それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

映画「セッション」:日本の吹奏楽部のトラウマを思い出させてくれる、あるいは私のトラウマ映画

2015-04-20 21:01:22 | テレビとラジオ
 映画「セッション」がジャズ音楽家の菊地成孔氏に酷評され、映画評論家の町山智浩氏によって支持され、ちょっとした良い感じのビーフ(公開のヒップホップ的言い争い)になっている。

 だから、僕は急いでこの映画を見ることにした。

 映画にとって良質なビーフは即効性がある薬になるのかもしれない。

 この映画の見事な批評はすでにネット上に色々出ている(驚くほど的外れなものもあるが)。

 そこで、ここでは「日本の吹奏楽部」という視点から少しだけ感想を書くことにする。



 映画「セッション」の原題は「Whiplash」(=鞭の先)というもので、映画の内容を正確に伝えているのは原題の方であるので、そのことを念頭に置いてほしい。

 あらすじは以下。

 主人公はプロのジャズドラマーを目指して、アメリカの名門音楽大学(そういうことになっているが、本当か?)に入ったばかり。凄腕の学生がわんさかいるなかで、なかなか目立てないでいた。

 そんな中、ビッグバンド部の鬼教師の目にとまり、少しずつ実力をつけ、なんとビッグバンド部のレギュラーの座を獲得する。

 ところが、そこから彼を待ち受けていた運命は大変なものだった・・・。



 とにかく、この映画はジャズの映画ではない、と割り切って欲しい。ジャズっぽい音楽が聞こえてくるが、これはジャズではない。

 そうではなくて、これは日本の高校の吹奏楽部を描いた映画だと思って観てほしい。

 本作に登場する白人の鬼教師の指導は、無茶苦茶暴力的で教育的効果があるのか疑わしい。学生たちは確実に心と体を蝕まれている。

 鬼教師はジャズというか、ブラックミュージックに最も必要なグルーヴをまったく大切にしない。とにかく、バカの一つ覚えで、正確なリズムと音程のことしか言わない独裁者。

 ブラックミュージックに必要なものがごっそり抜け落ちている。

 その先生に一生懸命付いていこうとする真面目で馬鹿な学生たち。音大の学生なんだから、音楽の全体像が見えていても良いだろうに、こんなバカな先生にとにかくひれ伏してしまう。

 主人公は馬鹿で真面目で一生懸命で、目の前の楽譜と鬼教師のことしか見えていない。だから、この教師の指導を内面化してしまう。そして、それがこの映画の後半の波乱につながる。

 これはまさに、日本の中学か高校の吹奏楽部のようだ。



 私は中学校の時、吹奏楽部だった。高校でも続けようとしたが、入部直後に先輩と考え方が合わなくて退部し、別の音楽の部活を友人と作った。大学ではブラックミュージックをやっていた。そういう私の小さな歴史を前提に読んでほしい。

 

 中・高の吹奏楽部は基本的にスパルタになりがちだ。強い学校も弱い学校もそうだ。だが、音楽と指導法がちゃんと分かっている教師は一握りにすぎない。だから、その点、体育会系の部活と似ているかもしれない。

 学生は基本的に音楽のことを知らない。虫食いだらけの知識か、真っ新な白紙で挑むから、教師の言うことが全てになる。

 教師は吹奏楽部では小さな独裁者になる。正解はすべて教師の頭のなかにあり、学生は必至でそこに至ろうとする。

 可哀そうに、教師の頭のなかにある答えは、まず不正解なのに。

 音楽のリテラシーが無いばかりに、無駄な犠牲となる学生たち。音楽は楽譜と教師の向こう側に広がっているのに・・・。

 

 映画「セッション」のなかの鬼教師の化けの皮は、映画の最後の方ではがれる。

 彼がバーで演奏している陳腐なピアノ。心が痛くなる。

 しかも、最後まで主人公を痛めつけようとする鬼教師。完全に病気というか、犯罪者。

 この映画の最後の最後にはカタルシスがあった、という評者もいる。

 だが、私にはそうは思えなかった。敢えて言うなら、主人公は鬼教師の呪縛から逃れたようにも見えるし、結局、マインドコントロールされたままのようにも思える。どっちなのかは分からない。



 だが、この馬鹿な鬼教師は私自身でもある。

 大学のサークルでブラックミュージックのリーダーを務めていた私自身だ。

 ろくに音楽も知らないまま、滅茶苦茶やっていただけだった。

 だから、この映画は私のすべての音楽にまつわるトラウマを掻き毟る映画だった。

 どうあがいても、私はこの映画のなかにいる。

 私は馬鹿な生徒であると同時に、無能な指導者でもある。今もなお。

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