高校生ラップ選手権というものがある。
BAZOOKA!!!というBSスカパーの番組で行われている大会だ。
それがもう第6回目。僕は第4回くらいから見だしたのかな。とにかく、高校生たちが大人顔負けのとんでもないフリースタイル(即興でのラップ)を見せてくれる、恐るべき大会なのである。
HIPHOPは今も日本では少数派の音楽だ。かなり市民権を得てきたが、それでもロックに比べれば人口は少ない。
しかし、HIPHOPはロックには表現できないことが表現できる。と、私は断言したい。
HIPHOPはアメリカの黒人が様々な抑圧、過酷な境遇のなかで紡いできた音楽である。
もちろん、個々の伝説的アーティストは、犯罪者であったり、麻薬中毒者(あるいは売人)であったり、素行不良もいいところで、その様々なエピソードはぶっとんでいる(そうしたエピソードをまとめた本が色々出ているので、そちらも参照)。
だが、そんなふざけた人たちによる音楽は、確実に抑圧された少数派の人々の心情/身上/信条を表現してきた。
自分が明け暮れた戦いの話、お金の話、家族の話、友達の話、政治の話。
既存のメディアに十分に乗らない少数者の声がヒップホップには流れている。
乱暴にその傾向を一般化すれば、躁から鬱になっていったパンクロックとは対照的に、ヒップホップは今もかなり外向的な性格である(例外はあるにせよ)。
ロックがプラトン的なイデアの世界に行きがちだとすれば、ヒップホップは唯物論的なところから始まり、今でもその文脈を保っていると思う。
だが、ヒップホップは日本の人々になじみが薄い。最大の理由は、ヒップホップの両義性にある。
まず、それラップはパーカッションであり、歌でもある。それと同時に詩であり、演説でもある。
英語は普通に話していても、リズムが出てくる言語だ。
だから、スピーチや演説になると、ますますリズムが出る。
ラップはその延長線上にあり、言葉の音楽的な要素を最大限に引き出す。
シェークスピアをはじめ、英語の文章がやたら韻や音律を意識していたように、ラップはそうした英語の文学的伝統の最先端に位置するものである。
そこにカリブ海やら中南米やらアフリカやら、様々なリズムが入り込み、ヒップホップは色とりどりの美しいリズムの世界を創りだしたのである。
日本の文化圏では元々リズムの理解が浅く(というか、日本独自のリズムが西洋的なそれと相当な距離があったため)、グルーブの区別があまり付かないリスナーが多かった。
だから、ヒップホップのグルーブの差異をなかなか楽しめない人が多かった(しかし、それはもう昔の話)。
他方、日本の文化圏は、言葉の意味をやたら重視するので、ヒップホップのように、非常に内容のある音楽は決して嫌いではなかったはずである。
ただ、大きな問題だったのは、アメリカのスタイルをそのままやる場合で、つまり、誰かをやたら攻撃したり、政治的な主張をぶちまけたりすることには、非常に強い違和感があった。
そうした日本でのヒップホップの違和感は、もう実際にはほとんどない。
日本語でのヒップホップは今やもう完全に確立されており、日本でこの音楽が少数派なのは、単なる食わず嫌いな人が多いというだけである。
内容も日本の社会に生きる人々が自分の心情/身上/信条を自分の言葉で紡いでいる。そして、そのグルーブは目を見張るほど多様で、素晴らしいものなのである。
高校生ラップ選手権は、そのことを裏付けている。
ヒップホップは、今では確実にロックよりも日本の少数派の心情/身上/信条を表現できる。
高校生ラップ選手権の出場者それぞれが、それぞれに抱えているアイデンティティを見事に歌い上げる様子は圧巻だ。
土地や人への愛情、これまで置かれた境遇からの脱出、生への強い意志。高校生が見事なグルーブで、見事なボキャブラリーで、彼らの表現を追求していく。
全ては即興だ。
