思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

現代文明が行き詰った理由

2014-10-31 13:16:50 | Weblog
現代文明が行き詰った理由

物質文明の発達によって地球の環境が破壊され危機的状況にある。
この問題は、人類が環境問題を考えるだけでは解決されない。
なぜなら現代科学はこの世界を創造している真の正体を全く理解していないからだ。
現代科学は物質世界がこの世の全てと思い込み、人間の五感で感じるもの以外を排除したため、超感覚でしか捉えることのできない非物質世界を無視してしまったことがその理由である。

ではこの世界を創造している真の正体とは何か。
それは高次元非物質世界から流入する無限の創造エネルギーである。
無限の創造エネルギーは波動であり多様な波形と振動数を持っている。
このエネルギーが世界の秩序と法則を生み出し宇宙を進化させているのだ。
従ってこのエネルギーをコントロールすることで現代文明の行き詰りを打開し
永遠に進化し続ける文明を作り出すことが出来るだろう。

そのためには人間の意識が進化し創造エネルギーと一体にならなければならない。




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無限の創造エネルギーの流れ

2014-10-30 16:30:36 | Weblog
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無限の創造エネルギーによる普遍文明の創造

2014-10-29 15:02:20 | Weblog
非物質界から流入する無限の創造エネルギーにより、物質界は形作られる。



人間は創造エネルギーと意識を融合させることで、真の自己を発見し、

深い実存体験をする。




非物質界から流入する無限の創造エネルギーを人間精神によって制御することで、

普遍的文明を作り出せる。










永遠無限絶対の実在が、有限相対的人間を自己のもとに引き戻す力が常に働いている

根井康之




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根井康之の哲学講義より 『東西思想の超克』再説

2014-10-28 13:41:25 | Weblog
『東西思想の超克』再説

第1回 古代の精神革命

http://www.geocities.jp/neieiko/tzs/tz1r.html


 科学を基礎とする近代合理主義による超感覚的実在界の否定

 現代は、人類が二千数百年にわたり連綿として継承してきた思想的伝統が解体したという点において、画期的な時代である。そのような事態をもたらしたものは、近代科学がその基礎を形成した近代合理主義思想である。

 科学は、感覚器官によってとらえることのできる存在だけを認識対象とし、感覚的に知覚される存在領域に貫徹する法則を理性によって解明する。そこには、認識対象を、理性という認識能力に適合する範囲に限定する、という態度が貫かれている。それが、近代合理主義の立場である。もちろん、科学にとっても未知の領域は常に存在する。しかし、近代合理主義によれば、そのような領域も科学の無限の進歩によって解明し尽くすことができるとされる。

 したがって、近代合理主義は、感覚的に知覚し理性的に解明することのできない存在領域を否定することになる。こうして、近代合理主義は、超感覚的な存在領域を固有の対象としてきた宗教、形而上学を排除したのである。そして、そのことが人間理性の勝利、開放としてとらえられたのである。

 近代に至るまで、人間の生活と思想は、何らかのかたちで、神や仏という超感覚的実在に基礎づけられたものとして存立してきた。近代合理主義は、そのような超感覚的実在を否定することによって、人類の思想的伝統を解体してしまったのである。そこには、近代以前において、感覚的存在領域よりも現実的であり実在的であるとされてきた超感覚的存在領域が、非現実的であり非実在的であるとされる、という逆転が生じている。そのことは、近代合理主義が、感覚界と超感覚界という二つの存在領域を認める立場を否定し、全存在領域を感覚界に一元化してしまったということを意味している。

 感覚界を現実的・実在的とし、超感覚界を非現実的・非実在的とする態度そのものは、近代科学・近代合理主義に特有な態度ではない。それは、人間の日常的意識のあり方そのものに根差しているものである。そのことについて、井筒俊彦は、「日常性の立場をどうしても離れることのできない人にとっては、彼が直接に目をもって見、手をもって触れる感性的事物の世界だけが唯一の現実であって、感性界を絶対的に超越する普遍者の世界のようなものはなんらの現実性もない一片の幻影か、さもなければ、存在するにしても、ただ人間の頭の中にだけ抽象的概念として存在するにすぎない」(『神秘哲学』第二部P47)と述べている。

 科学的認識は、このような日常的意識を方法的に精錬化したものであることによって、超感覚的実在界を否定することになったのである。井筒俊彦は、そのように有の究極であるものを無としてしか捉えることのできない日常的意識のあり方を、「人間の自然的認識に纏綿する本源的悲劇性」「人間的認識の自然的構造に由来する有無の矛盾」(前掲書P49)と呼んでいる。

 二つの存在領域に対応する人間の意識、認識能力の二つのあり方

 日常的意識が無としてしかとらえることのできないものが、存在的にも無であるというわけではない。ただ、超感覚的実在界・存在領域をとらえるためには、感性、理性と根本的に異なる認識能力によらなければならないのである。すなわち、二つの存在領域に対応して、人間の意識、認識能力にも二つのあり方が区分されるのである。

 感覚的存在領域を対象とする意識、認識能力は、感覚器官が対象に直接触れる感性的直観とそれに結びついた理性である。それに対して、超感覚的存在領域を対象とする意識、認識能力は、超感性的対象に直接触れる知的直観とそれに結びついた知性である。すべての人間は、この二つの意識、認識能力を本来的に有している。二つの意識、認識能力のうち、感性的直観、理性の方は、普通の人間でも働かせることが容易である。それが、「日常的意識」「自然的態度」のあり方とされる所以である。それに対して、知的直観、知性を働かせるためには、日常的意識の自然的態度を特異なものへと態度変更をすることが必要となる。

 感覚的存在領域―感性的直観、理性と、超感覚的存在領域―知的直観、知性とのあいだには、絶対的断絶がある。したがって、感覚界を一度絶対的に否定しないかぎり、人間は、超感覚界に至ることはできないのである。このことを意識についていうならば、日常的意識の働きを停止し、意識のあり方を絶対的に転換させなければならない、ということである。それによって、知的直観、知性という認識能力が働きはじめるのである。

 そこにはじめて、宗教、形而上学が可能となる。したがって、宗教、形而上学の対象である神や仏といった超感覚的実在は、経験にもとづかない人間の空想の産物でもなければ、独断的に設定したものでもないのである。それは、感性的経験(感性的直観)の対象ではないが、それとは異なる超感性的経験(知的直観)の対象なのである。人間の経験は、感性的経験に限定されるものではなく、その限界を超出する領域にまで及んでいる。宗教者、形而上学者は、科学者の経験を超える実在を経験するのである。この経験は、感性的経験とは異なるが厳然たる経験なのである。

 超感覚界から自己を遮断し感覚界に自己閉鎖的になった現代の人間

 にもかかわらず、科学は、経験を感性的経験に限定し、認識能力を感性的直観、理性に限定してしまった。こうして、神、仏、天、道などの実在は、感覚にはかからないものとして、その現実性、実在性を否定されることになったのである。感性的直観、理性という認識能力の本質的限界は、科学がどのように進歩しても排除することはできない。したがって、科学の無限の進歩によって次々と未知の領域が解明されたとしても、それは感覚界にかぎってのことであり、科学的には原理的に解明不可能な超感覚界という存在領域は残らざるをえないのである。

 だが、近代合理主義の立場からすれば、科学的に解明できない存在領域などというものが残存する余地はない。すべては科学的認識の対象として一元化とされ、感覚界と超感覚界という二つの存在領域を認める立場は否定される。二つの存在領域を認めることによって初めて可能となる宗教、形而上学が否定されることになったのは、必然的な帰結であった。近代合理主義は、科学的認識の本質的限界に無自覚なのである。

 先述したように井筒俊彦は、有の究極にあるものを無としてしかとらえることのできない日常的意識、自然的態度の「悲劇性」「矛盾」に言及していた。日常的意識の方法的精錬化としての科学的認識は、この悲劇性、矛盾を克服、解消することなく、固定化し極限化したということができる。近代以降は、科学的認識がその基礎を形成した合理主義的思考が人間の日常的生活を規制するものとして一般化していった結果、感覚界のみが現実的、実在的であり、超感覚界は非現実的、非実在的である、とする思考方法、態度がますます強化されていった。超感覚的実在などというものは、科学的に実証されない非合理的なものとして排斥されることになった。

 今日では、神や仏について語ることは嘲笑の対象ですらある。現代は、人間の思考が、合理主義的思考にほとんど覆い尽くされた時代ということができる。だが、それは、人間の思考のあり方として極めて偏頗なものでしかない。

 現代の人間は、感覚界のうちに自己閉鎖的となり、超感覚界から自己を遮断してしまった。すなわち、現代の人間は、感覚界から超感覚界へと超越する通路を排除してしまったのである。「『物質』を基底とする自然界という世界像が、世界からも、世界のうちなる人間からも、『超越』への通路を除き去ったのである。」(西谷啓治『禅の立場』著作集第11巻P163)ということである。それが、二千数百年にわたる人類の思想的伝統が解体されたことによってもたらされた事態である。

 ここに、現代における最も深刻な思想的危機があり、それ克服することをこそ現代の哲学に課せられた最も大きな課題なのである。にもかかわらず、この思想の危機と課題は、現代においてなお十分自覚されているとはいいがたい。そこに、現代において極限化された「人間の自然的認識に纏綿する本源的悲劇性」の深刻さがある。

