思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

音が揃うこと

2017-09-30 22:52:21 | 思想、哲学、宇宙論
合唱や楽器の演奏で、声や音を揃えることが重要なのは

音が揃うことによって、コヒーレントになり全体性、統一性が生まれるからだろう。

音楽は物質世界に高次元のコヒーレントな世界を顕在化させる。
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量子現象としての生命

2017-09-30 15:25:27 | 思想、哲学、宇宙論
http://home.hiroshima-u.ac.jp/tadasi/ronbun-30.pdf

生命体はデコヒーレントな環境世界から自らを隔離することによって

量子状態を生成し維持している。

無生物はデコヒーレンスで、生きているという量子の本質を失っている。

生命は生きているという量子の本質の現れである。

生体はすべての部分がバラバラにできない仕方で全体として一つになっているので、

目的は部分ではなく生体全体の方にある。

全ての部分が不可分の仕方で全体として一体性を成している

という量子状態が崩壊し消失すると生物は死ぬ。

また種や卵子と精子の結合から生物全体が形成されることには

全体の情報が含まれていることを意味する。

不可分の全1性の完全な状態が、物質界を越えた光の不可分の全一性意識にあるので、

物質界の生命はその投影・写しである。

DNAは光の完全な命を投影する受信装置であると思われる。
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生命の源

2017-09-28 11:12:35 | 思想、哲学、宇宙論
現代科学の世界観では、この世は物質次元しか存在せず

世界は物質次元で閉じていると考えているが

キタロウの音楽を聴いているとそれが間違いであることに気づく。

物質次元だけでなく非物質次元があり、

二つの次元の相互作用で秩序や法則が生まれていることを心の中で体験する。


非物質次元とは微細な生命エネルギーの世界であり、この世界が生命の源である。
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Kitaro

2017-09-26 13:34:40 | 思想、哲学、宇宙論
Kitaro Rare Music Channel (#2) - 【Part 1】Safe God Temple, Japan [2003] (Video)



近代自然科学・社会科学は、自然と社会を自己完結的な閉鎖システムとして捉えた。つまり、近代の自然認識・社会認識は、生態系と文明系が開放系であり、両システムの物質・エネルギー循環が歴史的生命の世界によって媒介・統一される、という本質的な連関構造を捉えることができなかったのである。


>生態系と文明系が開放系であり、両システムの物質・エネルギー循環が歴史的生命の世界によって媒介・統一される。

生態系と文明系のエネルギーが高次元で統一される。
 

これがキタロウの表現する世界であり、来たるべき日本文明の姿かもしれません。



この実在界には、無限の創造的エネルギー・生命が貫流している。だが、啓蒙主義的・合理化主義的な知は、実在界を認識対象とすることができない。したがって、そのような知を生活意識とする諸個人は、そこを貫流する無限の創造的エネルギー・生命を制御することができない。

キタロウはこのエネルギーを認識して制御しているみたいです。

キタロウを聴いて共鳴した人も、やはりこのエネルギーを制御しているのかもしれません。

神の分身である人間は、もともとそのような能力が備わっていると思います。

人間という媒体を通して無限の創造的エネルギーが制御されるのです。
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喜多郎が第一回日本トランスパーソナル学会に参加

2017-09-26 11:51:01 | 思想、哲学、宇宙論

https://ameblo.jp/yoshikotak/entry-10647886735.html





日本トランスパーソナル学会に参加してきました


2010-09-13 23:18:18

テーマ: 心





先週末は、日本トランスパーソナル学会の大会に参加してきました。

1996年の第一回大会の開催を機に、学会の立ち上げに関わった古参(?)として、
ティムと共に顧問を務めています。
顧問といっても、そんなに大げさなものではなく、
大会の際には、裏方のお手伝いをさせていただいていますが。

私たちが立ち上げた際には、アメリカのトランスパーソナル学会を参考に、
専門家だけでなく、一般の人に開かれた学会であること、
また、トランスパーソナルの視点から、心理学だけでなく、医療、エコロジー、
宗教学、アート、人類学、文学など、幅広い分野の人たちが集うこと
を念頭に置いていました。

