それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「僕の右手を知りませんか?」「いいえ、知りません。」

2011-04-07 08:39:37 | 日記
彼女が引越して、僕は一瞬燃えつき症候群になり、ぼ~っと研究していた。

しかし、書かねばらないない書類が思いのほかたまっており、大きなやつを一晩かけて書き提出し、さらに共著のための原稿を「えいやッ」と加筆・修正しにかかり、今朝どうにか一段落して、クールダウンしている。

(論文って、直す時が本当にストレス。元の構造やリズムを大切にしながら、肉付けしたり、そぎ落としたりするのには神経をとても使う)。

若干のストレスのせいか、今朝気持ちの悪い夢を見た(それを今から書くから注意してね)。

小さなアリくらいの虫たちが無数にフローリングの床にいる。

そいつらは白と黒に分かれていて、白は黒よりも弱いらしく、黒によって運ばれている(おそらく、エサとして巣に運ばれているのだろう)。

僕はそうした弱肉強食の昆虫界のルールを無視し、すべて掃除機で吸い込もうとする。

でも、あまりにも大量にいるから、なかなか減らない。そういう夢。

どういう潜在意識なんだろう。



今、家に彼女が置いていった(もらった)ギターがあって、それを時折弾いている。ひどく下手だ。

バンプオブチキンの「プレゼント」という曲を調を変えて(簡単なコードにするために)弾き、ブルーハーツの「僕の右手」という曲を弾き、その下手さににやにや笑いながら、研究に行きつ戻りつしている。

「僕の右手」という曲がとっても好きで、弾いてみたら何とか通せたので喜んでいたら、原曲を聴いたところ調が全然違った。

僕が弾いたのは、映画『リンダ・リンダ・リンダ』のバージョンだった。おかげで女性用のキーになっている。

そのせいで、僕の歌はかわいらしい呟きみたいになっている。



彼女がいないと手持無沙汰な気分だ。

どこかすっぽり穴が空いているような。

おかげで、文章を書くエネルギーが早くたまる。そんな気がする。

「僕の右手を知りませんか?」ブルーハーツはそう歌う。

ブルーハーツは天才的な歌詞の世界を展開する。

この「右手」はアイデンティティを示唆しているように読める。信じられない発想力。

しかし彼らはアイデンティティなどという言葉は一度も使わない。

優れた詩や小説、映画は、その文章のなかで本当に伝えたいメッセージに直接言及することはあまりない。

それだと詩や小説、映画の意味がない。間接的に表現することで、説明しきれない何かモヤモヤした部分が表現できる。

それとは反対に直接、徹底的に、論理的に、緻密に言及するのが論文だ。

それが僕のお仕事。



ブルーハーツの曲のなかの少年/少女が右手を探すように、僕も僕の何かを探している。

その何かを見つけるために、日夜研究して何かを書いている。そんな気がする。