思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

「女系天皇」への“入り口”…懸念ぬぐえず

2012-03-30 16:49:25 | Weblog
「女系天皇」への“入り口”…懸念ぬぐえず
2012.1.6 01:30 (1/2ページ)
 政府が皇室典範改正に関し、「女性宮家」創設に絞ったのは、男系による皇位継承という大原則をひとまず尊重したかにみえる。ただ、女性宮家の創設は将来的に「女系皇族」を生みかねず、皇室伝統の大転換となる「女系天皇」実現への思わぬ入り口となる懸念は払拭できない。

 男系継承は神話時代から現在の第125代の天皇陛下に至るまで脈々と続いてきた。歴史上、女性天皇は10代8人がいたが、いずれも男系女子だった。小泉純一郎元首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が平成17年に出した「皇位継承順位は男女を問わず天皇直系の第一子とする」との答申は、この伝統を断絶させる内容だったため激しい批判を浴びた。

 政府はこうした経緯を踏まえ、皇位継承資格や順位の議論に踏み込まないことにしたようだ。女性宮家は一代限りとし、公務分担のため、その配偶者も皇族とする案が有力だという。

 だが、十分考え抜かれた案であるか疑問が残る。

 女性宮家とその配偶者を皇族と定めた場合、子供だけ民間人とするのは不自然だとの議論が起きはしないか。そこで「その子供も皇族とする」とすれば、男子であれ女子であれ、皇室伝統とは異なる女系皇族が誕生することになる。

 仮に一代限りではなく世襲と決まれば、女系宮家が誕生する。皇位継承順位は複雑化し、女系宮家から皇位継承者が現れれば、有史以来初の女系天皇となる
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日本につて語る外国人

2012-03-29 18:52:38 | Weblog
■アラムシャ陸軍中将=インドネシア人。インドネシア大統領特使として1993年(平成5年)7月、来日。

「祖国と青年」1994年2月号『アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論』(中島慎三郎)より

 平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」と述べると「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」「どういうことですか?」「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこ はオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立で きただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」とアラムシャ陸軍中将は語りました。

■N・ヤルマン=トルコ人。大学教授。

「中央公論」1998年5月号「アジアの知識人は日本をどう見る」より

 アジアにおける支配の歴史というマイナスの面があるため、日本人は沈黙しがちです。しかしもう話すときがきた。南アジア諸国は、日本のおかげで現在自由があることを認識しなければならない。そうでなかったら今でもフランスやオランダやイギリスに支配されている。

■W・リム=シンガポール人。大学教授。

「中央公論」1998年5月号「アジアの知識人は日本をどう見る」より

 日本は西洋的なやり方でなく、独自のやり方で近代化を成し遂げた国であることを認識すべきです。だがアジア諸国はこのことを認識していない。日本がそれについて話をしないからです。

■ノーマン・メイラー=アメリカ人、作家。

「プレイボーイ」日本版1999年10月号より
 中国系アメリカ人作家アイリス・チャンの「ザ・レイプ・オブ・南京」がベストセラーになった理由について

 アメリカ人にはヒロシマに関して深い罪の意識がある。だから日本人が1937年に南京で中国人にひどいことをしたと耳にすると、ほっと安堵するのだ。それにしてもこれまで南京虐殺なんて聞いたこともなかった。少なくともこの50年間は。それがいま突然話題になった。

(中略)まあ、日本に対する敵意というのは確かにある。いや、多くのアメリカ人は反日的なものを見たいのかもしれない。次の世代はアジアが支配するのではないかという恐怖心が隠されているからだ。

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古来より、文化や技術は「日本から朝鮮に」伝わった。  

2012-03-28 20:15:51 | Weblog
★古来より、文化や技術は「日本から朝鮮に」伝わった。  
   
  ★勾玉=材料となる翡翠が東アジアで日本の糸魚川でしか産出されない!  
  ★土器=日本最古の土器(1万6500年前)がほぼ『世界最古』の土器!  
  ★水田稲作=「①炭素測定法、②品種遺伝子」が日本が朝鮮に伝えた証拠!  
  ★前方後円墳=日本のほうが古い。韓国の前方後円墳の出土物は日本の土器類に酷似!  
   
