それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

SMAP解散に寄せて:立憲アイドル制の日本で、「平成」が終わる

2016-01-13 20:54:34 | テレビとラジオ
 SMAPはジャニーズ事務所では傍流である、とジャニーズ事務所の取締役副社長のメリー喜多川が週刊文春のインタビューで明らかにした。それがもう昨年はじめの話。

 傍流である理由は「彼らが踊れないグループだから」だという。

 そうした傍流に位置付けられたSMAPは飯島マネージャーのマネージメントとともに、日本のトップアイドルに上り詰めた。

 歌やダンスはともかく、ドラマやバラエティを本格的にこなすことで、彼らは日本のテレビが求めるものそのものになった。

 一番歌って踊れるように思われた森且行が脱退して後に、むしろトップへと昇って行ったSMAP。

 副社長の飯島マネージャーに対する圧力も相当だったいう噂もあり、いずれにせよ、今回のSMAPの解散、およびメンバーの独立は飯島マネージャーの辞職に起因するものであるという。



 そんな今だからこそ振り返りたいSMAP×SMAPの五人旅。 

 ドッキリの要領で五人旅を強いられたSMAP。大阪に行き、お好み焼きを食べ、USJに行き、温泉に入る。カラオケも歌う。撮影交渉もメンバーが行う。

 SMAPに突然出合った市井の人々は、驚き戸惑い感動する。

 まるで天皇陛下による行幸のようですらある。

 あるいは、まるで封建時代の将軍家のような権威だ。

 あらゆる権威が懐疑される時代に、人の心に圧倒的な影響力を有するSMAP。

 これまでのメンバーの苦労や乗り越えてきたスキャンダルなど、すべてがSMAPの今をつくっている。

 なぜSMAPにそれほどまでの権威がついたのか、誰にも分からない。

 なぜSMAPがそれほど愛されるのか、誰にも分からない。

 ただひとつ言えるのは、日本の社会がSMAPを求め、その像を間接的にであれ作り上げたということだ。

 象徴は肉体とは別。いわゆる「王の二つの身体」(自然的身体と政治的身体)だ。

 SMAPの肉体や実体的パフォーマンスと、それとは別のメディア上のシンボルを的確に操作する彼らのパフォーマンスとビジュアル。後者は同時に操作される存在でもある。

 後者は鍛錬ということだけでは形成できない類のものだ。

 それをどうやって作り上げることができるのか、実のところ、誰も知らない。

 ジャニーズ副社長が言った「踊れる、踊れない」という点は実際どうでもいい。



 五人旅で見せたSMAPの奇妙なチームワークと結束は、テレビを通じて孤独を癒そうとする日本社会の人々に、妙な安心感を与えた。

 歌えないからこそ、踊れないからこそ、傍流だったからこそ、応援したくなるSMAP。

 ヤンキーでもなく、文化系でもなく、リア充にも見えない彼らは、シンボルそのものだった。

 子供でも大人でもない、彼らは年齢不詳の存在。

 性的なシンボルでもなく、お笑い的なシンボルでもない彼らは、とにかく「アイドル」としか呼びようのない存在だった。

 どれでもなく、誰でもない存在。

 それではどれでもあり、誰でもある存在。

 SMAPはわれわれが見たいものを反映する、透明で形のはっきりしない何かのようにすら思える。

 それが解体されようとしている。 

 シンボルが崩壊しようとしている。

 われわれはそう簡単にSMAPというシンボルをつくれない。

 SMAPという王様を失おうとしている「立憲アイドル制」の日本。

 もし本当にSMAPが解体されるならば、その時、「平成」が終わるのではないか。僕にはそう思える。

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