から、アナウンスしていたし、時間で戸が閉まることも言ってある」
と、責任者は厳しい面も見せていた。むろん、必要としている人もいるのに、戸をあけてあげられないことに心も痛むが。
(ノアの箱舟の戸が閉じられたときに、おのずと思いを馳せてしまった。そして、今が、『恵みのとき』(コリントⅡ 2:6)であるということにも)。
その日は10数人であり、「今日は少なかったわ」という話を聞いた。
そうして続けられるのも、また、(主の)恵み、憐みなのかもしれない。
**********
ほんじつのひとこと。
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』
(新約聖書・マタイの福音書4章4節)
もちろん、物質的なものだって大事だし、精神的な支えだって、人は必要。
今の日本では、…もちろん路上生活者なら、しょく(食・職)が一番最初に必要だろうが…、精神的な安心や所属、愛情を求める人が多いのではないかと感じる(マズローの欲求段階-けっこう有名-で言うと、「所属・愛情欲求(belongingness-love needs)」のあたり)。
だが、天からのマナ(その昔、イスラエル人が大移動していた頃、食べていた食べ物。荒野の旅の間、朝、天から降ってきていた。みつかいの食べ物。転じて、聖書のことば、神からのことば)も必要なのだ、という。
実際、人はそれによって、生きる。
もし、希望がなかったら、約束がなかったら、神の恵みも憐みもなかったのなら-
何のために、人は生きているだろう。