  ★4世紀頃(391年、倭が海を越え襲来し百済や新羅を破って服属させた「広開土王碑」)  
   から7世紀(白村江の戦い)まで、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部。  
  ・百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、日本の九州で生まれ朝鮮半島に渡った。  
  ・東城王(末多王)の百済王即位も日本(天皇)によって決められた。  
  ・武寧王の子「純陀太子」は日本に人質として来て、子孫もそのまま日本に住み着いた。  
  ★つまり「百済とは昔から日本(倭国)の一地方」だったため、百済王は天皇が決め、  
   日本生まれの「東城王(末多王)」や「武寧王」等が朝鮮半島に渡って即位していた。  
  ★インド発祥の仏教は中国を経て日本の一部である百済経由で日本本州伝来した。  
  ★その後の朝鮮半島では、新羅が支那(唐)に百済を滅ぼしてもらって李氏朝鮮時代に  
   なると、仏教も滅ぼそうとして弾圧しまくった。  
   
  ★朝鮮が日本より先進地域だったことは過去一度もない。




倭が391年以来、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。 (広開土王碑)

新羅百済は倭を大国と崇めた (隋書81巻東夷倭国)

新羅の4代目国王の昔脱解は日本人 (三国史記 新羅本記)

百済の王が王子を人質として倭国に送る (三国史記 百済本紀)

新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。 (三国史記 新羅本紀)

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日韓の歴史

2012-03-28 12:00:52 | Weblog
4世紀
大和朝廷は日本を統一した。
朝鮮半島南半分は新羅、百済、任邦(みまな)に3分されていた。
任邦は大和朝廷の支配地で日本府が置かれていた。
百済は漢城(ソウル市東部)に都をおき、倭(日本)と親密な関係をもっていた。
391年
百済・倭連合軍が高句麗と戦い、敗れた。

562年
任邦は新羅に滅ぼされた。

660年 7月18日
唐が20万の大軍で新羅を助け、百済を攻め、百済が唐・新羅に滅ぼされる。

660年 10月
百済の将軍鬼室福信が救援を求めて使者をよこす。

663年 3月
上毛野雅子らが2万7000人の兵を率いて新羅に向かう。

663年 8月28日
朝鮮 日本・百済両軍が唐・新羅軍と白村江で戦い、大敗。

813年 3月18日
新羅人が来襲し、小値賀(おじか)島民100余人を殺傷する。
以後も、800年代には来襲が相次ぐ。

870年
対馬の守文屋善友らが新羅の賊を撃退する。

904年 4月14日
新羅の賊が対馬を襲うので、太宰府に討たせる。

1019年 3月28日
対馬・壱岐 刀伊(とい)の船50隻が対馬地方を襲う。
4月7日には壱岐地方に来襲し、壱岐守藤原理忠や島民多数を殺害し、また連れ去る。(刀伊の入冠)

1350年 10月5日
朴○(パクウイ)は戦艦100隻を率いて倭寇の巣窟である対馬島を征伐し、その気勢をくじいた。

1510年 4月4日
朝鮮三浦(富士浦ーふじんぼ、斎浦ーせいほ、塩浦ーえんぼ)の在留邦人が、富山浦を攻略。(三浦の乱)

1953年 2月4日
出漁中の日本漁船第一大邦丸が韓国の李承晩ラインで拿捕され、瀬戸重次郎漁労長が射殺される。



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任那

2012-03-28 11:34:01 | Weblog
倭国および任那との関連

伽耶地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族、または倭人系百済官僚などが当地で軍事的・経済的影響力を有していたことが有力視されている[12][14]。倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。

また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで[15]、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。404年には倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵攻したので敗退させた[16]。

