高次元過程に基づく世界記述は、哲学的・原理的な問題を考察する上で本質的な役割を演じるものの、
実用的な諸科学への影響は、きわめて軽微である。その理由は、人類の棲息する時空領域が、高次元での
量子過程に固有な性質をあまり表面化させないような状態にあるからである。ビッグバン直後の高温・
高密度状態では、場の自由度は至る所でエネルギー量子数の大きな励起状態にあり、
「空間の中に物質がある」という直観は通用しない。だが、数十万年が経過して宇宙のエネルギー密度が
充分に低下すると、大部分の自由度は基底状態の近くで穏やかな相互作用しか行わなくなる。
しかも、この宇宙では、CP対称性(物質と反物質の間の対称性)が破れており、物質粒子の方が反物質粒子
よりもわずかに多くなるという特徴があるため、対消滅の相手を失った陽子や電子が集まって、
真空中に浮かぶ安定な物質を作り始める。このとき、強く束縛されていない原子や分子(アンモニアや水など)
は、異なる自由度の励起状態になっている──φ(x)の引数xが異なっていると考えて良い──ため、
一定領域内で量子過程を分離して別個の独立した過程が具現化されていると見なせる。直観的に言えば、
それぞれの原子や分子を、異なる位置座標を持つ孤立した粒子としてイメージすることが可能になる。
こうした状況は、われわれの身の回りにおける多くの局面で成立しており、さまざまな物理現象を
古典スキームに当てはめて解釈しても、大きな問題は生じない。もちろん、分子内部の共有電子を問題にして
、「この電子は“実際には”どこにあるのか」と疑問を発したときには、素朴な解釈は妥当ではなくなるが、
無機化学(abiochemistry)から動物解剖学(zootomy)に至るまでの、原理的な問題意識を持たずに諸現象を
記述する通常科学の範囲内では、前章で示した新しい世界記述の方法が、従来の科学的知見に重大な変更を
迫ることはない。