1、クラシックが田舎の民衆の手に渡った瞬間
書く気になったら書こうと思っていたことがあった。
日本にいたとき、北海道の片田舎であった、あるコンサートの話。
教育テレビの某五重奏音楽バラエティの編曲者兼ピアニストの彼が、札響を連れてツアーを行っていた。
それが何と、僕が滞在していた片田舎にも来るというのである。
会場に行ってみると、そこは体育館だった。小学校や中学校の体育館みたいな建物。いや、まさに小学校の体育館そのもの。
そこにフルオーケストラが待機している。
台に乗っているわけでもない。
観客と同じ高さで、観客のほぼ目の前にいる。
ちょっと歩けば、彼らに触ることすらできる。
なんと奇妙な情景だろうか。
会場には田舎らしい服装をした町人、村人が続々集まっていて、それはまるで一種の祭りのようだった。
指揮者で編曲者でピアニストでもある彼が、子供の遊戯室にひっそりと待機している。
控え室、楽屋、などといった気の利いたものなど無い。なぜならそこは田舎の体育館。
オーケストラの団員達は、体育館の隅で楽器を弾いたり、おしゃべりしたりしている。
すべてが丸見えだ。しかし、観客は見えていないふりをするかのうに、演奏が始まるのを待つ。
団員が席につき、指揮者兼ピアニスト兼編曲者の彼が花道から来た。
あのいつもの髪型、いつものメガネ、いつもの服装。
演奏が始まる。
オーケストラの音がどこかに吸収される。ここはコンサートホールではない。田舎の体育館だ。
音響の設計などもちろんされていない。反響する場所がないのだ。
オーケストラの素の音が観客に届く。演奏者たちはさぞ演奏しにくいだろう。
僕はその奇妙な光景に不覚にも心動かされてしまった。
前近代と近代が混ざり合っているような情景。
クラシックという権威が田舎の民衆の手に渡った瞬間。
そして、そんな瞬間はおそらく今後もうほとんど無いだろうという妙な切なさ。
曲目は、彼独特の編曲を加えられたクラシックやポップスのナンバー。
特に、ラテン系の楽曲が秀逸。
ブラスセクションがとにかくうまい。クラシックのオーケストラの強さを見せつける。
日本の童謡から、昭和のヒット曲まで、彼の音楽観があふれている。
コンサートはアッという間で、観客は本当に感動している様子だった。
2、音楽理論は魔法ではない
ところで、僕はある音楽バラエティの映像を久し振りに見返した。
例の菊地さんと大谷さんのアレだ。
彼らの本を何冊か読んだおかげで、色々なことが分かった。特に黒人音楽の仕組みや歴史については前よりも詳しくなった。
それを基にした番組。
生徒がいる。真剣に聴いている。プロのミュージシャンもいる。
彼らは何を求めるのだろうか。
理論に何を期待するのだろうか。
習熟したバークリー・メソッドで編曲された楽曲には、それなりの特徴がある。
別にバークリー・メソッドが分からなくても、そういうたぐいの曲を聴いていれば、だんだん「これ、そうかな」くらいは分かってくるだろう。
同様に、ある程度音楽を聴いていれば、「こっちの人はクラシックの作曲を勉強してきたな、芸大出だな」というのも分かる。別に素人だって。
アキラの編曲はまさに芸大出身のそれだ。
バークリー病という言葉があるように、バークリー・メソッドを習熟しすぎたあまりに、そのを使いすぎる人は本質を見逃す危険性がある。
人が理論や技術を使うのではなく、理論や技術が人を振り回してしまうことはよくあることなのだ。
しかし、アキラは人を、特に大衆を感動させるツボを心得ていた。良く計算されていた。
それはおそらく彼がそれまで沢山こなしてきた仕事によって学んできたことだろう。
音楽の理論や技術は魔法ではない。
しかし、知らなければ魔法のようなものだ。
逆に、ある程度、技術や理論を知って、それで初めて見えてくる天才の魔法もある。
あるいは、魔法でもなんでもなかった理論や技術も、多くの経験を積めば、魔法に変わるかもしれない。
それが本当の魔法だ。
魅力的な演奏家が持つ魔法。
感動は理論や技術から出てくるわけではない。
理論や技術を魔法のように使っても、すぐに見破られてしまう。
感動は、精神それ自体から生まれる。
片田舎で、建物もひどくて、そこには音楽的なインフラなど何もなかったとしても、感動は生まれる。
そこに本当の魔法をもった演奏家と、真摯な聴衆さえいてくれれば。
