それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ハウルに関する考察、あるいは引っ越しに関する挿話

2011-04-02 13:56:17 | イギリス生活事件簿
宮崎アニメの特集で、どういうわけか、「ハウルの動く城」が無視されがちなのは何故だろうか?

理由はおそらくこうだ。第一に、主人公ソフィーの声優が老婆と若い姿の二役をうまくこなせていないという問題。

さらに、ソフィーのこの二重人格がストーリー上で、やや辻褄が合いにくいという問題。

それ以上に、展開が早すぎて観客が初見では理解できない、という問題。

おまけで言うなら、いわゆる宮崎的な社会メッセージがぼんやりしていたという問題。

これらが不評の原因だったのかなと思う。



しかし、ここで僕が問題にしたいのは、そういうことではない。

「ハウルの動く城」は名作であり、英語吹き替えで見るべきだ、ということ。

いや、そういうことでもない。


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引っ越しのちょっと前から、彼女の家は少しずつ壊れつつあった。

色々なところが少しずつだ。

ネズミが暴れ出し、水まわりが機能不全を起こし、暖房もおかしくなり・・・。

壊れ始めたのは家だけではなかった。彼女を支えてきたモノが少しずつ壊れていった。

それらの崩壊は確実に彼女を追い詰め、それを助けるために、僕も巻き込んでいく。

彼女はそれでも何かに守られているかのように、ぎりぎりのところで前に進んだ。

僕はイライラしながら、ハラハラしながら、彼女の手を握っていた。



何かが終わるのを感じた。

僕も彼女も崩壊の様子をじっと眺めていた。それはずっと前から予測していたシナリオ。

でも、いざ来ると僕らは必死になった。

眠る前、僕はそれが「始まりの終わり」なのか「終わりの始まり」なのかを考えていた。

前者であることを必死に願いつつ。



「ハウルの動く城」の動く城が壊れていく展開がとても好きだ。

ハウルの内的矛盾や環境的圧力が、動く城で生きる疑似家族をバラバラにしていく。

それに伴って、動く城も解体されていく。

動く城は、あの荘厳で奇妙で、いささかユーモラスな姿を、徐々にみすぼらしく寂莫としたものに変えていく。

それぞれ孤独だった登場人物が偶然に、しかし運命的に疑似的な家族を形成していった過程を逆回転させるのだ。

つまり、それぞれの孤独が顔をのぞかせる。孤独が台頭していくる分、疑似家族の疑似性とぬくもりある体温が際立つ。



彼女の家は所有者を変え、法的な闘争に展開し、さらに物質的にも老朽化し、崩壊していった。

そこに僕と彼女、そして時々彼女のオトン、がいた。

しかし、それは疑似家族ではなかった。

共通した経験のない本当の血縁者と、交際相手という、立派な家族要件を満たす3人がいたのだ。

ただ、この三人は一緒に暮らしてはいなかった。

けれども、たしかに家族、あるいは家族のような何かであった。



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引っ越し。それは「始まりの終わり」の終わりのエンディングというより、クライマックスであり、それは映画で言えば、最高のフィナーレのカタルシスを高める役割を果たす場面だった。

動く城は壊れたが、新しい(小さな)城が生まれ、そしてまた家族が再生する。

内的矛盾は止揚され、ひとつの弁証法の物語が終わる。



ハウルの動く城のソフィーの二重人格ぶりは、人間の非一貫性という意味では、現実的だ。

人間は矛盾した人格を持っていることがしばしばである。

幼少期から気を使ってきた人間は、大人になって退行しようとする衝動を抱えることがある。

これはアダルト・チルドレンというのだが(しばしば、この言葉の意味は誤解されがちだ)、この症例の人はまさにある種の二重性を抱える。

それはソフィーが抱えた二重性と類似している、と言って差し支えあるまい。

僕はその症例を抱えた人をよく知っている。

しかし、これだけは言える。病気とは、「それが病気である」という意識に先行して存在はしないということ。

日本語にたとえ「love」が存在しなかったとしても、そんなことは関係ない。

愛が病気だということくらい、西洋人じゃなくても知っている。

僕はもっと大事なことを知っている。

いくつかの病は愛なのだ。



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新しい家の窓から見える景色。その美しさは始まりが終わった次の段階、あるいは新しい生に相応しいものだった。

この世界はファンタジーではない、というのは、一種の撞着語法でしかないわけだが、それはつまり、新しい世界がハッピーエンドではなく、新しい物語のプロローグだという意味だ。

あの城は動いたが、家は動かない。だが、人は動く。僕らは動き続けるのだ。