消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(298) オバマ現象の解剖(43) 一人勝ち(4)

2010-03-25 21:25:12 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 ゴールドマン・サックスの歴史


 ここで、金融危機下でひとり勝ちしたゴールドマン・サックスの略史を見ておこう。

 バイエルン(Bavarian)の学校の教師をしていたユダヤ系ドイツ人のマーカス・ゴールドマン(Marcus Goldman) が、一八四八年に米国に移住してきた。最初の数年間はニュージャージーでセールスマンをし、次にフィラデルフィアに移って小さな衣料品店を開いた。南北戦争後はニューヨークに移り、一八六九年から約束手形(promissory notes)の売買に携わった。マンハッタン島南のメイデンレーン(Maiden Lane)横町にある宝石店や「スワンプ」(swmp、湿地帯)と呼ばれていた地域の皮革店などから、午前中にそれぞれの顧客の約束手形を買い取り、午後になってそれらを商業銀行に安い口銭で売りつけるということをしていた(Tarquino[1999], p. 28)。

 一八八二年、マーカスの娘婿、サムエル・サックス(Samuel Sachs)もこの商売に加わることになった。一八八五年、合資会社となり、会社名もゴールドマン・サックス&カンパニー(Goldman Sachs & Company)と改称(Spiro[1999])。この年、マーカス・ゴールドマンの息子、ヘンリー(Henry)と娘婿ルードリッヒ・ドレイフス(Ludwig Dreyfus)が加わる。このヘンリーが業績を大きく伸ばした。プロビデンス(Providence)、ハートフォード(Hartford)、ボストン、フィラデルフィアへと営業範囲を広げていった。

 一八八七年には、英国のマーチャント・バンクであるクラインウォート・サンズ(Kleinwort Sons)と提携し、為替の裁定取引に乗り出した。
 顧客は、中西部のシアーズ・ローバック(Sears Roebuck)、クルート・ペーボディ(Cluett Peabody)、ライス・スティックス・ドライ・グッズ(Rice-Stix Dry Goods)などの有力会社であった。支店もセント・ルイスやシカゴに設置し、強力な国内経営基盤を作り上げたのがヘンリーであった。

 一九世紀末には、西部開拓のための鉄道投資が東部の金融界の最大の関心事項であったが、ゴールドマン・サックスは鉄道だけでなく様々な産業に投資し、ポートフォリオの多様化を一貫して目指していた。

 一八九六年、 サミュエル・サックスの弟、ハリー(Harry)が参加して、ニューヨーク株式市場に上場。このハリーがヨーロッパのマーチャント・バンクのクラインウォートと組んで海外業務を拡大させた。一九〇六年、未公開株上場(IPO=Initial Public Offering)業務に乗りだす。

 たとえば、ユナイテッド・シガー・マニュファクチュアーズ(United Cigar Manufacturers)に株式を公開させて、わずか一年間で四五〇万ドルを集めることに成功した。その直後、今度はシアーズ・ローバックの株式公開を実現させた。その機縁で、ヘンリー・ゴールドマンは、両社の重役に名を連ねることになった。以後、顧客の取締役会に人を送り込むことがゴールドマン・サックスの伝統的戦略となった。

 一九一〇年代の工業ブーム時、ゴールドマン・サックスは小企業を積極的に育成した。メイ・デパートメント(May Department Store)、ウールワース(F.W. Woolworth)、コンチネンタル・カン(Continental Can)、グッドリッチ(B.F. Goodrich)、メルク(Merck)などがそうである。

 ヘンリーは一九一七年に引退した。有限責任のパートナーとなったサミュエル・サックスとハリー・サックスに経営権を禅譲したのである。さらに、アーサー(Arthur)、ヘンリー(Henry E.)、ハワード(Howard J.)などのサックス家の人たちが参加した。当時、ゴールドマン・サックスは一族経営を原則としていた。

 第一次世界大戦中の金融業は不況であったが、終戦後は大好況が到来した。ハインツ(H.J. Heinz)、ピルスベリー(Pillsbury)、ゼネラル・フーズ(General Foods)などがゴールドマン・サックスに追加資金を仰ぐようになった。

