それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

フジテレビ「めちゃ×2イケてるッ!」:三中問題の面白さ、下劣さ

2016-02-21 10:08:27 | テレビとラジオ
 久しぶりに「めちゃイケ」が賛否両論の注目すべき展開になっている。

 岡村不在の時期に「素人枠」で参入した三中元克が、お笑い芸人として事務所に所属した(=プロになった)ことから、めちゃイケオーディションを受けなおす、ということに。

 次回、視聴者による投票が行われ、クビか継続か決定するらしい。



 三中問題は、テレビを見る人なら誰でも何か言いたくなるものを含んでいる。

 第一に、テレビが「素人」を使い続ける難しさや問題、という論点がある。

 これはアイドルと似ている。

 アイドルは「大人」のプロデュースを受け、常に作られた「下手」をパフォーマンスで見せる業種だ。

 「下手」は幼稚さ、可愛らしさを視聴者に感じさせ、支配したい欲望の受け皿になるという意味があり、それを利用して観客を惹きつけるのである。

 テレビが「素人」を使うことの意味は、素人による想定していないリアクションが視聴者に異常なリアリティをもたらす狙いがある。

 想定していない、ということにはやはり「下手」が含まれる。それをテレビは「純粋」と形容する(実際、めちゃイケでもそう表現した)。

 だが、アイドルがそうであるように、人間である以上、アイドルも素人も「意思」がある。自分の意思が芽生え、やりたいことが出てくる。ある程度売れれば、自分の能力に自信もつく。

 そこでプロデューサーの「大人」と、作られた「子供」である素人の衝突が起きる。

 めちゃイケにおける三中は、禁断の果実だった。ずっと子供のままになどしてはおけない。どんな可愛い子犬もいつかは大人になる。

 身体的にはこれ以上成長しないが、心は変わる。お金ができて、ちやほやされれば、どんな「子供」でも「純粋さ」という奇妙な性質を維持することは不可能だ。

 お笑い芸人のプロになる、というシナリオがどこから出てきたものかは分からない(番組の言うとおりなら自発的ということになるのかもしれないが・・・)。

 しかし、それはあまり問題ではない。結局のところ、素人という「子供」を維持できなくなったという現状は確かなのである。



 もうひとつ問題なのは、三中という存在を視聴者誰もが捉えきれていない、ということだ。

 どこにでもいる普通の人のようでもあるし、異常に何もかもが鈍い人のようでもある。あるいは、面白い天然の人のようでもある。

 三中でなければいけないのか?彼は本当に特別なのか?という嫉妬が入り混じった感情で、市井の人々は彼を見る。

 番組は彼を特別に頑張る素人にすることで、作られた純粋さを維持しながら、強靭なタレントとしての人格を涵養しようとした。そして、失敗した。彼はそうした無茶苦茶な企画に耐えられるようなタイプの人ではなかった。

 そこが面白いのだ。

 失敗する、逃げ出す、調子の乗る。人間なんだから、それは仕方がない。

 では、その場合、テレビに出る資格はどうなるのか?

 たまに出てくる名物素人ならともかく、レギュラーとなるとどうなのか?

 この気持ちの悪さこそ、今はこの番組の面白さになっている。

 視聴者がまるで疑似革命のごとく、テレビのリモコンで彼をクビにする(=処刑する)という残酷ショーもよし。

 あるいは、やはりタレントとして特別なのだ、という疑似民主主義のような投票・承認もよし。

 この番組に品格など求めるなかれ。

 この下劣さは日本社会の下劣さそのもの。

 テレビはわれわれの欲望を映す鏡だ。

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