それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

無駄話

2011-04-23 02:03:09 | 日記
こっちに来てから初めて、部屋でひとりでお酒を飲むようになった。

引っ越してからは、ほとんど飲んでいない。

でも、飲みたくなる日もある。

悲しいことがあったとか、嬉しいことがあったとか、そういう単純な気分ではなくて、

悲しくもあり、嬉しくもあり、怒りもしつつ、笑ってもいて、そういう気分のときにお酒を飲む。

今日はそういう気分だ。

ジャズを少し勉強し始めたのもこちらに来てからだ。

今回の一時帰国で、日本語の解説本を一生懸命読んだりして、最近ようやく仕組みが少し分かった。

そうすると、今まで良く分からなかったR&Bの楽曲なんかも、良さや仕組みが見えたりして、音楽とはほとほと面白いものである。

ついでに歴史の知識も入ったりして、まあ、いいや・・・。こういうことを書くところが子供っぽい。

ジャズやR&Bを大きな音でかけて、安いお酒を飲んだりして、それは全く大人の所作というよりも、大学生のそれという感じだが。いや、そうじゃない。

複雑な感情を楽しむようになることは、もう大学生のそれではない。

そいつにまぶす教養が、特にハイ・カルチャーの教養がたくさんあれば、もう立派な大人だ。

そういう大人を僕は大嫌いだ。でも憧れている。

この対立した自分をどこかで止揚することができるとすれば、一体どういう落とし所になるのだろう。

一時帰国中、「ナイン」という映画をTVで観て、まあ、クオリティは低かったのだが、

しかし、自分はイタリアやアメリカのショウビズの賑々しさを楽しんだり、その世界に無限に存在する面白いエピソードや教養をもって批評できるわけでもなく、

そういう世界の深さにいよいよ苛立ちながら、なんとも言えない気持ちになった。

反対に彼女は、僕よりもずっとその世界を楽しんでいたし、知識も僕よりずいぶんとあったのであり、そういうところ魅力的だななどと思ったりした。