 好況は一九二〇年代を通じて持続し、ゴールドマン・サックスは投資子会社ゴールドマン・サックス・トレーディング・コーポレーション(Goldman Sachs Trading Corporation)を設立したが、一九二九年恐慌の直撃を受け、一九三三年には、当初の一〇〇〇万ドルの資本金のほとんどが毀損してしまい、本体もまた業績低迷にあえぐことになった。

 こうしたなかで頭角を現したのが、シドニー・ワインバーグ(Sidney J. Weinberg,)である。一九〇七年に事務助手として週給二ドルの薄給からスタートし、一九二七年には若干三五歳の若さでパートナーに昇格した。一族外からパートナーになった第一号であった。彼が、ゴールドマン・サックスを株式仲介業務から投資銀行業務に転換させたのである。それは、M&A、不動産投資業務、大口市場外取引(ブロック・トレーディング=block trading)であった。

 ちなみに、SECは、一九三三年証券法(Securities Act of 1933=グラス・スティーガル法=Glass-Steagall Acte Banking Act of 1933)によってが設立された。
 シドニー・ワインバーグは、第二次世界大戦中に政府に徴用され、戦費調達業務を委託された。そのことによって、ゴールドマン・サックスの組織も拡大した。ワインバーグは、朝鮮戦争時にも政府の役職に就いた。

 トップを徴用されたゴールドマン・サックスは、命令系統の細分化を急いだ。トップがすべてを決定するという従来のシステムを、経営委員会(Management Committee)システムに替えた。経営委員会の初代の議長は、グス・レビー(Gus Levy)であった。彼は、のちに、ニューヨーク証券取引所社長になる。グス・レビーの加入によって、ゴールドマン・サックスは投資業務と証券業務とが二大柱になった。

 一九五六年一一月フォード・モーターズが株式の公開に踏み切った。フォードですら、それまでは未公開株だったのである。ゴールドマン・サックスはフォード株式を一〇二〇万株、七億ドルで販売した。大商いであった。これもワインバーグの功績であった。この年、ワインバーグの強い進言もあって、ゴールドマン・サックスは投資部門を独立させた。一九五〇年代は投資部門のワインバーグと証券部門のレビーが同行を牽引した。

 一九六七年一〇月、アルカン・アルミニウム(Alcan Aluminum)株の市場外取引(ブロック・トレーディング)の大商い。一一五万株、二六五〇万ドルと史上最大の取引であった。これは、レビーの功績であった。

 シドニー・ワインバーグは一九六九年一一月に逝去。会長にはシニア・パートナーであったグス・レビーが就任した。レビーは「長期的視点」(Long-term greedy)という有名なスローガンを掲げた。短期的な損失などたいしたことではない、つねに、長期的視点でことに望めという意味である(Weinberg[2000], p. 170)。 しかし、一九七〇年ペン・セントラル鉄道(Penn Central Railroad Company)が、コマーシャル・ペーパー(CP=Commercial Paper)残高八〇〇〇万ドルを残して倒産した。このCPの大半はゴールドマン・サックスが引き受けたものであった。現在と同じく、このときも、格付け会社への批判が沸き上がった((Hahn, Thomas K.. "Commercial Paper". in Timothy Q. Cook and Robert K. Laroche editors (PDF). Instruments of the Money Market (Seventh Edition ed.). Richmond, Virginia: Federal Reserve Bank of Richmond.; http://www.richmondfed.org/publications/economic_research/instruments_of_the_money_market/ch09.cfm)。

 一九七〇年、シニア・パートナーのスタンレー・ミラー(Stanley R. Miller)によって、ロンドンに最初の海外支店が設立された。一九七四年には、インターナショナル・ニッケル(International Nickel)とゴールドマン・サックスのライバルであるモルガン・スタンレーが仕掛けたエレクトリック・ストーレイジ・バッテリー(Electric Storage Battery)の買収劇を阻止すべくホワイト・ナイト(白騎士=敵対的買収をかけられた企業を救済してくれる組織=white knight1)の役割を演じた。このことがゴールドマン・サックスの評判を高めた。敵対的買収に与することがないという信頼を勝ち得たのである。
 一九七六年、レビーの死後は、シドニー・ワインバーグの息子のジョン・ワインバーグ(John L. Weinberg)とジョン・ホワイトヘッド(John Whitehead)がシニア・パートナーズとなった。またホワイトヘッドは、レーガン政権下の国務次官補になり、ジョン・ワインバーグがチーフ・パートナー兼会長となった。