書く気になったら書こうと思っていたことがあった。
日本にいたとき、北海道の片田舎であった、あるコンサートの話。
教育テレビの某五重奏音楽バラエティの編曲者兼ピアニストの彼が、札響を連れてツアーを行っていた。
それが何と、僕が滞在していた片田舎にも来るというのである。
会場に行ってみると、そこは体育館だった。小学校や中学校の体育館みたいな建物。いや、まさに小学校の体育館そのもの。
そこにフルオーケストラが待機している。
台に乗っているわけでもない。
観客と同じ高さで、観客のほぼ目の前にいる。
ちょっと歩けば、彼らに触ることすらできる。
なんと奇妙な情景だろうか。
会場には田舎らしい服装をした町人、村人が続々集まっていて、それはまるで一種の祭りのようだった。
指揮者で編曲者でピアニストでもある彼が、子供の遊戯室にひっそりと待機している。
控え室、楽屋、などといった気の利いたものなど無い。なぜならそこは田舎の体育館。
オーケストラの団員達は、体育館の隅で楽器を弾いたり、おしゃべりしたりしている。
すべてが丸見えだ。しかし、観客は見えていないふりをするかのうに、演奏が始まるのを待つ。
団員が席につき、指揮者兼ピアニスト兼編曲者の彼が花道から来た。
あのいつもの髪型、いつものメガネ、いつもの服装。
演奏が始まる。
オーケストラの音がどこかに吸収される。ここはコンサートホールではない。田舎の体育館だ。
音響の設計などもちろんされていない。反響する場所がないのだ。
オーケストラの素の音が観客に届く。演奏者たちはさぞ演奏しにくいだろう。
僕はその奇妙な光景に不覚にも心動かされてしまった。
前近代と近代が混ざり合っているような情景。
クラシックという権威が田舎の民衆の手に渡った瞬間。
そして、そんな瞬間はおそらく今後もうほとんど無いだろうという妙な切なさ。
曲目は、彼独特の編曲を加えられたクラシックやポップスのナンバー。
特に、ラテン系の楽曲が秀逸。
ブラスセクションがとにかくうまい。クラシックのオーケストラの強さを見せつける。
日本の童謡から、昭和のヒット曲まで、彼の音楽観があふれている。
コンサートはアッという間で、観客は本当に感動している様子だった。
2、音楽理論は魔法ではない
ところで、僕はある音楽バラエティの映像を久し振りに見返した。
例の菊地さんと大谷さんのアレだ。
彼らの本を何冊か読んだおかげで、色々なことが分かった。特に黒人音楽の仕組みや歴史については前よりも詳しくなった。
それを基にした番組。
生徒がいる。真剣に聴いている。プロのミュージシャンもいる。
彼らは何を求めるのだろうか。
理論に何を期待するのだろうか。
習熟したバークリー・メソッドで編曲された楽曲には、それなりの特徴がある。
別にバークリー・メソッドが分からなくても、そういうたぐいの曲を聴いていれば、だんだん「これ、そうかな」くらいは分かってくるだろう。
同様に、ある程度音楽を聴いていれば、「こっちの人はクラシックの作曲を勉強してきたな、芸大出だな」というのも分かる。別に素人だって。
アキラの編曲はまさに芸大出身のそれだ。
バークリー病という言葉があるように、バークリー・メソッドを習熟しすぎたあまりに、そのを使いすぎる人は本質を見逃す危険性がある。
人が理論や技術を使うのではなく、理論や技術が人を振り回してしまうことはよくあることなのだ。
しかし、アキラは人を、特に大衆を感動させるツボを心得ていた。良く計算されていた。
それはおそらく彼がそれまで沢山こなしてきた仕事によって学んできたことだろう。
音楽の理論や技術は魔法ではない。
しかし、知らなければ魔法のようなものだ。
逆に、ある程度、技術や理論を知って、それで初めて見えてくる天才の魔法もある。
あるいは、魔法でもなんでもなかった理論や技術も、多くの経験を積めば、魔法に変わるかもしれない。
それが本当の魔法だ。
魅力的な演奏家が持つ魔法。
感動は理論や技術から出てくるわけではない。
理論や技術を魔法のように使っても、すぐに見破られてしまう。
感動は、精神それ自体から生まれる。
片田舎で、建物もひどくて、そこには音楽的なインフラなど何もなかったとしても、感動は生まれる。
そこに本当の魔法をもった演奏家と、真摯な聴衆さえいてくれれば。