また、日本列島固有の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で多数発見されている[17]。朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の西隣であり、金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう[18]。そのほか、新羅・百済・任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア全体でも日本とミャンマーに限られること[19]や、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した[20]ことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。
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歴史を捏造する朝鮮人

2012-03-26 19:53:55 | Weblog
朝鮮と歴史教科書


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 わが国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てきますが、その内容は日本古代史書である 「日本書紀」を土台にしているもので、わが国の史書にはありません。
(そもそも韓国に古代の文献はほとんどない)ところが、日本の学者が 「日本書紀」を土台にして、古代日本が二百年余り朝鮮半島南部の伽耶(日本名任那)地域を支配したという「任那日本府説」を主張すると、 韓国の学界ではそれは信じることができないと主張しています。これは明白な矛盾であり、こうした姿勢ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く
見るのではありませんか、という身の程を知らぬ質問をした。そしたらL教授は黙り込んで答えず、横に居られたC教授が「自信がないんだよ」とおっしゃった。「日本書紀」 には日本が「任那日本府」という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ、三国文化を運んでいったようになっている。しかし、韓国の中・高等学校 では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明もされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。
そこで学生達は日本を客観的に理解できずに、無条件、対日優越意識だけを 助長する結果をもたらせた。外国に出かけたわが国の学生が「任那日本説」に接して戸惑うのも無理はない。

                     高麗大学教授 金鉉球

                    鄭大均 「日本のイメージ」より


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 韓国知識人の主張によれば、有史以来、千回も侵略を受けたが、すべて撃退したという。しかし、前述のように嘘である。ほとんどの場合、徹底的に叩かれ、連行 を免れた者は属国の従順な民となって、宗主国に阿諛迎合したのである。
 唐軍も、モンゴル軍も満州軍の侵入のときも、その負け方は、たいてい似たり寄 ったりである。それは新羅史、高麗史、李氏朝鮮史と諸史の原典記録を一読すれば細かく記述されている。中国諸史だけでなく、朝鮮半島の歴史も大同小異である。
 韓国知識人の多くは、なぜ歴史を直視する勇気がないのであろうか。
 朝鮮半島の歴代王朝の国防政策は、たいてい専守防衛だから、兵数が少ない。
 李朝末期は数千人の単位程度で、ほとんど宗主国の防衛に頼りっぱなしだから北方 から異民族が侵入してくると、たいていは城を棄てて逃げ惑い、農民はわめき、哭くばかりであった。
 たいがい敵が侵入してくると、各地方の軍隊は総崩れとなり、地方の長官は競って 土地を献上し、帰順するか、逆に敵軍に従軍し、火事場泥棒を働く者も少なくなかった。
宗主国をかさに、高麗や朝鮮国王にゆすりたかりを働き、一族の利益を図るのが、朝鮮 半島の鉄則のようなものだ。千余年来、たいてい同じようなことを繰り返したのであった。
 だから千年進入され、千回とも敵を撃退したのではなく、属国になると誓ってから宗主国が兵を引いたという歴史事実が繰り返されている。
 ではなぜ戦後になると韓国知識人の歴史歪曲が、日を追ってますます神話まがいのものまでに変化していったかというと、それはどの民族も自存自衛のために欠かせない民族の自尊心にある。

韓国は壬辰倭乱(豊臣秀吉公の朝鮮征伐のこと)で焦土と化した。だから三百年もへても立ち直れなかった。いやがうえにも倭乱のひどさを強調した いという気持ちはわからないでもない。しかし、考えてもみると、一回の大乱だけで三百年も立ち直れない民族は、世界中のどこにいるのか。もしあるとす れば、もっと恥を知るべきであろう。戦後、焦土化した日本は半世紀もたたずに再び経済大国になったではないか。千回も侵略され、すべての侵略者を撃退 したという自慢話と、三百年も立ち直れないでいるという論理を矛盾することもなく主張することに自己撞着はないのであろうか。
 韓国知識人はつねにこのような歴史歪曲で「反日」を正当化する。