 ゴールドマン・サックスは、一九八一年末にアローン(J. Aron & Company)という商品取引会社を買収し、業務の多様化を図った。アローンは、希少金属、コーヒー、外国為替取引を得意とする会社であった。この会社の買収によって、ゴールドマン・サックスは南米で地歩を強固にした。

 一九八二年五月には、ジョン・ワインバーグの指揮下でロンドンのマーチャント銀行のファースト・ダラス(First Dallas, Ltd)を買収した。

 一九八五年、ゴールドマン・サックスは、史上最大のREIT(リート=不動産投資信託=Real Estate Investment Trust)を実現させた。ロックフェラー・センター(Rockfeller Center)の所有者であるリアル・エステート・インベストメント・トラスト(Real Estate Investment Trust)の発行する証券を引き受けたのである。また、この頃から世界の政府系企業の民営化のコンサルタント業務に乗り出した。

 一九八六年、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(Goldman Sachs Asset Management)を設立し、ミューチュアル・ファンド(米国式投資信託=mutual fund)やヘッジファンドを顧客にするようになった。同年、マイクロソフトのIPOを保証した。さらに、RCAを買収するGEのアドバイザーを務めた。さらに、ロンドンと東京の証券取引所の会員になった。

 一九八六年八月、ゴールドマン・サックスは、住友銀行からの約五億ドル(当時のレートで約七七〇億円)の出資を受け入れることで合意した。しかし、銀行と証券業務を分離しているグラス・スティーガル法があったために、住友出資分には議決権はつけず、役員派遣もしないという内容であった。住友側は、責任範囲を限定したリミテッド・パートナーという地位に甘んじる低姿勢だったが、FRBは厳しい条件を付けた。

 住友のパートナーシップ取得は二五%未満にする、住友の名称使用を禁止する、役員派遣は禁止、議決権行使はしない、つまり、純然たる投資に限定するというものであった。その結果、一九八六年一二月四日、住友はニューヨークに一〇〇%出資の子会社、SBCM(スミトモ・バンク・キャピタル・マーケット=Sumitomo Bank Capital Market)という投資銀行を設立、翌五日に出資契約に調印、同日付でSBCMを通じて一二・五%分に当たる四億二五〇〇万ドルの出資を完了した(http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2008/09/23/3780469)。

 一九九〇年、ロバート・ルービン(Robert Rubin)とスティーブン・フリードマン(Stephen Friedman)が、共同シニア・パートナーズに就任し、本格的なグローバリズム展開を目指すことになった。ルービンは、一九九三年経済担当大統領補佐官としてクリントン政権入りして、その後はフリードマンが単独会長になった。主としてM&A仲介業務であった。一九九一年、GSCI(ゴールドマン・サックス・コモディティ・インデックス=Goldman Sachs Commodity Index)を創設した。

 ゴールドマン・サックスは、ルービン、フリードマン時代に急激に高収益機関になった。一九九一年には、税引き前利益で一一億ドルをあげ、従業員に支払われた一九九二年末のボーナスは年収の二五%にもなった。一九九三年には世界でもっとも収益をあげる投資銀行グループとなった。税引き前利益が二七億ドルとわずか二年で収益を倍以上に拡大させたのである。この収益拡大の秘密は、米国の投資家に日本株を勧めたことにある。

 しかし、一九九四年、急激なドル安の進行で、債券市場が崩壊し、一挙に業績が悪化し、大量の人員整理を余儀なくされた。ほぼ五〇人ものベテランのパートナーたちも辞めた。会長のスティーブン・フリードマンまでが辞任した。ジョン・コージン(Jon Corzine)が後を継いだ。

 一九九六年には、ヤフー(Yahoo)の株式公開、一九九八年にはNTTドコモの株式公開の幹事となった("Goldman Sachs: After the Fall," Fortune, November 9, 1998, p. 128)。

 一九九九年にはヘンリー・ポールソン(Henry Paulson)が会長になった。この年、ゴールドマン・サックスはニューヨーク証券取引所の厳しい自己資本比率という条件に従わなくてよい投資銀行業務を営めるゴールドマン・サックス・グループ(Goldman Sachs Group)を設立し、IPO業務に拍車をかけただけでなく("IPO Again," Crain's New York Business, March 15 1999, p. 34)、株式も公開した(Creswell[1999], p. 120)。