 「哲学する」という実践による感覚界から超感覚界への超脱

 この思想的危機と課題を明確に自覚することによって、現代において真に「哲学する」ことが可能となる。プラトンは、哲学とは「此岸から彼岸に超脱すること」であると述べている。このことは、日常的意識の自然的態度を絶対的に転換することによって、感性的直観、理性とは根本的に異なる知的直観、知性という認識能力を活生化させ、超感覚界の真実相を体得・体認する、ということとしてとらえ返すことができる。

 この意識の態度変更、転換を遂行するためには、特別な実践、自覚的行為が求められる。それは、宗教的には「修業」といわれる実践であり、ヨーガ、坐禅、瞑想などが、それである。その実践により、人間が感覚界から超感覚界に超脱することが、宗教的には「回心」「覚醒」「解脱」「悟り」などと呼ばれるものである。それによって、人間は、超感覚的実在との合一という体験をする。それが、宗教的には「神人合一体験」などといわれるものである。

 だが、この実践、体験は、狭く宗教的なそれに限定されるものではなく、哲学にも共通するものである。哲学とは、実践や体験を離れた純粋な思索の産物ではない。それは、実存的に哲学するという実践によって感覚界から超感覚的実在界へと超脱し、超感覚的実在と合一するという体験のロゴス化として形成されるのである。

 このようにみてくるならば、近代合理主義が感覚界から超感覚界への通路を排除してしまった現代において、真に実存的に哲学することがいかに困難なことであるか、ということが明らかになる。だが、このことは、学問の一分野としての哲学や専門的な哲学研究者にのみかかわる問題ではなく、現代のすべての人間にかかわる普遍的で根源的な問題である。

 たしかに、人間が感覚界から超感覚界へと超脱し、知的直観、知性という認識能力を働かせるためには、日常的行為とは異なる特殊な自覚的行為が必要であり、それは決して容易な業ではない。しかし、知的直観、知性という認識能力自体は、特定の人間のみが有する特殊な能力ではなく、本来すべての人間が有しているものなのである。ただ、それは、自然のまま放置しておけば潜在的な状態にとどまり、発動することができないだけである。そのことは、宗教において、ごく普通の多くの人間が偉大な宗教者の導きによって、彼と同じ回心とか解脱という体験をしてきたという事実をみれば明らかである。

 したがって、「修行する」「哲学する」という自覚的行為の目的は、一人ひとりの人間が感覚界から超感覚界に超脱し、超感覚的実在との合一体験に至るということにある。哲学とは、日常的意識の枠内にある人間に対し感覚界から超感覚界に転換するよう促し、超感覚的実在へ至る途を指し示すものであり、一人ひとりの人間は、その差し示された途に沿って歩むことによって、超感覚的実在との合一を体得するに至るのである。こうして一人ひとりの人間が、哲学に導かれて全人格的転換を成し遂げる。そこに、哲学が有する思想としての生きた力がある。偉大な思想を生み出した哲学者も、ごく普通の人間も、哲学するという行為によって辿る途に関しては同一なのである。

 感覚界は、超感覚界を基盤としそれに支えられて存立しており、超感覚界を抜きにしてそれ自体として存立することはできない。それは、超感覚的実在によって在らしめられて在る存在である。そのことは、過去の偉大な哲学者、宗教者が、全人格的転換をなしとげ超感覚的実在と合一した体験にもとづいて明らかにしたところである。超感覚的実在(神とか仏とか呼ばれてきたもの)は、超感覚界の根源、原理としての永遠無限絶対の実在であるとともに、超感覚界の全体を貫流し、そこに遍満する無限の創造的エネルギー・生命である。そのような超感覚界の全体こそが、「真の全実在界」なのである。

 自覚的行為によって超感覚的実在界に超入した人間は、永遠無限絶対の実在と合一することによって、全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化する。それが、真の全実在界と一体化した全実在界大の「真の自己」「本来的自己」である。その本来的自己が、全実在界の根源に身を置きつつ、そこから全実在界の真実相を観想する。それによって、永遠無限絶対の実在を根源とする全実在界大の規模における実在と自己との合一、一体化という、実在・実存体験のロゴス化として哲学が成立するのである。

 生滅無常の存在者の絶対的「根源」を求める哲学、宗教

 すべての人間は、超感覚的実在界における知的直観、知性という認識能力を潜在的可能性として有しているが、それと同様に本来的自己というあり方を潜在的可能性として有している。それぞれの個人は、全実在界大の実在・実存体験によって、知的直観、知性いう認識能力を発動させると同時に、本来的自己を実現する。それによって、本来的自己の観想意識に、全実在界の真実相が映し出される。それは、永遠の実在と合一した本来的自己が、全実在界の真理を体得・体認したものとして、永遠の相の下に観られた真理、永遠の真理である。

 真にその名に値する哲学は、永遠の実在との合一という体験を究極的基体とするものとして成立する永遠の真理であり、また、哲学ををそのようなものとして理解する人々によって時代を超えて継承されてきたのである。哲学は、そのようにして人類の思想的地盤を形成してきた。人類の思想の伝統は、そのようなものとしてとらえ返されなければならない。ロゴス的哲学のパトス的基体である実在・実存体験は、すべての人間にとって追体験可能なものである。このことは、すべての人間が実存的に哲学することによって本来的自己を実現する可能性を有している、ということを意味している。

 宗教、形而上学を否定した近代合理主義は、すべての人間に感覚界から超感覚的実在界への転換を促し、本来的自己の実現へと導いてゆく途を閉ざしてしまった。近代合理主義は、人間の思想的地盤を解体してしまった。この地盤から切り離された合理主義的思考によって制御される人間の生活は、地盤を喪失したものとなる。感覚界における日常的自己の根底に、虚無の深淵が開かれたのである。しかし、合理主義的な思考の枠内にある人間は、感覚界を自存的なものとみなし、そこにおける自己を自立的なものとみなす。

 感覚界は、それ自体のうちに絶対的根拠を持たない生滅無常の存在領域であり、常に無に差しかけられている。すなわち、そこにおけるあらゆる存在者は、生じては滅する一瞬一瞬に虚無の深淵に呑み込まれる危機に直面した危うい存在である。そこには、あらゆる存在者が無を裏に持った有であるという「有と無のパラドックス」が存在している。感覚界におけるあらゆる存在者のうちで意識を有する存在である人間は、自己をはじめとするあらゆる存在者が常に無に差しかけられているということを自覚することができる。

 人間がこのことを自覚するとき、生滅無常の感覚界を超脱し、永遠無限絶対の実在を求め、それと合一しようとする切実な願いが生じる。すなわち人間は、感覚界とそこにおける自己を絶対的に根拠づける「根源」を求めるのである。哲学と宗教は、ここに始まる。

 人間が虚無の深淵のうちに自覚的に入ることにより、感覚界とそこにおける自己は絶対的に否定される。この人間の絶対的自己否定が、「大死一番」などといわれる「宗教的な死」に他ならない。プラトンが哲学を「死の練修」と呼んだのも、このことにかかわるものである。この絶対的否定、死を経ることによって、人間が感覚界から超感覚的実在界へと絶対的に転換し、永遠無限絶対の実在と合一することが、はじめて可能となる。この絶対的否定、絶対的転換の実践が、実存的に哲学するということであり、修行するということにほかならない。哲学も宗教も、それによってはじめて可能となる。

 そして、絶対否定、絶対転換の実践を介することによって、一度否定された感覚界とそこにおける自己が再び肯定されることになる。すなわち、感覚界とそこにおける自己が、今度は一瞬一瞬、無に差しかけられた存在としてではなく、無限絶対の実在と自己との合一という事実に究極的な根拠を有するものとして甦ってくるのである(感覚界が自存性を否定され、超感覚的実在界に包摂、統合される)。それによって、先に言及した「有無のパラドックス」が解消される。

 「有無のパラドックス」「有無の矛盾」に無自覚な近代合理主義

 有の究極であるもの、すなわち無限絶対の実在を、無としてしかとらえることのできない人間認識の自然的構造に由来する「有無の矛盾」については、すでに言及した。この有無の矛盾の解消は、有無のパラドックスを自覚した人間が絶対的否定、絶対的転換の実践によって、そのパラドックスを解消することによってはじめて可能となるのである。

 この有無の矛盾、有無のパラドックスの解消という課題は、いつの時代にも共通する人類に普遍的な課題である。そして、この課題の解決を可能とするものが、永遠の真理としての哲学なのである。だが、近代合理主義の立場からすれば、有無の矛盾というもの自体がそもそも存在しないのである。近代合理主義にとっては、感覚界だけが唯一の現実としての「有」なのであり、超感覚界は非現実的なのであるというだけのことである。そこには矛盾は存在しない(矛盾は存在するが、そのこと自覚することができないということである)。

 ただ、感覚界と超感覚的実在界という二つの存在領域を認める立場からするとき、そこに有の究極としての無限絶対の実在を「無」とし、無限絶対の実在によって在らしめられて在る存在であり、その実在を抜きにすればそれ自体としては「無」である感覚界のみを「有」とする、という「有無の矛盾」が生じるのである。近代合理主義の枠内にとどまるかぎり、有無のパラドックスも有無の矛盾も生じようがない。