伊豆で開催した第一回大会の際は、吉福伸逸さん、河合隼雄さんをはじめとする
心理学の専門家、ホリスティック医療の分野から上野圭一さん、
スピリチュアリティについての代表的論客であるおおえまさのりさん、
上田紀行さん、北山耕平さん、鎌田東二さん、星川淳さん、
見田宗介さん、宮迫千鶴さんなど、そうそうたる顔ぶれ。

さらにアートイベントとして、喜多郎さんにも協力していただきました。
アメリカ在住の喜多郎さんが無償で来ていただき、本当にありがたいことでした。
トランスパーソナルという発想に共鳴し、応援していただけたからです。
演奏は諏訪太鼓を中心としたものですが、地元伊豆の祭り太鼓のメンバーにも
協力していただけることになりました。

南伊豆の弓ケ浜という、青松白砂で知られた海岸に夜、かがり火をともし、
1,000人ほどの人たちが集まったこの日のイベントのことは忘れられません。

「トランスパーソナル」とは、たんなる概念ではなく、感じるもの、
体験するものであるからこそ、こうしたイベントは欠かせません。

・・・思いがけず、第一回大会の話だけでこんなに長くなってしまいました。
続きはまた。
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『文明系と生態系――新しい地球文明を展望する――』 根井康之

2017-09-25 19:02:05 | 思想、哲学、宇宙論
『文明系と生態系――新しい地球文明を展望する――』 根井康之
                                                               (1993年 農文協刊) ⇒農文協「田舎の本屋さん」はこちら

                                                              ⇒目次はこちら

内容紹介

 現代は、文明系と生態糸が深刻な対立に陥った危機の時代である。近代科学技術文明は、地球のあらゆる地域の資源を利用することによって、巨大な生産力を生み出していった。その結果、現代社会は、過去のどのような社会とも比較できないほどの飛躍的な経済発展を成し遂げた。

 だが、それは、全地球的規模での環境・生態系の破壊を代償として獲得されたものであった。地球温暖化、オゾン層破壊、酸性雨、熱帯雨林破壊、土壌破壊、海洋汚染など、地球環境はいまや危機的状況を呈している。産業革命以降の近代文明の発展は、さまざまな公害・環境破壊を惹き起こしてきたが、20世紀後半には、それとは比較にならない急速な勢いで、地球環境の破壊が広く深く進行していった。

 人類は、生物の一つの種であるかぎりにおいて、自然環境と生物によって構成されるシステムである生態系に属している。だが、意識と意志を有する人類は、生態系を基盤として、より高次のシステムである文明系を形成した。生態系とは、すべての生物、即ち、植物・動物・微生物が、土壌・水・大気という自然環境と相互作用することによって構成されるシステムである。この生態系によって、宇宙空間から供給される太陽エネルギーを固定化する植物に始まり、草食動物から肉食動物をへて微生物に至る食物連鎖が形成され、すべての生物の間にエネルギー的調和が実現する。この調和は、開放系としての地球生態系が、物質・エネルギー循環の結果、発生した廃熱を、最終的に宇宙空間に放出することによって可能となる。

 人間は、この生態系の物質・エネルギー循環を、文明系という更に高次のシステムの内に汲み上げる。生物は、遺伝子の本体であるDNAの内部に蓄積された遺伝情報に基づいて物質・エネルギー処理を制御することによって、自分の身体を形成し維持してゆく。それに対して、言語はじめとするシンボルを創造した人間は、情報を生体外に固定・蓄積し、道具を生体外器官とし、人工環境を形成することで、生体外物質代謝を行なう。そこに、生態系を基盤として文明系が形成される。

 人間は、生態系と文明系という二つのシステムに属しているのであり、意識している生命活動によって、生態系における物質・エネルギー循環と文明系における物質・エネルギーに循環を媒介・統一してゆく。

 だが、現代では、人類は、みずからが生み出したものでありながら自立的な運動を展開し、全地球的規模で環境・生態系を破壊してゆく文明系を、有効に制御することはできない、という事態に追い込まれたのである。このような事態を克服するために、人類は、自己が生物の一つの種として生態系に属しており、文明系が生態系を基盤とし、その部分系として成立しているということを改めて自覚すべきである、という指摘がなされている。その指摘自体は、妥当なものである。

