それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ヨルタモリ:タモリのグルーヴ、教養の時代の笑い

2014-10-28 06:46:01 | テレビとラジオ
話題になっている『ヨルタモリ』。

カルト的に好きだという人もいれば、なんだかよく分からないという人もいる。

それは明らかに番組製作者の意図そのものが反映されている。

日本中がタモリを知っているが、タモリの芸の面白さを知らない世代、あるいは知らない人々は相当数に上る。

しかし、間違いなくタモリの芸は、現在のお笑いのなかにほぼ存在しない独自のものであり、それは今なお新しい。

当然、少なくない視聴者がそこに興味を持たなくても、決しておかしくはない。

そんなタモリの芸の面白さを、敢えて今、11時の番組に持ってきたのだから、フジテレビはなんて素晴らしいのだろうか。



タモリの芸は、パロディや物まねなのだが、事象の文脈全体を踏まえたものだったり、幾つかの要素をうまく組み合わせた総合的なパフォーマンスだと私は理解している。

つまり、単なる物まねではないところが重要である。

ヨルタモリのなかで、「世界の音楽」を紹介するコーナーがある。

タモリがどこかの国の歌手になりきってパフォーマンスをする。

流石、ジャズ・トランペットをやっていただけあって、タモリの発声法は独特だ。

それ以上に、リズムの取り方が凄い。完全にジャズなのだ。

例えば、前回の「中国語のラップ」では、最初は中国語の物まねでラップするのだが、徐々にジャズのアドリブになっていく。

後ろでパフォーマンスしていたリップスライムは、タモリのグルーヴがヒップホップのそれと違うことに一瞬、明らかに戸惑っていた。

しかし、タモリがやっていたことは、後期のマイルス・デイビスのそれだった。

つまり、ファンクが全盛になり、打ち込みのリズムが登場した後のマイルスの音楽。

アドリブの打ち方が、ものすごくマイルスっぽい。(あの、ためて、ためて、・・・ババッァ!ってやつとか)

そうだ、菊地成孔が指摘するように、ジャズとヒップホップはお爺さんと孫の関係。

つまり、この中国語ラップはその関係性を前提にしたパフォーマンスなのである。



あるいは、「万葉集解説」もそうだ。

タモリは基本的に学者や芸術家をよく理解しているだけでなく、そこに人間としての歪さ(いびつさ)を見て、面白がっている。

この場合、文学研究者の若干気持ちの悪い面白さを見事に表現する。

タモリが演じる古典文学研究者は、まず人間とのコミュニケーションが苦手であるが、しかし、万葉集というものに、深いフェティシズムを抱いている。

彼の頭のなかでは、万葉集の時代の人間が生き生きとしており、話し出すと当時の人物たちがドラマチックに動き始める。

それを話す彼の眼は(サングラスで見えないが)、まるで何かに取りつかれた人のようであり、そして、奇妙にもニコニコしている。

よく聞けば面白い万葉集の話。しかし、明らかに世間から相当ずれた学者。

それは我々が学者に持っているイメージそのものだ。

現在だって、そういう古典文学者はいるだろう。そして、古典文学者に限らず、学者の気持ち悪さは「得体の知れないもの」をやたら面白そうに話すアレそのものなのだ。

これを再現するには、学者の脳の中と世間とを両方理解し、面白がっている必要がある。

それを出来るのがタモリなのである。



一見難解な様々な物事のルールを何となく理解してしまうのが、タモリ。

そして、それを笑いに変えてしまうのがタモリ。

彼が赤塚不士夫の元から出てきた時、周りにはジャズメンなどの芸術家がいた。

彼の芸を面白がっていたのは、かつて確かに存在した「教養の時代」の人々。

世界の文学やら音楽やらを教養として勉強する必要があると考えていた人々。

きっとまた日本にそれは戻ってくる。

もちろん、新たな階級を前提にして、だろうけれど。

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