 合理主義の基礎を形成した近代科学は、生成変化する自然現象のみを認識対象とする。科学は、その生成変化を自然自体に内在する必然的法則に従う運動としてとらえる。科学の対象としての自然は、内在的な法則に従って無限の自己完結的運動を展開してゆく安定的なシステムであって、一瞬一瞬、無に差しかけられる生滅無常の危うい存在ではありえない。この科学が基礎を形成した近代合理主義にとっての感覚界も、また自存的、自己完結的なシステムであり、そこに有無のパラドックスなどいうものは存在しえない。

 したがって、近代合理主義的思考の枠内にある人間には、有無の矛盾、有無のパラドックスを解消しようとする意欲が生じようもない。合理主義的に思考する人間は、感覚界とそこにおける自己を単純に肯定するだけであり、それを絶対的に否定することがない。人間は、この絶対的否定を経ないかぎり、感覚界から超感覚的実在界へ超脱することは不可能である。したがって、そこには真の意味での哲学も宗教も成立することはできない。

 無限絶対の実在に至る途を断たれた現代の人間の閉塞状況と哲学の課題

 近代合理主義は、有無の矛盾、有無のパラドックスの解消という超時代的で人類普遍の課題を隠蔽するのである。合理主義的思考の枠内にある人間は、実存的に哲学することによって日常的自己から本来的自己へ転換する、という自己に課せられた根源的な課題を忘却する。もともと日常的意識は、人間が無に差しかけられていることを隠蔽するという本性を有している。人間は、日常的意識の自然的態度をとっているかぎり、自己の存在が内含する有無のパラドックスを忘却するのである。その日常的意識を方法的に精錬化した科学が基礎を形成した近代合理主義的思考の枠内にある人間が、有無のパラドックスを忘却するのは自然なことである。

 宗教や形而上学が思想的地盤として存在しているところでは、人間が日常的意識の枠を脱却して有無のパラドックスを自覚し、それを解消する可能性は常に存在している。だが、近代合理主義は、その思想的地盤を解体したことによって、人間からその可能性を奪ってしまった。宗教、形而上学を否定するということは、単にそれらの教説、学説のあれこれを否定するということではなく、根源的にはこのようなことなのである。

 すでに言及したように、地盤を喪失した現代の日常的自己の根底には、虚無の深淵が開かれている。日常的自己が虚無の深淵に差しかけられているということは、いつの時代の人間にも共通する事態である。だが、現代の人間には、その虚無の深淵の彼方の無限絶対の実在に至る途は断たれているのである。

 これが、現代の人間が陥った深刻な閉塞状況である。そして、この閉塞状況を打破することこそが、現代哲学に課せられた根本的な思想的課題なのである。この課題にこたえうる哲学とは、日常的意識、合理主義的思考の枠内にとどまり、超感覚的実在界に背を向け感覚界に安住する一人ひとりの人間に対し、自然的態度を転換させ無限絶対の実在に向かうように促すとともに、そこに至る途を指し示すことのできるものでなければならない。

 それは、近代合理主義によって排除された感覚界から超感覚的実在界へ超脱する通路、虚無の深淵の彼方の無限絶対の実在へ至る途を再び切り開く、ということにほかならない。それが、現代において真に哲学するということであり、そのことをなし得ないかぎり、哲学は、現実に働きかけ、それを根底から動かす真の力となることはできない。

 実在・実存体験という基体から切り離され固定化された哲学の現状

 たしかに今日、世に「哲学」なる学問は行なわれている。しかし、それら講壇哲学のほとんどは、哲学を、その基体である無限絶対の実在と人間の合一という実在・実存体験から切り離された学説として文献学的な解釈の対象としているにすぎない。ヤスパースは、それを「駄目になった哲学」と呼んでいる。哲学が一般に受容される場合でも、それらの多くは知的好奇心、興味の対象でしかなく、知的装飾品としてすら扱われている。こうして、一人ひとりの人間に全人格的転換を促すべき哲学は、浅薄皮相な人生訓、処世訓に矮小化されてしまう。 

 哲学は、現代を生きる一人ひとりの人間が、それをわがものとして獲得することによって、その思想を生み出した哲学者の実在・実存体験を追体験し、全人格的転換をなしとげることを可能とするものとしては機能していない。哲学をわがものとして獲得するということは、自己に外在的な理論を学習し、知識を増やすということではない。

 哲学を真にわがものとするとは、理論や思想を通じて、その基体すなわち全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命との一体化という体験そのものに触れることである。すなわち、ロゴス化以前の体験と触れ合うのである。それによって、日常的自己における感性的直観とは根本的に異なる知的直観という能力が喚起、活性化され、哲学者が一体化した無限の創造的エネルギー・生命を共体験することが可能となる。

 それが、哲学者の実在・実存体験を追体験するということにほかならない。そして、この体験を基体として一人ひとりの人間が、哲学者が解明した全実在界の真実相を知性によって体認することが可能となる。それによって一人ひとりの人間は、自己の内に存在する可能性としての本来的自己を全面的に実現するのである。

 哲学が難解とされる根本的な理由も、ここにある。感性的直観、理性という能力しか働かせていない日常的意識の枠内にある人間にとって、知的直観、知性という能力を働かせることによってうみ出された哲学を理解することは極めて困難なのである。もちろん、超感覚的実在界に関する哲学を、一つの学説として「理性的に」了解することは可能である。しかし、それは、全実在界の真実相の実存的な体得・体認としての哲学をわがものとすることとは根本的に異なるものであり、結局、合理主義の枠を超えるものではない。

 その意味では、合理主義的な思考に基づいて生活する現代の多くの人間にとって、哲学が自己とは無関係な「わけのわからないもの」と映るのは当然のことといえる。現代は、一方に、超感覚的実在との合一体験と分離した学説として固定化した哲学が存在し、他方には、自己の究極的根拠である永遠無限絶対の実在に背を向け感覚界に閉じこもる多くの人間が存在している、という時代である。哲学は、衰滅の状態にあるといってよい。

 このような現代の思想状況の中にあって、真正の哲学は、感覚界から超感覚的実在界への超脱による本来的自己の実現という、いつの時代にも共通する根本的課題がすぐれて現代的課題となっていることを確認し、それと真正面から取り組まなければならない。それが、近代合理主義が解体した二千数百年に及ぶ人類の思想的伝統、地盤を復活、再生させることにほかならない。

 神話、呪術の克服による「哲学する」ことの開始

 人類の思想の伝統は、ギリシャ、インド、中国において、ほぼ同じ時期、すなわち二千数百年前に創始された。この頃、三つの地域において、相互独立的に哲学的思惟が興起したのである。

 ギリシャでは、ミレトス学派の自然学、エレア学派の存在論から始まる哲学的思惟が、プラトン、アリストテレスの思想へと受け継がれていった。インドでは、ウパニシャッドの哲人に始まった哲学的思惟が、釈迦の思想へと展開していった。中国では、殷周革命の時期に天の思想が成立し、それが孔子によって継承され、老子、荘子の思想も出現する。

 これらの哲学的思惟の成立が原点となり、以降の東洋、西洋それぞれにおける思想の伝統が形成されてきたのである。哲学的思惟は、人類が神話、呪術を克服することによって形成された。それは「精神革命」であった。

 それは、人類が、感覚界と超感覚界を明確に区別するとともに、感覚界から超感覚的実在界に超脱して永遠無限絶対の実在と合一するという体験をし、そのロゴス化としての思想を形成したという、人類の思想史上の画期的な出来事であった。人類は、ここに「哲学する」ことを開始したのである。それは、人類の「覚醒」ともいうべき感動的な出来事である。

 哲学以前の神話的思惟様式の特徴は、感覚界と超感覚界が明確に区別されておらず、無雑作に混同されている点にある。神話的思惟によれば、感覚界のさまざまな事物、現象は、感覚によってはとらえることのできない神秘的な力を持つとされる。このため、自然のさまざまな事物、現象が神格化され崇拝の対象とされる。天の神、地の神、火の神、水の神、川の神、山の神などが、それである。神話の世界は、このように多神の世界である。

 それらの神々は、雨を降らせ、風を起こし、豊作や飢饉をもたらし、健康、長寿を授け、疫病をひき起こす超感覚的な力を有するとされる。人間は、災いを避け、幸福を得るために、呪術的祭祀によってそれらの神々の力に働きかける。呪術の目的は、現世的利益を得ることにある。これらの神々の力は、実は、感覚界を超越する超感覚界の原理である無限絶対の実在の力、すなわち超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命である。未開人は、その力を、神々の力として、自然の事物、現象と同一のレベルに並置してとらえるのである。

 このような思惟様式は、哲学が成立する以前の世界のどの民族にも共通する普遍的なものであった。この思惟様式の枠内にとどまるかぎり、人間が感覚界から超感覚界へ超脱すること、すなわち哲学することは不可能である。