 これは驚くべきことである。ゴールドマン・サックスのような巨大会社が、しかも、他社の株式公開引き受けを主要な業務内容としている会社が、それまで自社株は未公開だったのである。

 ここで、パートナー制(パートナーシップ)について説明しておく。パートナーシップとは、米国における法人形態のひとつで、日本でいう合名会社や民法上の組合のような組織に似ている。パートナーとは出資者のことであり、共同経営者となる。営業関係の契約をおこなうさいには、法人としてではなく、個人としておこなう。無限責任を連帯して負う無限責任パートナーズと、そうしなくてもよい有限責任パートナーズがある。会計事務所やコンサルティング会社に多い。法人名のあとに、「&Co.」をつけているのが、この制度の企業である(http://www.exbuzzwords.com/static/keyword_1086.html)。

 ただし、公開した株式は一部にすぎなかった。四八%はパートナーズ保有、二二%はノン・パートナーズの従業員、一八%が引退した元パートナーズと当時の住友銀行、ハワイのカメカメハ(Kamehameha)学校の投資部門であるカメカメハ・アクティビティーズ・アソシエーション(Kamehameha Activities Assn)の二大出資者に所有されていて、公開されたのは、わずか一二%であった。販売額は六九〇〇万ドルであった(Spiro[1999])。

 株式公開とともに、それまでシニア・パートナーと呼ばれていた会長職はチャーマン(Chairman)と呼ばれることになった。CEOという名称も使われるようになった。ポールソンがその第一号である。

 この年、世界的に有名なマーケット・メーカーのハル・トレーディング(Hull Trading Company)を五億三一〇〇万ドルで買収した。さらに、二〇〇〇年九月、スピーア・リード&ケロッグ(Spear, Leeds, & Kellogg)を六三億ドルで買収した。その後、ブラジルに力点を置き、さらに、石油・電力事業の世界展開をした。原油価格騰貴はゴールドマン・サックスの投機によるといわれている(Global Research. http://www.globalresearch.ca/index.php?
context=va&aid=8878)。. 

 二〇〇六年五月、ポールソンがブッシュ政権の財務長官として入閣。後任には、ロイド・ブランクファイン(Lloyd Blankfein)が就任した。

 二〇〇八年九月二二日、FRBの勧告を受けて投資銀行から銀行持ち株会社に転身した("Goldman Sachs to be regulated by Fed". Bloomberg. http://www.reuters.com/article/mergersNews/idUSNWEN838420080922; "Wall Street in crisis,  Last banks standing give up investment bank status, Guardian, September 22, 2008)。

 二〇〇〇年、ゴールドマン・サックスは三億ドルの収益をあげた。翌年は、九・一一テロによる金融界の動揺で業績不振であったが、それでも、二〇〇一年を通してゴールドマン・サックスはM&A仲介者としてこの業界を独走していた。M&A仲介額の八割はゴールドマン・サックスの手によるものであった。日本のM&Aの四六%を占有し、ドイツでは第二位であった。この年、IPO関連では全米第一位であった。しかし、M&AとIPOへの過度の傾斜によって、収益構造は非常に脆弱なものになってしまった。こうした業務は浮き沈みが激しいからである。事実、二〇〇二年になると、両者ともに沈滞してしまった。M&Aは四二%も縮小し、IPOは、二〇〇一年一二月から二〇〇二年三月までに四件しか米国ではなかった。

 加えて、ゴールドマン・サックスの規模は、ライバルに比べて小さかった。シティバンクの規模はゴールドマン・サックスの三倍であり、JPモルガン・チェースは二倍であった。そのこともあって、ゴールドマン・サックス自体がM&Aの対象になるのではないかとの噂も飛び交った。

 そうした噂をポールソンはきっぱりと切り捨てて、『ビジネス・ウィーク』に語った("Wall Street's Lone Ranger," Business Week, March 4, 2002)。「われわれは優秀なグローバル投資銀行、証券会社であり続けたい。もっとも重要なマーケットでもっとも重要な顧客との取引をとてつもなく大きくしたい」、これを達成するためには、「米国、ドイツ、英国、日本、中国」との政府関係者と密接にならなければならない」と。ゴールドマン・サックスの歴史はまさにそれを地でいくものであった。


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