2011年は日本国内で大きな出来事が沢山あり、音楽もまたそれに影響されたかもしれない。少なくとも、日本国内で音楽を聴く人々の意識が変わったことは間違いない。
例年は私が個人的に注目した楽曲を取り上げるが、今年は少し違う角度で議論したいと思う。
・斉藤和義の年
2011年3月11日、震災が(想定外の)福島原発事故に発展した。その結果、多くのアーティストがコンサートを中止する事態になった。
特に東北でのコンサートはことごとく中止された。
これに対して、日本通のフランス人歌手、クレモンティーヌは福島でコンサートを行い、斉藤和義の「歩いて帰ろう」を歌った。
「歩いて帰ろう」は、せかせかして自分を見失いがちな都市の生活者に対して、のんびり生きる視点を提示する楽曲だと私は思うのだが、震災後はまた別の意味を持ったかのようにも思えた。
震災は人々を歩いて帰らせ、節電の結果、日本で暮らす多くの人々が家族や自分の生き方を見直させることになり、まさに「歩いて帰ろう」的な視点を人々が持つことになった。
ただし、「嘘でごまかして 過ごしてしまえば 頼みもしないのに 同じような朝」は来ないということが原発事故で判明し、資本主義という強大なシステムも、人間の嘘によって簡単に歯車が合わなくなることが分かった。
さらに、原発事故を批判する歌として斉藤和義は自身の楽曲「ずっと好きだった」の替え歌「ずっと嘘だった」をインターネットで発表した。
これは比喩でもなんでもない、限りなく直接的な原発批判の歌だった。
電力会社がスポンサーについているテレビ局やラジオ局がことごとく原発事故報道に失敗しているなかで、斉藤和義が直接原発を批判したのは、器用な方法ではなかったが意味のあることだったかもしれない。
今年は「家政婦のミタ」がまさかの高視聴率をたたき出したが、主題歌はこの斉藤和義の「やさしくなりたい」だった。
疾走感のある、マイナー調のロックサウンドは、私個人の斉藤和義ののんびりしたイメージとはかなり違った。
これまでもそうした楽曲を斉藤和義は作ってきたのかもしれない。しかし、震災後の日本で「愛なき時代に生まれたわけじゃない 強くなりたい やさしくなりたい」と歌われると、なんだか特別な意味があるように思われるのはどうしてだろうか。
さらにSMAPの最新シングル「僕の半分」も斉藤和義の提供である。
サウンドはこれまたマイナー調。内容は失った恋についてのもの。しかし、語り口調がかなり切なく物悲しい。
もしこの時期に、90年代的なノリノリの明るい楽曲(「Shake」とか)を出していたらどうだったろう。全くの嘘、カラ元気に見えたのではなかろうか?
(ちなみに、私個人は「やさしくなりたい」も「僕の半分」も楽曲として新しい特筆すべき存在だとは思っていない。)
・韓流なのか?