 人間が自覚的行為によって超感覚的な力を制御し「本来的自己」を実現する

 だが、人間の精神的能力が進歩し、理性が高まるとともに、それらの神々の存在は非合理的なものとして否定されるに至った。それが、古代における合理主義の成立である。

 たしかに、合理主義的思惟は、人類を未開蒙昧の状態から脱却させた。しかし、合理主義的思惟が、神話が同一レベルでとらえた感覚的事物と超感覚的な力のうち後者のみを否定するにとどまるかぎり、神々の存在を否定することによって同時に超感覚界の存在そのもの否定してしまうことにならざるをえない。そのことは、人間が感覚界から超感覚界へ超脱する通路を排除することにほかならない。合理主義的思惟の枠内にとどまるかぎり、真の意味での哲学が成立することは不可能である。

 神話的思惟は、感覚界と超感覚界という二つの存在領域を混同したため、前者から後者へと超越する通路を見いだすことができなかった。しかし、神話は、とにかく超感覚的な力の存在を認めた。人間は、その力を呪術という方法によって制御することで自己の利益を得るという目的を達成しようとした。それが、神話、呪術の役割、任務である。

 哲学は、神話、呪術を単純に否定、排除するのではなく、それが担った役割、任務を継承し、別のかたちで果たそうとするのである。哲学的思惟を始めた思想家たちは、合理主義者同様、感覚的事物と同じレベルにおける神々の存在を否定した。だが、彼らは、合理主義的思惟の枠内にはとどまらなかった。彼らは、理性の対象とされた感覚界の背後あるいは根底に超感覚界が実在することを認め、二つの存在領域をはっきりと区別した。そして彼らは、合理主義者のように感覚界を単純に肯定するのではなく、一度それを絶対的にする否定することよって超感覚界に超脱した。神話的思惟から哲学的思惟への転換は、同一レベルにおける移行ではなかったのである。こうして、それらの思想家たちは、呪術という方法によらず、理性より高度の能力を自覚的行為によって活性化させることで、超感覚界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命を制御した。

 超感覚的実在界に超入した思想家は、そこおいて超感性的直観によって無限絶対の実在と直接触れ、それとの合一を体験する(実在・実存体験)。この無限絶対の実在が、プラトンにおいては善のイデアであり、釈迦においてはダンマ(法)であり、孔子においては天であり、老子、荘子においては道である。神話の多数の神々は、絶対者すなわち永遠無限絶対の実在の内に帰一、還元された、ということができる。イデア、ダンマ、天、道などは、それらの思想家が体験した同一の無限絶対の実在を、それぞれ異なったかたちで表現したものである。それらの思想家は、真の実在が何であるかを理解したがゆえに、神話の神々を否定したのである。真の哲学は、それによってはじめて可能となり、真の宗教もまた、それによってはじめて成立した。

 こうして、無限絶対の実在と自己との一体化を体験した思想家は、それを究極的基盤として全実在界に貫流・遍満する無限の創造的エネルギー・生命と自己との一体化を体験する(全実在界大の実在・実存体験)。そこには、自己の自覚的行為を通じて自他不二の理(自己と他者すなわち無限絶対の実在、実在界は同でもなく異でもないという理法)が働いている。それによって、自己の内には無限の創造的エネルギー・生命が充満する。自己はその内に全実在界を表現し、創造的エネルギー・生命を体現する。

 全実在界における創造的エネルギー・生命の躍動と、自己の内における創造的エネルギー・生命の躍動は、完全に一体化する。それが、全実在界大の「本来的自己」の実現にほかならない。自己は、全実在界における超感覚的な力すなわち無限の創造的にエネルギー・生命を、このようなかたちで制御する。神話的に思惟する人間は、呪術という方法によって超感覚的な力を制御することで、現世的利益の獲得という目的を達成しようとする。それに対して、哲学的に思惟する人間は、自覚的行為という方法によって超感覚的な力を制御するすることで、本来的自己の実現という目的を達成する。

 全人類が「本来的自己」を実現する途を拓き示した古代の偉大な思想家たち

 このようにして、神話的思惟から哲学的思惟への転換を成し遂げることによって、人類は、「未開」から「文明」へと進んだのである。合理主義的思惟が同一レベルで神話的思惟を駆逐しただけでは、なお人類は「未開」から根本的に脱却することはできなかった。人間が合理主義的思惟の枠内にとどまるかぎり、その背後あるいは根底に存在する超感覚的な力を見ることができず、したがって、それを自覚的に制御することができない。そのとき、その力は非合理的、不条理的な力となって噴出してきて人間を破滅させる。ギリシャ人は、それを「運命」と呼んだ。

 このような合理主義的思惟の限界を克服するためには、外の感覚界に向かう感性、理性の働きを抑制し、意識の働きを自己の内に向かって自覚的に集中、統一し、その根源にまで深めてゆかねばならない。それは同時に、自己が自覚的に超感覚界に転じ、その根源に至る途を辿ることでもある。こうして、感性と理性に覆われていた知的直観、知性が働きはじめることになる。その根源において超感覚界の根源である無限絶対の実在と合一した自己は、知的直観によって無限絶対の実在を直接捕捉し、知性によって、そこに自他不二の理が働いていることを解明する。

 ここにおいて、意識は実在と一体的であるが、同時に、それを根底とする全実在界大の意識と全実在界が一体的である。それによって、実存的観想意識のうちに、全実在界がその真実相を映し出すことになる。それは、永遠無限絶対の実在と合一した自己がそこに身を置きつつ、そこから全実在界を永遠の相の下に総合的・統一的に見る、ということを意味している。そこに、永遠の真理としての哲学が成立する。

 それは、全実在界大の実在・実在体験のロゴス化としての哲学であり、全実在界は、ここに、その自覚的要素としての人間を通じて、その真実相の自覚に達したのである。それが、実存的に哲学するということにほかならない。

 初めて実存的に哲学することを為した偉大な思想家たちは、感覚界から超感覚界に超脱して本来的自己を実現した。しかし、そのことは、特別な人間にのみ可能なことなのではない。感性、理性という能力を働かせつつある日常的意識、日常的自己に覆われるているとはいえ、すべての人間は、知的直観、知性という認識能力を潜在させており、本来的自己を実現する可能性を内在させている。偉大な思想家たちは、自ら実存的な全人格的転換を成し遂げることによって、全人類がその可能性を全面的に実現するための途を拓き示した先覚者なのである。彼らは、そのような存在として全人類の模範ということができる。 

 彼らの思想は、そのようなものとして、以降二千数百年にわたる人類の思想の伝統の原点となりえたのである。ギリシャ、インド、中国において成立した哲学は、東洋と西洋それぞれに固有の伝統を形成してきた。しかし、彼らが生み出した思想は、時代の相違を超えた永遠の真理であり、東洋と西洋の相違を超えた人類普遍の真理なのである。

 人類の思想的地盤を形成してきた哲学的言説、宗教的教説の伝統

 古代において、偉大な思想家たちは、全人格的転換によって無限絶対との合一状態という深い境地に到達した。少数の人々が到達したこの境地は、一般の多くの人々にとっては容易に到達し難いものであった。実在と実存との合一という実在・実存体験そのものは、言語を超えている。しかし、体験内容を言葉で解釈し表現することは可能である。

 そこに、哲学的言説、宗教的教説が成立し、それを通じて少数の人々の体験内容を一般の多くの人々に伝えることが可能となる。哲学的言説、宗教的教説は、実在・実存体験のロゴス化であることにより、多くの人々に感覚界から超感覚界に転換するよう促し、無限絶対の実在との合一状態に至る途を示す、という役割を果たすのである。根本的な自己変革を成し遂げた少数の偉大な先覚者の前ロゴス的な体験は、このようなかたちで間接的に全人類を変革することが可能となったのである。先覚者たちの思想は、そのようなものとして継承されていった。彼らは、それによって、人類の思想の生きた伝統の創始者となったのである。

 だが、哲学的言説、宗教的教説が実在・実存体験という基体から離脱して学説、教義として固定化するとき、それは、それぞれの人間が全人格的転換を成し遂げることを抑圧し阻害するものとして働くことになる。そのとき、無限絶対の実在は、人がそれと合一することによって本来的自己を実現することを可能とするものではなく、人間を支配し服従させるものとなる。このような思想が継承されてゆくとき、伝統は悪いかたちで固定化されてしまう。

 しかし、先覚者の思想は、固定化された伝統を打破した思想家たちによって復活、再生させられた。それらの思想家は、先人の思想のロゴス化以前の体験に還帰し、それを追体験した。彼らは、その体験のロゴス化としての新しい哲学的言説、宗教的教説をうみだした。それによって、それらの思想家は、すべての人間に日常的自己から本来的自己への転換の途を示すという超時代的任務を、彼らが置かれた社会的環境、時代的状況の中で遂行する。

 こうして先人の思想への回帰は、単なる反復にとどまらない独創的思想の形成となる。反復即創造である。それによって、先人の思想は真に再生させられる。人類の思想の生きた伝統は、このようにして形成されてゆくのである。このようなかたちで継承されてきた哲学、宗教が、古代の精神革命以来、思想的地盤として人類を支えてきたのである。

