それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

日記

2011-04-15 17:21:50 | 日記
今週は再びの田舎暮らしだった。

研究をしながら、家で料理をつくり家人の帰りを待つ。主夫的なそれである。

料理は前よりうまくなったと思うが、まだまだだなと思う。

研究でもなんでもそうだが、「もうだめ、もう何も浮かばない、何をしたらいいのか分からない・・・」から本当の勝負が始まる。

そこから真の実力が出るのであり、蓄積するのである。

今回、3日間、昼・夜を作り続けたあと、材料に限りがある中で何を作ればいいのか分からなくなった。

つまり4日目、頭が空っぽになった。

買い物に行って、大胆に新しいものに挑戦するか、あるもので工夫するか。

思考錯誤のなかで、なにかひとつ見えたような気がする(笑)

人に食べさせる料理をつくるのは難しい。

レシピは頭のなかに沢山あるのだが、材料や相手の好き嫌い、色々な制約に神経質になりすぎたかもしれない。

そして、やはり彼女の料理はおいしいなあと思ったり、僕が育った家の料理は素晴らしいなあと思ったりした。



研究は思いのほか早いペースで進み、持ってきた二次資料のノートをつけ終わったので、すぐに一次資料読解に入った。

発見が多い。

そろそろ英語の論文の新しい章の執筆に入らねば・・・。それは渡英後、始める予定。

登場する人物、団体などはすべて架空です:事故をめぐるコメディ

2011-04-09 05:09:59 | ツクリバナシ


側近A「総理!アメリカが、日本には原発事故対策のための戦略があるのか?と尋ねてきています。」

総理 「そんなことも分からないのか!と言ってやれ。」

側近A「承知いたしました!」

総理 「今まで、日本に一度でも『戦略』などというものがあった試しがあったか?とな、はははは。」

側近A、頭を抱える。




側近B「大統領、日本からの返事がきました。『われわれはの戦略は、ボトムアップだから大丈夫』とあります。」

大統領「ボトムアップの戦略?一体、どういう意味だ。リーダーシップなき戦略などあり得るのか?」

側近B「・・・おそらく、『行き当たりばったり』、という意味だと思います。」

大統領「現場で動いているのは、電力会社だな。電力会社が実質的な戦略立案をしているのではないか?」

側近B「どうも、下請け会社の社員たちが戦っているようです。」

大統領「まさか、ボトムアップの『ボトム』は、下流社会という意味ではないだろうな?」




側近A「総理、イギリスもフランスも技術援助を申し出ています。」

総理 「馬鹿野郎、俺たちは先進国だ。独り立ちした立派な主権国家だ!イギリスもフランスも、すでに落ちぶれた帝国。いまさら、あいつらに恵んでもらうものなどない!」

側近A「どのように伝えますか?」

総理 「どうするかアメリカに聞いてみる、と伝えろ。」

側近A「ロシアからも援助の申し出が来ていますが、それも同じように答えますか?」

総理 「いや、今までお前たちが投げ捨てた原子力空母や船のために俺たちが払った金を今返せ、と伝えろ。ついでに、北方領土も返せ、と伝えろ。」




側近C「大統領、日本がフランスからの援助の申し出を留保しています。」

大統領「なぜだ。フランスという文明の中心からの申し出だぞ。」

側近C「原子力ビジネスのためだということがバレバレなのがいけないのでしょうか。」

大統領「いや、おそらくフランス語が誰も分からないんだろう。」




英国の学者「日本は、今原子力を見直すべきであーる。イギリスは、もう原子力を電力源としては重視していないのであーる。」

日本の学者「どうしてですか?やはり、廃棄物貯蔵などでの事故の経験からですか?」

英国の学者「いやいや。原子力では、お金が儲からないのであーる。」


英国の学者「君たちも、風力を使えばいいのであーる。」

日本の学者「イギリスではやはり、風力が中心ですか?」

英国の学者「いや。でも、スペインでうまくいっているのであーる。」

日本の学者「スペインはイギリスではないですよね?」

英国の学者「ヨーロッパだから同じなのであーる。」




記者 「編集長、インターネットなどで、フリーランスの記者が政権批判や電力会社批判、あげくに我々の批判も行っております。」

編集長「それはやっかいだな。で、どう批判しているんだ?」

記者 「電力会社が政府、メディアとぐるになって、深刻な放射能漏れをずっと隠ぺいしている、と批判しています。」

編集長「対抗して、風評被害に苦しむ農家と漁師の記事をでかでかとうっておけ。」

記者 「分かりました。ところで、この前の電力会社批判を記事のせいで、電力会社の連合がスポンサーから降りると警告してきました。」

編集長「そうか。それはマズいな。とりあえず、『社長の自宅に張り込むようなことはしないから、それで許して』と伝えてくれ。それと、『「原子炉なしでは、電力が足りない」という話には、口裏を合わせておくから、これからもよろしく』と言っておけ。」





CM・・・

芸能人A「節電のために、余計なパソコンはつけないこと。」

芸能人B「インターネットとかで、科学者やフリーランスの記者とかの記事を読まないこと。」

芸能人C「でも、くだらないテレビ番組だけは、絶対に視聴し続けること。」

三人 「みんなのために!」

白昼夢

2011-04-08 07:49:23 | 日記
朝日がのぼってきて、

カラダがゆっくりと照らされて、

自分の手を見たら透けている。

あれ?消えてる?