少女時代とKARAは今年もさらに売れに売れた印象だった。
しかし、CD売上で言えばAKBがダントツで、それにかろうじて食い下がったのが嵐だった。
他方、ダウンロード数は少女時代がかなり強かった。
AKBや嵐のCDが売れた理由は簡単で、CDという物体そのものがファンのフェティシズムを満たすからである。
ファンがAKBや嵐に関連するグッズを物体として持ちたいと欲望することでCDが売れたのであって、楽曲そのものが欲しいという欲求だけではCDは売れない。もちろん、ある一定のクオリティを楽曲がクリアしていることも条件である。しかし、それだけでは不足なのは間違いない。
他方、CDは売れなくてもダウンロードで成功すれば、やはりヒット曲を出したことにはなる。その点で言えば、まだ韓流が強いことは間違いないだろう。
・ジェンダーと倒錯
大衆音楽を考えるうえでダンスは重要である。
それゆえ、昨今ではアーティストとプロモーションビデオ(PV)との関係が密接である。マイケル・ジャクソン以来、PVで見せる「ダンス」と楽曲のヒットが密接になっている。
インターネットの画像配信システムの発達により、一層ダンスが楽曲の魅力のひとつとして重要になった。韓国のアイドルはその点を強く意識し、ダンスの質も非常に高い。
ダンスは社会のジェンダーを強く反映すると私は思う。
韓国の「女性は女性らしく、男性は男性らしく」の文化はまさにダンスの上手さ、セクシーさに象徴されている。これはアメリカでも同じである。
日本でもこうしたセクシーさには需要がある。
韓流だけでなく、Exileもそうした日本の隠れた需要にこたえた結果ヒットしたと言える。
他方、日本固有のアイドルのダンスは「大人は子供のように踊れ」が重要である。これはセクシーさの需要には応えないが、別の根強い日本の需要に応えてきた。
日本のアイドルがダメというわけではない。
ダンスが妙に拙いことによって感情移入を誘ったり、ロリコンを刺激したりすることでヒットする。
AKBも、ももクロも一生懸命やっていることが異常に伝わるようにダンスが構成されている。
上手いとか、セクシーとかではなく、「拙いながらも一生懸命」がメッセージである。
これはつまり芦田愛菜の逆である。
つまり、子供が上手くやることが面白いのではなく、大人が下手にやることで子供みたいに見えるということが面白いのである。
これと似た倒錯はアニメ、声優でも見られる。大人が子供の声を出すことで萌えるという現象である。
この倒錯したフェティシズムは日本だけではなくヨーロッパでもうけるらしく、日本のガラパゴス的市場がもはや世界に打って出ることのできる唯一のソフトとなってしまったというのは、何とも面白おかしい。
・まとめ
ここまで斉藤和義を通じて3.11と大衆音楽の関係を考え、日韓のアイドルを通じてあいかわらずの日本の「倒錯」について考えた。
2012年も引き続き3.11の影響が続くだろう。それは明るい能天気なサウンドに対する違和感である。
しかしその結果、バブルの影響が深刻になる直前の90年代懐古主義が反動的に出てくる可能性がある。そうなると、結果的に能天気サウンドの復古になるかもしれない。
他方、日本の倒錯したフェティシズムの需要と、明確なジェンダー分離に基づくセクシーの需要は、引き続き強い音楽的ヒットの鍵となると思われる。
例年は私が個人的に注目した楽曲を取り上げるが、今年は少し違う角度で議論したいと思う。
・斉藤和義の年
2011年3月11日、震災が(想定外の)福島原発事故に発展した。その結果、多くのアーティストがコンサートを中止する事態になった。
特に東北でのコンサートはことごとく中止された。
これに対して、日本通のフランス人歌手、クレモンティーヌは福島でコンサートを行い、斉藤和義の「歩いて帰ろう」を歌った。
「歩いて帰ろう」は、せかせかして自分を見失いがちな都市の生活者に対して、のんびり生きる視点を提示する楽曲だと私は思うのだが、震災後はまた別の意味を持ったかのようにも思えた。
震災は人々を歩いて帰らせ、節電の結果、日本で暮らす多くの人々が家族や自分の生き方を見直させることになり、まさに「歩いて帰ろう」的な視点を人々が持つことになった。
ただし、「嘘でごまかして 過ごしてしまえば 頼みもしないのに 同じような朝」は来ないということが原発事故で判明し、資本主義という強大なシステムも、人間の嘘によって簡単に歯車が合わなくなることが分かった。
さらに、原発事故を批判する歌として斉藤和義は自身の楽曲「ずっと好きだった」の替え歌「ずっと嘘だった」をインターネットで発表した。
これは比喩でもなんでもない、限りなく直接的な原発批判の歌だった。
電力会社がスポンサーについているテレビ局やラジオ局がことごとく原発事故報道に失敗しているなかで、斉藤和義が直接原発を批判したのは、器用な方法ではなかったが意味のあることだったかもしれない。
今年は「家政婦のミタ」がまさかの高視聴率をたたき出したが、主題歌はこの斉藤和義の「やさしくなりたい」だった。
疾走感のある、マイナー調のロックサウンドは、私個人の斉藤和義ののんびりしたイメージとはかなり違った。
これまでもそうした楽曲を斉藤和義は作ってきたのかもしれない。しかし、震災後の日本で「愛なき時代に生まれたわけじゃない 強くなりたい やさしくなりたい」と歌われると、なんだか特別な意味があるように思われるのはどうしてだろうか。
さらにSMAPの最新シングル「僕の半分」も斉藤和義の提供である。
サウンドはこれまたマイナー調。内容は失った恋についてのもの。しかし、語り口調がかなり切なく物悲しい。
もしこの時期に、90年代的なノリノリの明るい楽曲(「Shake」とか)を出していたらどうだったろう。全くの嘘、カラ元気に見えたのではなかろうか?