 「科学革命」による合理主義的な自然認識の形成と形而上学、神学の排除

 人類の思想の伝統の原点となった古代の精神革命に次ぐ人間の思惟の根本的な転換は、近代西洋において近代自然科学を形成した「科学革命」によって成し遂げられた。近代以前の自然学は、生成変化する自然現象を、超自然的な永遠不変の実在を原理として説明する、という立場をとっていた。すなわち、全自然の運動を、超自然的な実在を第一原因とするものとしてとらえるのである。超自然的実在を対象とするのが形而上学(超自然学)であり、神学であったから、近代以前の自然学は、形而上学、神学と結びついていたのである。

 それに対して、近代自然科学は、自然現象を超自然的な原理から説明するのではなく、あくまでもそれ自身の中で説明する、という立場に立った。科学革命は、このように自然認識の形而上学、神学からの解放、独立を成し遂げたのである。しかし、それは同時に、超感覚的実在界を対象とする形而上学、神学を排除することによって、古代の精神革命以来の人類の思想的伝統、人類を支えてきた思想的地盤を解体したことでもあった。

 科学的認識は、日常的意識の自然的態度を方法的に精錬化したものである。日常的意識は、目で見ることができ、手で触れることのできる事物のみを現実性を有するものとみなし、感性的直観によってとらえた事物の本質を理性によって解明する。それを精錬化した科学的認識は、感覚によってとらえることのできる存在だけを認識対象とし、感覚的経験の事実を数学的理性によって法則化する。したがって、近代的自然観は、自然現象の背後あるいは根底にある原因、実在の不変の本質が「何であるか」を問うことをしない。自然認識において問題となるのは、現象が「いかにあるか」という現象相互間の法則の探求のみである。

 このような方法は、実験的帰納と数学的演繹とが結合したガリレイの方法として確立された。この方法によれば、自然現象の変化の法則を見いだすためには、まず観察・実験によって経験的諸事実を最も単純な要素に数量的に分析しなければならない。現象は、定量的な測定が可能な数量によって表現されるのである。そして、この変量相互の関数関係として表現される現象の規則性が、自然現象を統一的に記述する一般法則とされる。これが実験的帰納であるが、厳密な実験によってひとたび一般的法則が確立されるならば、それを公理とすれば実験を繰り返すことをしなくても、そこからさまざまな定義を演繹することが可能となる。こうして近代自然科学にとって、自然は、公理から他のすべての法則が演繹されるところの合理的な体系性と統一性において認識される対象となった。

 このようなガリレイの方法に踏まえて、全宇宙を重力の法則という単一の法則が支配する力学的体系として統一的にとらえたのが、ニュートンの世界体系であった。こうして近代科学の自然認識は、「公理と定理の閉じた体系」として自己完結するものとなったのである。

 その後、相対性理論、量子力学という現代自然科学は、ニュートン力学とは根本的に異なる自然認識を形成し、ニュートン力学の有効範囲を厳しく制限した。しかし、それによっても、自然を、その背後あるいは根底の超自然的実在によって動かされるものとしてではなく、それに内在する法則に従って運動をしてゆくものとしてとらえ、その法則を数学的理性によって解明する、という合理主義的方法は原理的には動かされることはなかった。神学、形而上学が固有の対象としてきた超感覚界を排除し感覚界のみを認識対象とすることにおいて、近代自然科学と現代自然科学は共通の立場に立っている。

 自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの深刻な対立・相剋

 日常的意識を方法的に精錬化した近代科学の合理主義的な自然観は、科学の枠を超えた合理主義的思惟として一般化され、近代以降の人間の日常生活を規制するものとなった。自然と社会に内在する法則を解明した科学的知識は、技術に応用され、生活に適用された。人間は、それ自身、自然生態環境に内属するものでありながら、意識を有する自由な存在として、そこから超出して社会文化環境を形成した。人間は、二つの環境と自己の相互作用を自由な行為によって媒介する。それは、人間が、二つの環境と自己のあいだの物質・エネルギー循環を自覚的に制御することによってその生命活動を維持してゆく、ということを意味している。これは、いつの時代にも共通する感覚界における人間生活の不変のあり方である。

 近代以降の人間は、科学的知識と技術的意志にもとづく自由な行為によって二つの環境と自己の相互作用を媒介する。それは、人間が、自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を合理的に制御することで、その生活を実現してゆく、ということにほかならない。それによって、人間の自然に対する支配力は飛躍的に高まり、自然的事物を加工した文化的事物は増大し、人間の生活は豊かになっていった。それが、科学革命によって生み出された近代科学技術文明である。

 人間は、科学の無限の進歩を楽観的に信じて、科学技術文明を発展させ続けてきた。だがその結果、自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環が撹乱され、三者のあいだに深刻な対立・相剋が生じた。こうして全地球的規模で自然生態環境が破壊されるという事態が生じ、人類はついに死滅の危機に直面するに至ったのである。

 そのことの根本原因は、近代以降の人間が、感覚界における物質・エネルギー循環を合理的に制御する能力を獲得したにもかかわらず、超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命を制御する能力を獲得するには至らなかった、ということにある。人間は、感覚界における科学的知識と技術的意志を有する自由な主体としての自己を自立させたにもかかわらず、超感覚界における真に自由な主体としての本来的自己を自立させることはできなかったのである。

 形而上学と神学を排除することによって自己を確立した近代自然科学は、自然を「公理と定理の閉じた体系」という自己完結的なシステムとしてとらえた。その自然認識を一般化した近代合理主義的思惟は、感覚界を自己完結的なシステムとしてとらえた。その結果、人間が科学的知識と技術的意志にもとづく行為によって感覚界における自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を合理的に制御する近代科学技術文明は、無限の創造的エネルギー・生命が貫流する超感覚界から遊離して自己完結的な運動を展開してゆくことになった。

 超感覚界から噴出してくる無限衝動に駆り立てられる人間

 無限絶対の実在(絶対者)を根源とする超感覚的実在界は、時間・空間的な有限相対的次元と超時間・空間的な無限絶対的次元の統合態である。この全実在界においては、無限の創造的エネルギー・生命が、無限絶対的次元から有限相対的次元に発現してゆくとともに、そこから再び無限絶対的次元へ還帰してゆく――という垂直的な運動が不断に繰り返されてゆく。創造的エネルギー・生命は、絶対者から出て絶対者へ帰る。

 人間が自覚的行為によって絶対者と一体化するとき、絶対者から出て絶対者へ帰る創造的エネルギー・生命の運動と、人間から出て人間に帰る創造的エネルギー・生命の運動が一体化し、両者は調和する。そのとき、絶対者と人間を創造的エネルギー・生命が水平的に一つに結びつけ調和を実現することを基盤として、無限絶対の実在と人間、有限相対的実在と人間を、創造的エネルギー・生命が水平的に一つに結びつけ調和を実現する(そこには、自他不二の理が体現されている)。

 以上が、人間が自覚的行為によって超感覚的実在界における創造的エネギー・生命を制御するということである。それによって、一人ひとりの人間が本来的自己を実現することが可能となる。

 感覚界は、超感覚的実在界の時間・空間的な有限相対的次元の外面の物質的存在領域であり、その内面には超感覚的な創造的エネルギー・生命が存在している。だが、感覚によって直接とらえられる物質的存在のみを現実的なものとみなす日常的意識を方法的に精錬化した科学は、内面の創造的エネルギー・生命をとらえることができない。科学の世界像は物質を基底とするものであり、生命、人間の意識も物質の高次の組織形態であり、物質に還元されるものとみなす。

 感覚界における自然生態環境・人間・社会文化環境は、このような物質を基底とする科学的思惟によってとらえられたものである。科学的知識と技術的意志にもとづく自由な行為によって自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を合理的に制御する人間が、超感覚的実在界における創造的エネルギー・生命を自由な行為によって制御することのできない根本的な原因が、ここにある。

 人間が制御することのできない創造的エネルギー・生命は、非合理的で、不条理な力となって、感覚界における物質・エネルギー循環を合理的に制御する人間に襲いかかる。無限の創造的エネルギー・生命は、無限衝動となって噴出してきて人間の知識と意志を駆り立てる。人間は、自然に働きかけ、それを加工した生産物を享受することで、欲求を充足させ生活を実現する。それは、人間に特有な意識を有する生命活動の不変のあり方である。だが、欲求は、無限衝動に駆り立てられるとき、際限のないものとなる。こうして、際限のない欲求充足のために、物量的生産力の無限増大の運動が自己目的的なものとなって進行していった。そして、それが、近代科学技術文明の無限の進歩とみなされたのである。

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実存・実在体験のロゴス化としての、永遠の哲学・永遠の形而上学

2014-10-27 12:35:15 | Weblog
http://www.geocities.jp/neieiko/ron/ron3.html


一人ひとりの個人の生とは無縁な外在的知識と化した形而上学

 以上が、科学技術文明の危機を克服するために求めらている現代の形而上学の基本構造である(この形而上学の論理的・事象的体系がどのようなものであるかは『絶対無の哲学』において全面的に展開されている)。それは、すぐれて現代的な形而上学である。だが、この形而上学は、全実在界の真実相を永遠相下に見るという形而上学の永遠の課題に、現代の具体的な状況の中にあって取り組んだものである。そのようなものとして、それは、現代の形而上学であると同時に永遠の哲学・永遠の形而上学である。それは、全実在界に於ける創造的エネルギー・生命の運動と自己を一体化させた主体が、全実在界の真実相と<本来的自己>を、永遠の次元に於いて一挙・同時に直観した実存・実在体験のロゴス化として、永遠の哲学・永遠の形而上学である。

