それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

知識人

2012-05-28 18:42:36 | 日記
博論を直しながら、知識人intellectualsについてほんの少し思いを巡らせていた。

私は知識人にはなれないだろう。

私は闘争に耐えるような精神や肉体、そして何より強烈な使命感や正義感を持っていない。

私が今まで出会ったなかで知識人になりえる人物はTさん以外にはいなかった。

おそらく友人Kもそうなろうとしていた。

ふたりの性質は全く異なる。が、彼らが目指しているであろう最終的なイメージは少しだけ似ている。
知識人というもののイメージについては。

大学の教員は知識人ではない。

研究者も知識人ではない。

もちろん知識人が大学の教員であったり、研究者であったりすることはあるが。

私はイギリスに来るまで、知識人というものについて考えたことはなかった。いや、考えないようにしてきたのかもしれない。

私は友人Kを観察しながら、自分と彼が研究について全くことなるイメージを描いていることに気がついた。

そして、私はその差異を追求していくことにした。

そうせざるを得なかった。

私にとって友人Kは決して追いつくことのできない存在だったからだ。

私はその差異が何なのか、しかしその時点では全く分からなかった。

私はこれまでも、そして今もまさに、純粋にナイーブに「研究」を生き方にしている。

Kとの差異は知識人と研究者の差異だった。今にして思えば。

周囲の人はKがなぜ研究者にならなかったのか、と私に尋ねてくる。

彼は研究に向いていなかった。それは事実だ。

だが、そもそも質問者はKが何になりたかったのか知らない。

それは簡単には説明できない。

けれども、それを一言で言えば知識人だった。

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