ラップバトルは、ふたりのラッパーによる交互のラップによって構成され、その内容はお互いの言葉を受け止めるかたちで、しばしば展開される。
準備したものを読みあげるのではない(もちろん、キラーフレーズは頭のなかに幾つもあるだろうが、しかしその場での選択は即興の芸術だ)。
説明が長くなったが、「第6回 高校生ラップ選手権」は、日本にヒップホップが根付いたこと、そして、もはや、それが無視できなくなっていること、さらには、少数派の声が前よりも一層、強く上げられるようになりつつあることを示している。
特に印象に残ったのは、沖縄代表のラップだ。
琉球ファンクを掲げるだけあって、見事に琉球のグルーブがハマったラップだった。
また、決勝戦での長野代表と沖縄代表のラップバトルでは、地方を背負う高校生のソウルが、瑞々しく、生き生きと、生命力にあふれた形で謳われ、現場にいた観客だけではなく、テレビを見ていた私まで、涙を誘う熱いものだった。
だが、ここで敢えて強調したい。
予選を勝ち抜き、本選に出場した高校生全員が本当に素晴らしかったと。
強いて言えば、女性のラッパーがさらに出場するようになったら良いのに、と思う(今回のラップ選手権でも、素晴らしい女性ラッパーが出場していた。とても良い声(楽器)だった)。
もちろん、アメリカでも女性のラッパーは男性のそれに比べて少ない。
そのなかで、女性のラッパーをこれからも応援したいと強く思う。
日本の音楽シーンでは、カリスマドットコムを始め、新しい女性ラッパーの潮流も出現している。
これからが楽しみで仕方がない。
最近も、日本人がラップするのには違和感があると、あるおバカな元陸上選手がつぶやいて叩かれていたが、本当にそれは無知そのもの。
ヒップホップは日本に確実に根付いている。それは日本が本当に多様性に向かって歩み始めたからだ。
それを無視するのは、間抜けもいいところ。
この音楽は生きている。どんな音楽よりも、今日本で生きている。
BAZOOKA!!!というBSスカパーの番組で行われている大会だ。
それがもう第6回目。僕は第4回くらいから見だしたのかな。とにかく、高校生たちが大人顔負けのとんでもないフリースタイル(即興でのラップ)を見せてくれる、恐るべき大会なのである。
HIPHOPは今も日本では少数派の音楽だ。かなり市民権を得てきたが、それでもロックに比べれば人口は少ない。
しかし、HIPHOPはロックには表現できないことが表現できる。と、私は断言したい。
HIPHOPはアメリカの黒人が様々な抑圧、過酷な境遇のなかで紡いできた音楽である。
もちろん、個々の伝説的アーティストは、犯罪者であったり、麻薬中毒者(あるいは売人)であったり、素行不良もいいところで、その様々なエピソードはぶっとんでいる(そうしたエピソードをまとめた本が色々出ているので、そちらも参照)。
だが、そんなふざけた人たちによる音楽は、確実に抑圧された少数派の人々の心情/身上/信条を表現してきた。
自分が明け暮れた戦いの話、お金の話、家族の話、友達の話、政治の話。
既存のメディアに十分に乗らない少数者の声がヒップホップには流れている。
乱暴にその傾向を一般化すれば、躁から鬱になっていったパンクロックとは対照的に、ヒップホップは今もかなり外向的な性格である(例外はあるにせよ)。
ロックがプラトン的なイデアの世界に行きがちだとすれば、ヒップホップは唯物論的なところから始まり、今でもその文脈を保っていると思う。
だが、ヒップホップは日本の人々になじみが薄い。最大の理由は、ヒップホップの両義性にある。
まず、それラップはパーカッションであり、歌でもある。それと同時に詩であり、演説でもある。
英語は普通に話していても、リズムが出てくる言語だ。
だから、スピーチや演説になると、ますますリズムが出る。
ラップはその延長線上にあり、言葉の音楽的な要素を最大限に引き出す。