(ちなみに、私個人は「やさしくなりたい」も「僕の半分」も楽曲として新しい特筆すべき存在だとは思っていない。)
・韓流なのか?
少女時代とKARAは今年もさらに売れに売れた印象だった。
しかし、CD売上で言えばAKBがダントツで、それにかろうじて食い下がったのが嵐だった。
他方、ダウンロード数は少女時代がかなり強かった。
AKBや嵐のCDが売れた理由は簡単で、CDという物体そのものがファンのフェティシズムを満たすからである。
ファンがAKBや嵐に関連するグッズを物体として持ちたいと欲望することでCDが売れたのであって、楽曲そのものが欲しいという欲求だけではCDは売れない。もちろん、ある一定のクオリティを楽曲がクリアしていることも条件である。しかし、それだけでは不足なのは間違いない。
他方、CDは売れなくてもダウンロードで成功すれば、やはりヒット曲を出したことにはなる。その点で言えば、まだ韓流が強いことは間違いないだろう。
・ジェンダーと倒錯
大衆音楽を考えるうえでダンスは重要である。
それゆえ、昨今ではアーティストとプロモーションビデオ(PV)との関係が密接である。マイケル・ジャクソン以来、PVで見せる「ダンス」と楽曲のヒットが密接になっている。
インターネットの画像配信システムの発達により、一層ダンスが楽曲の魅力のひとつとして重要になった。韓国のアイドルはその点を強く意識し、ダンスの質も非常に高い。
ダンスは社会のジェンダーを強く反映すると私は思う。
韓国の「女性は女性らしく、男性は男性らしく」の文化はまさにダンスの上手さ、セクシーさに象徴されている。これはアメリカでも同じである。
日本でもこうしたセクシーさには需要がある。
韓流だけでなく、Exileもそうした日本の隠れた需要にこたえた結果ヒットしたと言える。
他方、日本固有のアイドルのダンスは「大人は子供のように踊れ」が重要である。これはセクシーさの需要には応えないが、別の根強い日本の需要に応えてきた。
日本のアイドルがダメというわけではない。
ダンスが妙に拙いことによって感情移入を誘ったり、ロリコンを刺激したりすることでヒットする。
AKBも、ももクロも一生懸命やっていることが異常に伝わるようにダンスが構成されている。
上手いとか、セクシーとかではなく、「拙いながらも一生懸命」がメッセージである。
これはつまり芦田愛菜の逆である。
つまり、子供が上手くやることが面白いのではなく、大人が下手にやることで子供みたいに見えるということが面白いのである。
これと似た倒錯はアニメ、声優でも見られる。大人が子供の声を出すことで萌えるという現象である。
この倒錯したフェティシズムは日本だけではなくヨーロッパでもうけるらしく、日本のガラパゴス的市場がもはや世界に打って出ることのできる唯一のソフトとなってしまったというのは、何とも面白おかしい。
・まとめ
ここまで斉藤和義を通じて3.11と大衆音楽の関係を考え、日韓のアイドルを通じてあいかわらずの日本の「倒錯」について考えた。
2012年も引き続き3.11の影響が続くだろう。それは明るい能天気なサウンドに対する違和感である。
しかしその結果、バブルの影響が深刻になる直前の90年代懐古主義が反動的に出てくる可能性がある。そうなると、結果的に能天気サウンドの復古になるかもしれない。
他方、日本の倒錯したフェティシズムの需要と、明確なジェンダー分離に基づくセクシーの需要は、引き続き強い音楽的ヒットの鍵となると思われる。
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