そうか、僕は消えるのか。

こんなふうに静かに消えるのか。

誰かに何か言うでもなく。

日常のなかで。晴れの日に。

風船がゆっくり空に運ばれていくみたいに。

「僕の右手を知りませんか?」「いいえ、知りません。」

2011-04-07 08:39:37 | 日記
彼女が引越して、僕は一瞬燃えつき症候群になり、ぼ~っと研究していた。

しかし、書かねばらないない書類が思いのほかたまっており、大きなやつを一晩かけて書き提出し、さらに共著のための原稿を「えいやッ」と加筆・修正しにかかり、今朝どうにか一段落して、クールダウンしている。

(論文って、直す時が本当にストレス。元の構造やリズムを大切にしながら、肉付けしたり、そぎ落としたりするのには神経をとても使う)。

若干のストレスのせいか、今朝気持ちの悪い夢を見た(それを今から書くから注意してね)。

小さなアリくらいの虫たちが無数にフローリングの床にいる。

そいつらは白と黒に分かれていて、白は黒よりも弱いらしく、黒によって運ばれている(おそらく、エサとして巣に運ばれているのだろう)。

僕はそうした弱肉強食の昆虫界のルールを無視し、すべて掃除機で吸い込もうとする。

でも、あまりにも大量にいるから、なかなか減らない。そういう夢。

どういう潜在意識なんだろう。



今、家に彼女が置いていった(もらった)ギターがあって、それを時折弾いている。ひどく下手だ。

バンプオブチキンの「プレゼント」という曲を調を変えて(簡単なコードにするために)弾き、ブルーハーツの「僕の右手」という曲を弾き、その下手さににやにや笑いながら、研究に行きつ戻りつしている。

「僕の右手」という曲がとっても好きで、弾いてみたら何とか通せたので喜んでいたら、原曲を聴いたところ調が全然違った。

僕が弾いたのは、映画『リンダ・リンダ・リンダ』のバージョンだった。おかげで女性用のキーになっている。

そのせいで、僕の歌はかわいらしい呟きみたいになっている。



彼女がいないと手持無沙汰な気分だ。

どこかすっぽり穴が空いているような。

おかげで、文章を書くエネルギーが早くたまる。そんな気がする。

「僕の右手を知りませんか?」ブルーハーツはそう歌う。

ブルーハーツは天才的な歌詞の世界を展開する。

この「右手」はアイデンティティを示唆しているように読める。信じられない発想力。

しかし彼らはアイデンティティなどという言葉は一度も使わない。

優れた詩や小説、映画は、その文章のなかで本当に伝えたいメッセージに直接言及することはあまりない。

それだと詩や小説、映画の意味がない。間接的に表現することで、説明しきれない何かモヤモヤした部分が表現できる。

それとは反対に直接、徹底的に、論理的に、緻密に言及するのが論文だ。

それが僕のお仕事。



ブルーハーツの曲のなかの少年/少女が右手を探すように、僕も僕の何かを探している。

その何かを見つけるために、日夜研究して何かを書いている。そんな気がする。

柔軟なリテラシー

2011-04-05 12:21:13 | 日記
1、危険を口にすることは、人を欺くことか?

地震、そして原発事故について、自分がどのように考え書くかは、非常に悩むべきところだと思う。

専門では全くないこの問題について、一市民として、一日本人として考え書いてきた。

しかし自分が住んでいるのは北海道。比較的遠い地域にいる(たまたまイギリスではなかったわけだが)。

私は日本人という意味では当事者だが、被災者ではない。

原発の危険性について書くことは、無責任なことなのだろうか?


2、柔軟なリテラシーの必要

今回、デマが多く飛び交った。

災害では必ずデマが飛ぶ。特に、「危険情報を隠匿している」というデマは阪神大震災の際にも流れたという。

ただし今回は東京も地震を体験し停電を体験しているので、メディアの中心に近い人たちの発言が異常に多く(僕自身がネットをやるようになったせいもあり)、情報量がとても多い。

メディア・リテラシーが重要とはよく言われてきたが、専門知は多様で専門知のリテラシーの問題というよりも、むしろ自分が知らない領域とどう向き合うか、その姿勢や方法が問われている。

未知の領域に対する適切な姿勢や方法を、私はここで「柔軟なリテラシー」と呼びたい。一般に必要なのは、専門知そのものというよりも、この「柔軟なリテラシー」なのだ。


3、デマなのか、警鐘なのか

私がここで端的に問いたいのは、「危険」を言うこと自体は悪いことではない、ということだ。

もし政府見解を鵜呑みにして、危険を口にするものを弾圧し、結果、危険が現実になって自分以外の誰かが直接の被害を受けたら、最悪、死んでしまったら、「安全」を無暗に主張したものには道義的責任がある。

危険なシナリオが起きる可能性がある限り、潜在的被害者を救いたいと考えることには十分な理がある。

ところが危険を口にすることと、デマとの違いは、紙一重だ。

専門家ではない場合、デマに飛び乗っているかもしれない(無論、専門家が分かっているとも限らない)。

大事なのは「根拠」や「証拠」だが、市民がいつでも一次情報を的確に得られるわけではない。

そこで問われるのが、「柔軟なリテラシー」と私が呼ぶものだ。

適切な二次情報をどのように得るのか、それが重要になる。


4、危険を口にするリスク

おそらく、読者の多くが「無根拠な安全も一種のデマだ」と思うだろう。

しかし安全に関するデマと、危険に関するデマでは、違いがある。

「Bad news is good news」という言葉がある。

マスコミにとっては、悪いニュースこそ都合の良いニュース、という意味だ。

なぜなら、悪いニュースは広まりやすく、注目を集めやすいからである。

我々が公に危険を口にする場合、そのことを理解しておかなければならない。