 この形而上学に、自然生態環境・人間・社会文化環境を対象とする自然科学・人間科学・社会科学(外的・感覚的世界の学)を統合した全体的知を形成しなければならない。それが、形而上学と分離した科学を形而上学と再結合するという課題を、具体的に遂行することである(この課題に取り組み、近代科学技術文明を根本的に転換させて新たに創出すべき現実秩序の存立構造を解明したのが『創造的生命の形而上学』である)。



 形而上学とは、主体の実在・実存体験と無縁な客観的な学問体系ではない。それは、一人ひとりの個人が可視的な感覚界から不可視的な超感覚界に自己を転換させることを助成するものである。しかし、現代の多くの人間にとって、形而上学は、そのようなものとしては捉えられてはいない。確かに、古代から継承されてきた多くの形而上学が存在している。しかし、それらの形而上学は、一人ひとりの現実的な生とは、ほとんど無関係な学問としてしか扱われてはいない。すなわち、自己の生とは無縁な外在的な知識としてしか受け取られていないのである。

 古代から現代に至るさまざまな形而上学の学説の内容は、その表現が時代的制約を帯びているということもあって、極めて難解であり、一つの学説の理解すら容易ではない。まして、それらの全体的な連関を理解することはほとんど不可能に近い。たとえ、既成の形而上学の知識を外部から賦与されたとしても、一人ひとりの現実的生にとって、ほとんど、本質的な影響を与えるものとはなり得ない。たとえば、アリストテレスの不動の第一動者、キリスト教の神――偉大な形而上学者が、そのような超越的実在を原理とする形而上学を形成したということを了解しえたとしても、そのような実在を信じることは、多くの現代人には、ほとんどできなくなっている。

 一般的には、:形而上学とは、感覚的に捉えることのできる自然の究極的原因・目的としての超自然的実在についての学(自然学を超える超自然学)と理解されている。だが、形而上学とは、主体が「感性界から超越的世界に翻転し、さらに、超越界の絶頂にまで飛躍して真実在に直接逢着する」(井筒俊彦『神秘哲学』第二部P51)という実在・実存体験のロゴス化として存立している。このような実在・実存体験は、普通、神秘主義と呼ばれている。この実在・実存体験を抜きに形而上学を捉えるとき、それは主体と切り離された客観的な体系とならざるをえない。それが、西洋形而上学の正統的な解釈である。過去の偉大な形而上学も、そのようなものとして取り扱われることになる。かくして、形而上学は、一人ひとりの個人の現実的な生とは無縁な学説として、専門学者の解釈の対象となる。

 一方、神秘主義の方は、普通の人間には経験することのできない宗教的・思想的大天才にのみ許される経験と解される。かくして、形而上学も神秘主義も、多くの現代人の生活にとっては、疎遠なものとなっている。では、そのような一般的な思想状況の中にあって、形而上学は一人ひとりの個人の生にとってどのような意味があるのか。

 <永遠の哲学>としての過去の偉大な形而上学と現代の一人ひとりの個人の生

 過去の偉大な形而上学は、主体の転換・深化によって、究極的実在と合一し、全実在界の真実相とそこに於ける自己の真実相を永遠相下に見た<永遠の哲学>という性格を有している。この点において、時代状況や思想的伝統の違いを超えた普遍性を有している。すなわち、時代と場所を超える<永遠の真理>である。それは、それぞれの個人が、主体的実在・実存体験の深化によって、全実在界に於ける他のすべての個物・個人と一体化した生=<本来的自己>を実現した体験に基づいて形成された学的認識であるがゆえに、全人類・すべての個人がそれぞれ<本来的自己>を実現するにあたって<模範>となる体験に裏づけられているのである。

 すなわち、形而上学を裏づける実在・実存体験は、一人ひとりの個人が実在・実存体験の深化によって、固有の<本来的自己>を実現する道筋を示すものなのである。そのようなものとして、古代から現代に至る東西の:形而上学は、<本来的自己>を忘却した全人類・すべての個人に覚醒を促し得る叡智なのである。形而上学は、一人ひとりの個人の現実的生にとって、決して外在的な知識ではない。個々の人間が形而上学を学ぶということは、それを学説として学習し、知識として獲得する、ということではない。それは、一人ひとりの個人が、ロゴス化・体系化以前の、思想家の主体的・実存的体験そのものと主体的・実存的に交わり、触れ合う、ということを意味している。

 過去の哲学者は、永遠無限絶対の実在との合一という実在・実存体験を基底として、全実在界を貫流する創造的エネルギー・生命と一体化し、その創造的エネルギー・生命を自らのうちに体現した全実在界大の<本来的自己>bを直観する、という実在・実存体験をしたのである。それは、万物・万人と創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられた全実在界的・全人格的な実在・実存体験、永遠の真理の体得・自覚である。過去の思想家の実在・実存体験は、永遠の真理として、現代の人間の体験と同時的となる。

 
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天才思想家 根井康之

2014-10-26 16:57:36 | Weblog
『東西思想の超克』再説

第2回 古代の東西の形而上学

    プロティノスの形而上学・華厳の形而上学





現代に甦るプロティノスの絶対無の形而上学

http://www.geocities.jp/neieiko/tzs/tz2r.html

  このように自覚的行為によって絶対者と合一した自己は、それを基盤として、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命と自覚的行為によって一体化する(全実在界大の実在・実存体験)。このとき、知的直観、知性の働きは全実在界に及んでいる。こうして、全実在界大の観想意識に全実在界がその真実相を映し出すことになる(その真実相の具体的内容については『絶対無の哲学』『創造的の形而上学』において論理的・体系的に展開してある)。そこに、全実在界大の実在・実存体験のロゴス化としての形而上学が成立する。

  自己が全実在界に遍満する無限の創造的エネルギー・生命と一体化するとき、有限相対的次元(プロティノスにおける感覚界)は、外面的な物体の相においてではなく、超感覚的な知性によって無限絶対的次元と同一の無限の創造的エネルギー・生命が遍満している相においてとらえられる。

 全実在界を無限の創造的エネルギー・生命が循環するということは、そこにおける全実在界大のすべての個物の内に同一の創造的エネルギー・生命が循環するということ(絶対者から出て絶対者へ帰る循環)を意味している。全実在界大の自己は、自覚的行為によってすべての個物と一体化する。それによって、すべての個物の内の無限の創造的エネルギー・生命の脈動と自己の内の無限の創造的エネルギー・生命の脈動が一体的となる。全実在界のすべての個物は、同一の創造的エネルギー・生命によって一つに結びつけられ相互に調和する。

 全実在界大の自己は、そのようなかたちで無限の創造的エネルギー・生命を制御することによって、自己の本来的あり方を実現すると同時に、すべての個物の本来的あり方を実現する。プロティノスの絶対無の形而上学は、このような方向へ展開することによって、全実在界の真実相を忘却して感覚界に自己閉鎖的になり、肉体的欲望にふりまわされてさまざまな苦しみを味わっている現代人に対して、感覚界から超感覚界への全人格的転換を促すものとして甦るのである。すなわち、プロティノスの形而上学は、無限の創造的エネルギー・生命が流出と還帰という無限の循環運動を展開してゆく全実在界の真実相を、絶対無と合一した自己がそこに身を置きつつ、一挙同時にとらえたもの、永遠の相の下に見られた真理、永遠の哲学として現代に甦るである。

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根井康之の哲学講義

2014-10-25 17:31:24 | Weblog
http://www.geocities.jp/neieiko/ro4/ro4r.html



 全人類は、その一人ひとりが、現在、真の実在界とそこに於ける本来的自己の忘却から覚醒し、全人格的転換を成し遂げるという、もっとも根源的で困難な課題を突きつけられている。しかし、この課題の所在そのものを、ほとんどの人間は自覚していない。人類は、真の実在界と本来的自己を忘却したまま、近代科学技術文明の無限の進歩に楽観的に身を委ねてきた結果、現在、地球生態環境の破壊をはじめとするさまざまな問題を生み出してしまった。

 このことは、近代科学技術文明が、その根底の真の実在界から遊離し、自己閉鎖的になったことの結果である。人間についていうならば、日常的自己が、その根底の真の自己から遊離して、自己閉鎖的になったため、そのさまざまな生活行為が自己の生活の全領域にさまざまな矛盾を生じさせた、ということである。しかし、人間は、真の実在界を忘却した日常的自己の枠内にとどまったままで、自分が生み出した諸問題の解決に悩み苦しんでいる。

 これらの諸問題を根源的に解決するためには、近代科学技術文明からその根底の真の実在界に還帰し、科学技術文明をそこに統合しなければならない。そのためには、一人ひとりの個人が、日常的自己から本来的自己へと還帰し、それに日常的自己を統合することが求められる。現在、一人ひとりの個人は、日常的自己の枠内にとどまるのか、それとも、それを本来的自己へと転換させるのか、自己の存在そのものを賭けた選択・決断を迫られている。覚醒とは、そのような事柄なのである。

