それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

イギリスに帰る

2011-04-20 22:23:05 | 日記
イギリスに戻ってきた。

南部は相変わらず暑い。

運よく、今日はきれいに晴れていた。

晴れの日のイギリスの気持ちよさよ。



僕の部屋は思っていたよりもずっときれいで、あまりのきれいさに、「誰かが何か掃除でもしてくれたのではないか」と疑ったりして、「いや、僕はきれい好きなんだ、そうなんだ」、と自分に言い聞かせる。

思ったより早い時間に住んでる街まで到着した。

入国ですんなり行って、バスを一本早くしたからだ(それでも大そう待ったくらい)。

今回はほんの少し値段が高かったために、行き帰りの時間帯も最高で、ターミナルも一番使いやすい場所で(千歳もヒースローも)、サービスも良くて、前回よりも数段楽。

後半戦も後半戦。それくらいのことは良いでしょうよ。



特に変わった出来事もなく、唯一書いておくべきは、飛行機の中で映画「英国王のスピーチ」を観たこと。

良い意味でも、悪い意味でも、イギリスっぽさが全面に出ていた。

困難や辛い過去を克服するという、気持ちの良い脚本の展開。正攻法。

テーマも出来事もきっちり絞られていて無理がない。無駄がない。

人物の描写もストーリーの推進力の作り方も含めて、脚本が良く練られている。それに応える俳優陣も素晴らしい。

そして終始、抑制された映画のテンションが心地よい。

ただ、思ったよりも地味だった。

主人公のアルバート(後のジョージ6世)についても、そのスピーチ障害を治療するライオネルについても、人物描写は若干浅め。

派手にアルバートの過去のトラウマや、ライオネル(オーストラリア人!)のそれまでの人生を描くことは、おそらく映画の完成度を考えれば、逆効果になる可能性はかなり高いとは思う。

しかし、その分、物語は地味になる。

国内の政治状況はほとんど描かれないし、国際政治の展開もほどほどに語られるのみ。

これも映画の完成度を上げるには、描かないのが良いかもしれない。肝心のアルバートとライオネルの関係、あるいは他の王族との関係の線がブレるかもしれないから。

もちろん深く掘ってもおかしくない要素を深く描かない分、「アルバートの重圧」や「ライオネルの確信と執念」という物語のダイナミクスは軽くなる。

しかし、それが実際の英国王家の世界なのかもしれないとも思う。

良く分からないのに書きました。失礼。



家に着くと、ジョーだけがいた(が、寝ていた)。

電気もガスも無くなる寸前。しかし、キッチンもトイレも比較的きれいで安心する。

メールを開くと、一本事務仕事のメール。様子見。

(仕事の受け流し方は知っている。ただ、肝心のやり方が良く分からない。)

明日何をするかとかは置いておいて(電気とガス代は払う)、基本、ゆっくりしよう。