それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

柔軟なリテラシー

2011-04-05 12:21:13 | 日記
1、危険を口にすることは、人を欺くことか?

地震、そして原発事故について、自分がどのように考え書くかは、非常に悩むべきところだと思う。

専門では全くないこの問題について、一市民として、一日本人として考え書いてきた。

しかし自分が住んでいるのは北海道。比較的遠い地域にいる(たまたまイギリスではなかったわけだが)。

私は日本人という意味では当事者だが、被災者ではない。

原発の危険性について書くことは、無責任なことなのだろうか?


2、柔軟なリテラシーの必要

今回、デマが多く飛び交った。

災害では必ずデマが飛ぶ。特に、「危険情報を隠匿している」というデマは阪神大震災の際にも流れたという。

ただし今回は東京も地震を体験し停電を体験しているので、メディアの中心に近い人たちの発言が異常に多く(僕自身がネットをやるようになったせいもあり)、情報量がとても多い。

メディア・リテラシーが重要とはよく言われてきたが、専門知は多様で専門知のリテラシーの問題というよりも、むしろ自分が知らない領域とどう向き合うか、その姿勢や方法が問われている。

未知の領域に対する適切な姿勢や方法を、私はここで「柔軟なリテラシー」と呼びたい。一般に必要なのは、専門知そのものというよりも、この「柔軟なリテラシー」なのだ。


3、デマなのか、警鐘なのか

私がここで端的に問いたいのは、「危険」を言うこと自体は悪いことではない、ということだ。

もし政府見解を鵜呑みにして、危険を口にするものを弾圧し、結果、危険が現実になって自分以外の誰かが直接の被害を受けたら、最悪、死んでしまったら、「安全」を無暗に主張したものには道義的責任がある。

危険なシナリオが起きる可能性がある限り、潜在的被害者を救いたいと考えることには十分な理がある。

ところが危険を口にすることと、デマとの違いは、紙一重だ。

専門家ではない場合、デマに飛び乗っているかもしれない(無論、専門家が分かっているとも限らない)。

大事なのは「根拠」や「証拠」だが、市民がいつでも一次情報を的確に得られるわけではない。

そこで問われるのが、「柔軟なリテラシー」と私が呼ぶものだ。

適切な二次情報をどのように得るのか、それが重要になる。


4、危険を口にするリスク

おそらく、読者の多くが「無根拠な安全も一種のデマだ」と思うだろう。

しかし安全に関するデマと、危険に関するデマでは、違いがある。

「Bad news is good news」という言葉がある。

マスコミにとっては、悪いニュースこそ都合の良いニュース、という意味だ。

なぜなら、悪いニュースは広まりやすく、注目を集めやすいからである。

我々が公に危険を口にする場合、そのことを理解しておかなければならない。