 このことは、一人ひとりの個人が、目で見、手で触れることのできる事物、すなわち人間の感覚によって捉えることのできる事物、感覚界のみを唯一の現実と認める立場にとどまるのか、それとも、目で見、手で腕触れることのできない事物、感覚界を絶対的に超越する領域を真の現実性を有するものとみなす立場へと転換するのか、という選択・決断を迫られているということを意味している。

 科学技術文明、日常的自己の根底の真の実在界、本来的自己とは、超感覚的な性格を持ったものなのである。現代人にとって、そのような超越的実在領域は、ほとんど現実性を持ち得ないものとなっている。この超越的実在界は従来、宗教・形而上学がその固有の対象としてきた領域であった。近代以前においては、時間・空間的で有限相対的な感覚界は、その根底の超時間・空間的で無限絶対的実在を根拠として成立するものとみなされていた。神とか仏とかいうものが、それである。

 近代科学技術文明が惹き起こした自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの対立・相剋

 それに対して近代科学は、そのような超感覚的実在を認識対象とせず、感覚によって捉えることのできる対象を唯一の現実とみなす立場をとった。すなわち、近代科学は、感覚界をその固有の対象としたのである。近代科学は、感覚によって捉えることのできる対象に貫徹する法則を、理性によって解明した。ここに、宗教・形而上学を排除した近代合理主義が成立したのである。それは、感覚界を、その根底に存在する無限絶対の実在に根拠づけられたものとしてではなく、それ自体に内在する法則に従って運動をするものとして捉える立場である。

 こうして、自然と社会のそれぞれに内在する運動法則が解明され、それが技術に応用されることになった。すなわち、人間が、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって、自然生態環境・社会文化環境と自己との相互作用を媒介し、三者のあいだの物質・エネルギー循環を制御することが可能となったのである。これか゛近代科学技術文明の基本的な存立構造である。

 人間は、それ自身、自然生態環境に内属するものでありながら、意識を有する存在としてそこから超出し、それに働きかけることによって、社会文化環境を形成した。科学的知性と技術的意志を有する近代以降の人間は、有限相対的な感覚界の中心として、環境とそこに於けるもろもろの事物を支配しようとする。近代科学技術文明は、そのような人間の行為によって発展させられてきたのである。このようにして人間が、近代科学技術文明の進歩を楽観的に信じて、それを発展させてゆくにつれて、感覚界が、その根底の真の実財界から遊離し自己閉鎖的になってゆく、という事態が進行していった。それは同時に、科学的知性と技術的意志を有する日常的自己が、その根底の本来的自己から遊離し自己閉鎖的になってゆく、という事態が進行していったことでもある。

 しかも、科学的知性と技術的意志によって自己の生活を規制する現代人にとって、感覚界の根底の超越的実在界はほとんど現実性を持っていない。そのため、近代科学技術文明と日常的自己が、その根底から遊離し、自己閉鎖的になるという事態は、人間が自覚しないままに進行していったのである。その結果が、生物の一つの種としての人類の死滅の危機を招いた全地球的規模での自然生態環境の破壊であった。

 このことは人間が、科学的知性と技術的意志にもとづく自由な行為によって自然生態環境と自己と社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を制御してきた結果、その物質・エネルギー循環を攪乱させ、三者のあいだに深刻な対立・相剋を惹き起こした、ということを意味している。そのため人間が、自己と二つの環境の相互作用を自由な行為によって媒介する生活の全領域に、さまざまな問題が生じることになったのである。

 これが、近代科学技術文明とそこに於ける日常的自己が、その根底の真の実在界とそこに於ける本来的自己から遊離し自己閉鎖的になったことが惹き起こした結果である。それは、近代科学技術文明そのものがもつ本質的な限界が露呈したことであった。近代科学技術文明が、この本質的限界を克服するためには、固有の枠組みである感覚界を、その根底の真の実在界に向かって越え出ることが必要となる。

 無限の創造的エネルギー・生命を制御しえない科学的知性と技術的意志

 では、感覚界を絶対的に超越する真の実在界の基本的存立構造とはどのようなものであるのか。それは、時間・空間的な有限相対的次元と超時間・空間的な無限絶対的次元の統合態である。この全実在界に於いては、超感覚的な無限絶対の実在すなわち無限の創造的エネルギー・生命が、一瞬一瞬、無限絶対的次元から有限相対的次元へ顕現してゆくとともに、そこから一瞬一瞬、無限絶対的次元へ還帰してゆく。こうして、全実在界を、超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が不断に貫流してゆくことになる。

 この全実在界に於けるすべての個物には、無限の創造的エネルギー・生命が充ち満ちている。

すなわち、すべての個物は、無限絶対的次元と有限相対的次元のあいだで一瞬一瞬、顕現と還帰の運動を繰り返す無限の創造的エネルギー・生命の循環運動を、自己の内部に体現する全実在界大の個物として存立している。

 人間もまた、それらの個物のひとつであるが、自覚的存在である人間は、全実在界を貫流する無限の創造的エネルギー・生命を超感覚的な直観によって捉え、全実在界の真実相を超理性的な智性によって明らかにすることができる。人間諸個人は、そのような存在として、全実在界を循環する無限の創造的エネルギー・生命の運動と自己を自覚的行為によって一体化させることで、全実在界大の超感覚的な生を実現することができる。それが、本来的自己にほかならない。

 人間諸個人が、本来的自己の生を実現することは、同時に、他のすべての個物・個人との一体的な生を実現することである。それは、人間が、超感覚的直観と超理性的な智性にもとづく自覚的行為によって、全実在界に於ける超感覚的エネルギー・生命循環を制御する、ということを意味している。

 無限絶対的次元から有限相対的次元には無限の創造的エネルギー・生命が垂直的に発現してゆき、その次元を水平的に循環してゆく。より具体的には、有限相対的次元に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだを超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が循環してゆくということである。そこに於ける自然的個物・人間的個人・文化的個物には、超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命が内在している。したがって、無機物・無生物、土・水・大気も、超感覚的生命を有しているいるのである。

 だが、人間の感覚によって捉えることのできる事物のみを認識対象とする科学は、有限相対的次元の外面の感覚界にとどまり、その内面にまで届くことができない。このため近代的人間は、感覚界に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって制御する能力を獲得したにとどまり、その内面の超感覚的な無限の創造的エネルギー・生命循環を制御する能力を獲得するには至らなかったのである。

 それは、近代的人間が、全実在界を垂直的に循環する無限の創造的エネルギー・生命を制御する能力を獲得できなかったことの、有限相対的次元に於ける現われにほかならない。すなわち、人間諸個人が、有限相対的次元と無限絶対的元の統合された全実在界大の本来的自己として、無限の創造的エネルギー・生命循環を制御することができないため、有限相対的な感覚界に於ける自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだに深刻な対立・相剋が生じたのである。

 人間が、自覚的に制御することのできない無限の創造的エネルギー・生命は、無限絶対的次元から有限相対的次元に無限衝動となって噴出してゆき、人間を駆り立ててゆく。このため人間は、科学的知性と技術的意志にもとづく行為によって自然生態環境・人間・社会文化環境のあいだの物質・エネルギー循環を極めて合理的に制御し文明を発展させながら、その知性と意志を自己が制御できない無限衝動によって非合理的に駆り立てられるという背理が生じることになる。

 人間諸個人は、自然生態環境のさまざまな自然的個物を支配し、それを加工・形成したさまざまな文化的個物で社会文化環境を豊富化し、それらの個物を享受することで多様な欲求を充足させてきた。しかし、その欲求は、無限衝動に駆り立てられたものとして際限のないものとなった。この際限のない欲求充足のため、物量的生産力の無限増大の運動が自己目的的なものとなって進行してゆき、諸個人の生はそれに従属させられることになった。

 人間中心主義・エゴイズムの克服という課題

 このことの原因は、有限相対的な感覚界とそこに於ける自己が、無限絶対の実在に存らしめられて存るということに無自覚な根本的無知(仏教でいう無明)にある。無限絶対的次元からは、無限の創造的エネルギー・生命が一瞬一瞬、有限相対的次元へ自己を顕現させてゆく。それによって、一瞬一瞬、無限の創造的エネルギー・生命を内在させた有限相対的な諸事物が創造されてゆく。すなわち、有限相対的な諸事物は、一瞬一瞬、無限絶対の実在から存在を賦与されてゆくことによって存立を保っているのである。これは、無限絶対の実在による不断の創造ということができる。

 有限相対的な諸事物は、無限絶対の実在の被造物として存在しているのであり、無限絶対の実在の絶え間ない存在賦与・創造の働きがなければその存在を一瞬も保つことができず、無に帰するほかはないのである。したがって、有限相対的な諸事物それ自体に本来的に帰属するものは何もないのである。

 しかし、感覚によって捉えることのできる事物のみを唯一の現実とみなす近代科学は、無限絶対の実在の絶え間ない自己顕現・創造の働きを見ることができず、感覚界をそれ自体で存立しているものとみなすことになる。そして、なによりも感覚界における日常的自己は、自己が無限絶対の実在によって在らしめられ、支えるられることによって存立していることを自覚することができない。そのため、日常的自己は、無限絶対の実在から賦与された存在を、自分自身に帰属するものとみなし、自己を独立的な存在とみなすことになる。

