「時間がある人しか出れないTV」の視角が面白い。
今回の企画は、「年末年始のテレビ番組で誰が一番笑いを取ったか調査する」であった。
調査の基準は「誰が見ても笑った場面」を1カウントとし、その状態を惹き起こした人に1ポイント入る。
ポイント数の合計でランキングをつけ、その順位を発表していく。
調査員は若手の芸人さん4人。
この調査法がどこまで客観性を担保するのかは置いておこう。
重要なのは、この企画の前提にある。
すなわち、「笑いを起こした『数』が多ければ多いほど、優れたTVタレントかもしれない」という考えである。
これは「質」ではなく「量」に注目する。
もし質に注目するならば、いよいよ判断が主観的にならざるを得ない。番組構成全体から判断するなど、基準は難しくなる。
これに対して、量に注目することで、判断が相対的に言って、より客観的になる。
量に注目するのは、こうした実践的な理由からだけではない。
お笑いのコンテストの幾つかでも、笑いの数を基準にする傾向がある。
これは長らく言われていることだが、M1やThe Manzaiなどではボケの数が勝敗を決める主要な要因になっているという(それを受けて、方向性を変える機運も出ている)。
それに合理性がある。笑うまでに長い時間(フリ)を必要とする場合、視聴者はチャンネルを変える可能性があるからだ。
だから、笑いを数でカウントするのは、メディアの性質として当然と言えよう。
そもそも番組の生存を決める「視聴率」も数(=視聴している人数)なのだ。
だから笑いの数が多ければ良い、という考え方は決して間違っているとは言えない。
この番組で、その基準からトップ3になったのは、
「1位 明石さんま 2位 松本人志 3位 出川哲郎」
であった。
これは直感的にも決してそう遠くない結果である。
特に出川哲郎がトップ3に入ったことは、非常に重要である。
つまり、芸人のなかでもキャリアが相当にありながら、いつまでも若手に近い立ち位置の彼が、実はものすごく多くの笑いを取っているスターだということを証明してしまったのである。
それはある意味、証明してはいけないことでもある。
つまり、出川は大したことはない存在として出ることによって、そのキャラクターを確立しているわけで、実質的な立ち位置(=真のビッグ3)を暴露するのは、必ずしもプラスかどうかは疑わしいのである。
出川自身にとって有意義がどうかはともかく、この結果は興味深いし、ある程度の説得力がある。
とはいえ、「笑いの数(量)」に注目することには、決定的な弱点もある。
最大の問題が、「面白い」の種類が限定され過ぎることである。
われわれが頬の筋肉を痙攣させるのが「笑い」だとしても、それ以外にだって「面白い」は存在する。
例えば、落語の人情話。これは笑いだけではなく、人間の機微そのものが面白いのである。
あるいは、言葉に出来ない我々の日常的な感情を適切な言葉で表現し、人々を「納得」させる、という面白さもある。
思わず「なるほど!」「よく言ってくれた!」「うまい!」(=座布団一枚)も「面白い」ことに入る。
このように「笑い」と他の「面白い」が結び付くことで、エンターテイメントは深さと奥行きが増す。
笑いの数だけに限定する考え方は、芸能を一面的なものにし、結果的に多様性を奪い、一過性の表層的なものにしかねない。
そうした問題点を認識しつつも、この「笑いを数(量)で考える」という視点はきわめて重要である。
その視点によって、我々は視聴者としての先入観から多少自由になることが出来るからだ。
これから、まずますこうした「数」の視点は重要になるだろう。
特に音声認識や映像認識の自動化が浸透すれば、それは視聴率とともに番組の質を測る基準のひとつになりえるかもしれない。
今回の企画は、「年末年始のテレビ番組で誰が一番笑いを取ったか調査する」であった。
調査の基準は「誰が見ても笑った場面」を1カウントとし、その状態を惹き起こした人に1ポイント入る。
ポイント数の合計でランキングをつけ、その順位を発表していく。
調査員は若手の芸人さん4人。
この調査法がどこまで客観性を担保するのかは置いておこう。
重要なのは、この企画の前提にある。
すなわち、「笑いを起こした『数』が多ければ多いほど、優れたTVタレントかもしれない」という考えである。
これは「質」ではなく「量」に注目する。
もし質に注目するならば、いよいよ判断が主観的にならざるを得ない。番組構成全体から判断するなど、基準は難しくなる。
これに対して、量に注目することで、判断が相対的に言って、より客観的になる。
量に注目するのは、こうした実践的な理由からだけではない。
お笑いのコンテストの幾つかでも、笑いの数を基準にする傾向がある。
これは長らく言われていることだが、M1やThe Manzaiなどではボケの数が勝敗を決める主要な要因になっているという(それを受けて、方向性を変える機運も出ている)。
それに合理性がある。笑うまでに長い時間(フリ)を必要とする場合、視聴者はチャンネルを変える可能性があるからだ。
だから、笑いを数でカウントするのは、メディアの性質として当然と言えよう。
そもそも番組の生存を決める「視聴率」も数(=視聴している人数)なのだ。
だから笑いの数が多ければ良い、という考え方は決して間違っているとは言えない。
この番組で、その基準からトップ3になったのは、
「1位 明石さんま 2位 松本人志 3位 出川哲郎」
であった。
これは直感的にも決してそう遠くない結果である。
特に出川哲郎がトップ3に入ったことは、非常に重要である。
つまり、芸人のなかでもキャリアが相当にありながら、いつまでも若手に近い立ち位置の彼が、実はものすごく多くの笑いを取っているスターだということを証明してしまったのである。
それはある意味、証明してはいけないことでもある。
つまり、出川は大したことはない存在として出ることによって、そのキャラクターを確立しているわけで、実質的な立ち位置(=真のビッグ3)を暴露するのは、必ずしもプラスかどうかは疑わしいのである。
出川自身にとって有意義がどうかはともかく、この結果は興味深いし、ある程度の説得力がある。
とはいえ、「笑いの数(量)」に注目することには、決定的な弱点もある。
最大の問題が、「面白い」の種類が限定され過ぎることである。
われわれが頬の筋肉を痙攣させるのが「笑い」だとしても、それ以外にだって「面白い」は存在する。
例えば、落語の人情話。これは笑いだけではなく、人間の機微そのものが面白いのである。
あるいは、言葉に出来ない我々の日常的な感情を適切な言葉で表現し、人々を「納得」させる、という面白さもある。
思わず「なるほど!」「よく言ってくれた!」「うまい!」(=座布団一枚)も「面白い」ことに入る。
このように「笑い」と他の「面白い」が結び付くことで、エンターテイメントは深さと奥行きが増す。
笑いの数だけに限定する考え方は、芸能を一面的なものにし、結果的に多様性を奪い、一過性の表層的なものにしかねない。
そうした問題点を認識しつつも、この「笑いを数(量)で考える」という視点はきわめて重要である。
その視点によって、我々は視聴者としての先入観から多少自由になることが出来るからだ。
これから、まずますこうした「数」の視点は重要になるだろう。
特に音声認識や映像認識の自動化が浸透すれば、それは視聴率とともに番組の質を測る基準のひとつになりえるかもしれない。
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