シェークスピアをはじめ、英語の文章がやたら韻や音律を意識していたように、ラップはそうした英語の文学的伝統の最先端に位置するものである。
そこにカリブ海やら中南米やらアフリカやら、様々なリズムが入り込み、ヒップホップは色とりどりの美しいリズムの世界を創りだしたのである。
日本の文化圏では元々リズムの理解が浅く(というか、日本独自のリズムが西洋的なそれと相当な距離があったため)、グルーブの区別があまり付かないリスナーが多かった。
だから、ヒップホップのグルーブの差異をなかなか楽しめない人が多かった(しかし、それはもう昔の話)。
他方、日本の文化圏は、言葉の意味をやたら重視するので、ヒップホップのように、非常に内容のある音楽は決して嫌いではなかったはずである。
ただ、大きな問題だったのは、アメリカのスタイルをそのままやる場合で、つまり、誰かをやたら攻撃したり、政治的な主張をぶちまけたりすることには、非常に強い違和感があった。
そうした日本でのヒップホップの違和感は、もう実際にはほとんどない。
日本語でのヒップホップは今やもう完全に確立されており、日本でこの音楽が少数派なのは、単なる食わず嫌いな人が多いというだけである。
内容も日本の社会に生きる人々が自分の心情/身上/信条を自分の言葉で紡いでいる。そして、そのグルーブは目を見張るほど多様で、素晴らしいものなのである。
高校生ラップ選手権は、そのことを裏付けている。
ヒップホップは、今では確実にロックよりも日本の少数派の心情/身上/信条を表現できる。
高校生ラップ選手権の出場者それぞれが、それぞれに抱えているアイデンティティを見事に歌い上げる様子は圧巻だ。
土地や人への愛情、これまで置かれた境遇からの脱出、生への強い意志。高校生が見事なグルーブで、見事なボキャブラリーで、彼らの表現を追求していく。
全ては即興だ。
ラップバトルは、ふたりのラッパーによる交互のラップによって構成され、その内容はお互いの言葉を受け止めるかたちで、しばしば展開される。
準備したものを読みあげるのではない(もちろん、キラーフレーズは頭のなかに幾つもあるだろうが、しかしその場での選択は即興の芸術だ)。
説明が長くなったが、「第6回 高校生ラップ選手権」は、日本にヒップホップが根付いたこと、そして、もはや、それが無視できなくなっていること、さらには、少数派の声が前よりも一層、強く上げられるようになりつつあることを示している。
特に印象に残ったのは、沖縄代表のラップだ。
琉球ファンクを掲げるだけあって、見事に琉球のグルーブがハマったラップだった。
また、決勝戦での長野代表と沖縄代表のラップバトルでは、地方を背負う高校生のソウルが、瑞々しく、生き生きと、生命力にあふれた形で謳われ、現場にいた観客だけではなく、テレビを見ていた私まで、涙を誘う熱いものだった。
だが、ここで敢えて強調したい。
予選を勝ち抜き、本選に出場した高校生全員が本当に素晴らしかったと。
強いて言えば、女性のラッパーがさらに出場するようになったら良いのに、と思う(今回のラップ選手権でも、素晴らしい女性ラッパーが出場していた。とても良い声(楽器)だった)。
もちろん、アメリカでも女性のラッパーは男性のそれに比べて少ない。
そのなかで、女性のラッパーをこれからも応援したいと強く思う。
日本の音楽シーンでは、カリスマドットコムを始め、新しい女性ラッパーの潮流も出現している。
これからが楽しみで仕方がない。
最近も、日本人がラップするのには違和感があると、あるおバカな元陸上選手がつぶやいて叩かれていたが、本当にそれは無知そのもの。
ヒップホップは日本に確実に根付いている。それは日本が本当に多様性に向かって歩み始めたからだ。
それを無視するのは、間抜けもいいところ。
この音楽は生きている。どんな音楽よりも、今日本で生きている。
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