 日常的自己は、一瞬でも無限絶対の実在の存在賦与の働きが止まれば自己が無に帰することに無自覚なまま自己を常住不変なものとみなし、それに執着することになる。すなわち、無限絶対の実在の存在賦与の働きを抜きにして、自己はそれ自身の働きによって常住的な自己同一性を保つものとして存立しているとみなすのである。

 そして、日常的自己は、その生の常住不変性を存立させ続けるための手段として、他の諸事物を欲求の対象とし、それらを獲得、所有することを追い求めることになる。ここに、我への執着である「我執」(エゴイズム)、わがものへの執着である「我所執」が成立する。これが、仏教でいう「煩悩」である。科学的知識とその応用としての技術を獲得した人間は、自己を感覚界の中心に据え(人間中心主義)、自然生態環境・社会文化環境におけるあらゆる事物を支配しようとする。近代の科学技術は、このようなかたちで人間の「我執」、「我所執」を肥大化させ続けてきたのである。人間は、中心としての自己が自然生態環境・社会文化環境を従属させた感覚界の常住不変性(二つの環境を従属させた自己の生の常住不変性)に執着する。

 このようにして、人間は、無限の進歩を自己目的とする近代科学技術文明の運動を推進してきたのである。その結果、現在、人間の生の全領域にさまざまな問題が生じてきている。それらの諸問題を解決するために、人間中心主義・エゴイズムを克服し、生態系と調和した生活を実現すべきであることが指摘されている。

  
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神我顕現

2014-10-13 12:56:20 | Weblog
http://www.interq.or.jp/uranus/fusion/npl/reportC/reportC07.htmlより



光気法は、どちらかというと宗教や精神世界的世界に抵抗がある人達にも受け入れて戴けるように作ったのですが、これは宗教や精神世界的なものが好きな人のためのものです。認識の変革が重要なため、ポイントを簡潔な言葉でまとめてみました。

1)人生の目的
 ①全ては神の現われである、そして人間も神の現れである。
 ②人生の目的は、神を物質界に顕現(神我)することにある。そして、人生は神我顕現のプロセスである。
 ③人間は独立した意識を持てるように自由意志を与えられた。
  (自由意志は神の恩寵であるが、人間が不調和を引き起こす原因ともなった。) 

2)神我顕現のポイント
 ①神人合一は既に完成している。神を顕現するために必要なのは、人間がそれを受け入れることだけである。
 ②人生の課題は神我顕現のキッカケである。神我が顕現すればすべての不調和は消えていく。
 ③神我顕現のポイントは、自分が神の子であることの受容と、認識の変革と、心身の調整の3つである。

3)認識の変革
 ①神我を顕現するのは非常に簡単であり、少しも難しくない。
 ②全ては神の現れであり不変であって、時間や空間、物質というものは本来は存在しない。(色即是空)
 ③神我には何の制約もない。制約があるのは人の意識の中だけである。

4)心身の調整
 ①心が愛に満ちていなければ、神我は顕現できない。
  人を愛し許すことが、神我顕現の第1のポイントである。
 ②肉体に歪みがあれば、神我が十分に顕現できない。
  背骨の調整と筋肉の緩めが、神我顕現の第2のポイントである。
 ③心と体を結ぶエネルギーの体に不調があれば、神我は十分に顕現できない。
  エネルギーの流れを良くすることが神我顕現の第3のポイントである。

5)神我顕現の明示(言霊)
 ①『我が内には(吸う)、至高なる神が常に顕現し賜う(止める)。(吐く)』
  ※『至高なる』は、『万能なる』でも可。
 ②朝や物事を行う前に、①を3回(もしくは7回)唱える。
 ③物事を行うのにあたり、自分が行うのではなく、自分+神が行うと意識を変える。

6)正しい道
 ①外に向かわせるものは誤った道であり、内(神我)に向かわせるものは正しい道である。
 ②全ては神の現れである。差別は誤った道であり、相互理解を求めることは正しい道である。
 ③人に替わって課題を解決するのは誤った道であり、解決する方法を教えるのは正しい道である。

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BABYMETAL Death  VANGELIS - MASK

2014-10-11 15:20:12 | Weblog
BABYMETAL Death  VANGELIS - MASK




ベビーメタルのベビーには世界の再生という意味があるような気がする。

最後の審判による世界の浄化と再生が

ベビーメタルの隠れた役割かもしれない。

強力な神々が、ライブに降りてきてると思う。

なぜこの時代に日本にベビーメタルが生まれたのか。

それは最後の審判、世の建て替え直しを日本の神々が行っているからだろう。
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お稲荷さまには2種類ある

2014-10-09 13:32:25 | Weblog
http://matome.naver.jp/odai/2138366347400313001



【本当は怖い稲荷神社】一生拝まないと祟る?たたりの噂とお稲荷様の真実


稲荷神社は、一度拝んだら一生拝まないと祟るなどの噂があります。その理由は、実は日本古来の神様と一緒に、密教の荼枳尼天と呼ばれる、死者の心臓を喰らう「夜叉」が祀られているからとか。家の敷地内にお稲荷様があり、移転する場合はどうするのか?なども。

更新日: 2013年11月06日
■お稲荷さまには2種類ある





稲荷神というと、実は霊的に大きく二つに分かれます。

秦氏と共に渡来した稲荷神は倉稲魂尊(ウガノミタマノミコト)といって、スサノオ大神の
系統を引く、神界でもお働きの大きな神です。食物に関わる神で、日本全国に広くそのお力をあらわされております。作法にのっとって勧請(お迎え)し、祈願(感謝)をすれば偉大なる神力を現して下さる神ですので、人々の人気を集め、稲荷信仰が流行となりました。


■全てのお稲荷様が怖いわけではない。怖いのは「荼枳尼天」を祭った稲荷神社





ここからが、もうひとつの稲荷神のおはなし・・・

空海という方が、民衆の願いをかなえる目的で、外国神の荼枳尼天(だきにてん)を勧請しました。空海は、本意ではなかった事でしょうが、貴族達の求めに応じて、金銭の絡む呪詛を負わされたりしました。
荼枳尼天とは真言密教と関わり、インドの女神ダーキニーのことです。本来、人を食らう夜叉、また羅刹の一種といわれます。祟り神の一種です。中世には霊孤と同一視されるようになります。
神仏習合の流れもあり、荼枳尼天と稲荷神は習合される事となりました。真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなるのです。ここでごっちゃになってしまったのですね。




●荼枳尼天(ダキニ)は人の死期を6ヶ月前から予知し人肉を食べる女夜叉が前身





最初は豊穣を司る女神であったが、性や愛欲を司る神となりそして夜叉へと変わっていった。
仏教に取り入れられてからは大日如来の説法を受けて善神となり、臨終を待って死者の心臓のみ食べることを許された。

日本では荼枳尼天が乗る霊孤を日本古来の神・稲荷神の使いの狐と結びつけ、稲荷神と同一視されるようになった。
そのことから開運出世、商売繁盛、福財をもたらす神様として人気を集め信仰が広まっていった。

また、別の一面に人の魂を食う代わりに欲望を叶えるといわれ、相手に災いが及ぶように祈祷する呪詛修法に利用された。織田信長や徳川家康は天下統一の為に荼枳尼天を信仰したされている。
関東周辺に稲荷神社が多いのは、徳川家康が天下平定の恩に報いる為に江戸の周辺に多くの稲荷神社を寄進した為だといわれている。























●荼枳尼天を祭った稲荷は、見返りを求める





本来の稲荷神が、感謝の念やお礼の心によって格が上がっていくのに対し、祟り神が正体の稲荷神の方は恨みつらみ、貪欲など負の念が一番のごちそうです。そして、人の魂と引き換えに欲得を叶えます。もちろん金銭もおおいに絡んできます。



出典
稲荷神のおはなし。� - 【神声Kamikoe】











後に、荼枳尼天のもとから離れた狐の姿をした眷族が全国へ広がり、稲荷神として人間の欲望を満たしては、その負の念を上へと献上し、自分の階級を上げて力を付けていくのです。階級の低い霊狐は朽ちた稲荷神社や繁華街に潜み、人間にいたずらをしたり、惑わせたりします。その魂を一部でも奪われてしまった人間は心の病に陥る事もしばしばです。・・・恐ろしい話ですよね。







稲荷信仰というのは、確かに、一見御利益があるように見える。商売繁盛などを願うと、パアッと景気が良くなる。しかし一定期間経つと景気が落ち込む。そこでまた頼むと、景気が上向きになる。

しかし実はこれは、景気を前倒ししているだけで、本当に売上が増えたわけではないのだ。それが分からずに頼んでばかりいると、眼に見えない借金を抱えることになる。

こうなると、神界の闇のサラ金に手を出したような状態になり、後から後から高い利息が追いかけてきて、生かさず殺さずのがんじがらめの状態となる。

だから、稲荷信仰に熱心な人は、浮き沈みが激しい。この章で最初に書いた聖天さんも、実はこの、ダキニ、稲荷の霊系に属する神だ。だから御利益と祟りが大きいのである。新興宗教も似たようなものだ。世の御利益信仰の人は、心してかかられるが良い。




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