              韓国人の反日台湾人の親日  黄文雄 光文社


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稲作は日本から朝鮮半島へ伝わった。

2012-03-25 16:42:54 | Weblog
農学、植物学、生態学の分野では米の伝来ルートについては支那南部から直接伝来したという説が定説だったが、考古学、歴史学の分野では朝鮮半島経由という考え方が有力だった。

しかし、7,8年前からまず考古学の分野から変化が起き、次第に支那南部から直接伝来した説が有力になって、現在ではほぼすべての学界で定説になっている。また支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

この流れが加速したのは主に2つの理由がある。

遺伝子工学の分野からの研究の成果、もう1つは支那政府機関が20年以上かけて満州で行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で米が伝来した可能性がなくなった。


順を追って説明すると、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。このうち古代から現代に至るまで日本で発見された米の遺伝子は2つしかない。日本に存在する遺伝子をNO.1とNO.2とする。

NO.1とNO.2の遺伝子はそれぞれ温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカという品種の特有遺伝子だ。

次に稲作の発祥地である支那はもちろんNO.1からNO.7まですべて揃っている。

朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。
この辺の事情は「栽培稲に関する種生態学的研究」(松尾孝嶺著)に詳述されている。


往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子を持つ米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかないのが確認されていて、これが稲作開始の初期から広く分布していることから、米の伝来はごく限られた回数で特定の地域から伝来したと考えられる。

近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。

これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。

また、支那南部の日本の米の起源と推定される地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。

往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。



また朝鮮半島の米はNO.2の遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でNO.2の遺伝子が多く伝わっていなければならない。日本から2種類の遺伝子を持った米が朝鮮半島に渡ったものの、NO.1の温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずNO.2の遺伝子のみが広まり、そこに満州から米が入ってきて、NO.2の遺伝子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米に遺伝子的な説明が付く。

支那にはすべての遺伝子が満遍なくあるので、特定の種類の遺伝子だけを多くして朝鮮半島に伝えるのは無理だ。


韓国の学界には古代朝鮮人が遺伝子を見分ける何らかの術を持っていて、仕分けをした上で日本に米を伝えたとする説を唱える学者もいるが、願望というか発表の際に興奮気味に意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わったことにしたいようにしか見えない。どうやって遺伝子を見分けたかを説明していないので相当に無理がある説だ。

韓国の学者は学術的見地よりも感情が先に出ているので非常に相手をしにくい。実際にBSEの研究会をイギリスで開催した際は韓国からは招待者なしという事態もあった。


米の伝来は支那南部から日本へ来たものであることを説明したが伊勢神宮にはこれを裏付けるような伝承がある。

「米は斉の御田から天照大神が持ってきた」(斉は現在の中国山東省)というもので、現在の学界では日本の米は支那の山東省付近という説がもっとも有力だ。

また、同地域にも一部部族が日本へ渡ったとする伝承がありこれを裏付けている。


さらに台湾の学者が鵜飼に着目した研究をしているのだが、これも日本への米の伝来が支那からであることを裏付けている。

鵜飼の風習は支那の楚の国(現在の湖南省と湖北省とその周辺)とその稲作文化圏である四川省、雲南省、広東省など中国南方の地方によく見られる。日本でも普通に見られる。

ところがこの鵜飼は朝鮮半島では古来まったく見られない。台湾や琉球文化圏でも鵜飼の習慣はない。このことは最初に米を日本へ持ってきたのが、支那南部の楚に起源を持つ人たちで経由なしで直接日本に伝来させたことを裏付けている。その人達が伝えた鵜飼が日本に広まったということだ。


なお、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっている。

日本が朝鮮を併合した時に朝鮮に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2.2倍という爆発的増加をみたが、これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるものだ。単位収量の増加は挑戦における生活の安定をもたらし、食料計画の研究資料によると摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増えた。栄養状態の大きな改善などにより併合後の朝鮮の人口は2倍以上に増加した。

支那も朝鮮と同程度の収量であったことなどをみると日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでは飛び抜けてトップであったことが伺える。



出典:Yahoo!掲示板







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