 しかし、そのような認識だけでは、文明系と生態系との対立を根底的に克服するためには決定的に不十分である、というのが『文明系と生態系』の立場である。本書は、単なる生態学に関する書物ではない。本書が、生態学に関する書物と根本的に異なる点は、文明系と生態系が歴史的生命の世界という実在界に於いて根源的に統一される、ということを明らかにしていることにある。文明系と生態系との対立を根底的に克服するためには、生態学でだけではなく歴史的生命の世界という次元の存在構造を解明した知を形成することが不可欠である。

 歴史的生命とは、無機的エネルギー・生物的生命を超える、より高次の創造的エネルギーである。歴史的生命の世界に於いて、それぞれに固有の能力を発揮して生命活動をしつつある諸個人が相互に働きあうことによって、そこから物と情報が創造されてゆき、文明系を豊かにしてゆくとともに、人間の諸能力を高めてゆく。

 したがって、諸個人は、創造的な歴史的生命の世界の創造的要素として認識し行為する(自覚的・行為的要素)のである。歴史的生命の世界に於ける諸個人は、自己の生命活動によって、全体としての創造的生命の世界をそれぞれに固有のかたちで自己の中に映し出す。それよって、生物的生命を超える人格的生命が成立する。すべての人格的自己は、それぞれに異なった観点から全体としての歴史的生命の世界を映す独自の個として存立していながら、相互に調和する。歴史的生命の世界は、ライプニッツののモナドロジーと同一の存在構造を有している。現代哲学に関して言えば、フッサール現象学の開放的モナドの共同体,西田哲学の創造的モナドロジーの世界は、歴史的世界の存在構造を解明したものとして捉え返すことができる。

 人間を、生態系における生物の一つの種として捉える生態学的な認識を超えて、人間を歴史的生命の世界に於ける自覚的・行為的要素として捉える哲学的な認識を形成しなければならない。このような認識を欠落させていたところに近代自然科学・社会科学の本質的な限界があったのであり、それによって制御された近代科学技術文明が、文明系と生態系の対立を惹き起こすことになったのである。

 近代自然科学・社会科学は、自然と社会を自己完結的な閉鎖システムとして捉えた。つまり、近代の自然認識・社会認識は、生態系と文明系が開放系であり、両システムの物質・エネルギー循環が歴史的生命の世界によって媒介・統一される、という本質的な連関構造を捉えることができなかったのである。

 近代社会は、そのような本質的な限界を持つ科学的知識に基づく工業生産システムよって、物質・エネルギー処理を制御してきた。そこでは、環境・生態系から物質・エネルギーを無限に取り出すことができ、それを利用することで無限に生産力を高めることができる――という考え方に基づいて生体外物質代謝が行なわれ、その結果発生する廃熱・廃物が生態系に与える影響は顧みられることがなく、その中に放出された。その結果、地球生態環境が破壊され、文明そのものの存立が危うくなるという事態が生じたのである。

 そこには、歴史的生命とその創造的尖端である諸個人の生が、物量的生産力の無限増大を目的とする自己完結的な運動に従属させられるという転倒が生じている。このような事態を根底から転換させるためには、歴史的生命の世界に於ける自覚的・行為的要素である諸個人が働きあうことによって、文明系と生態系を根源的に統一することが、同時に、それぞれの個人が個性的で全体的な人格的生を実現しつつ相互に調和することである――というを関係を可能とする新たなシステムを創出しなければならない。

 このシステムは、単に人格的自己の相互調和だけでなく、すべての自然的個物・人間的個人・文化的個物の根源的な相互調和を可能とするものである(このことに関しては『絶対無の哲学』『創造的生命の形而上学』において論究している)。新しいシステムを創出するためには、地球上のあらゆる地域における諸個人が、固有の生態系と調和し得る文化・文明の形成をめざすとともに、各地域が相互に開かれたものとして、グローバル=ローカルなネットワークを構築してゆくことが必要となる。

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ディープエコロジーの環境哲学

2017-09-25 13:41:27 | 思想、哲学、宇宙論


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/deepeco.html


ディープエコロジーはおおよそ次のような自然観を採用する。すなわち、現在の地球環境問題は、近代以降、人間が自然に対して誤った態度を 取ってきたことに由来する。自然とは、近代人が考えてきたような「征服すべき対象」ではない。人間と自然とはそもそも一体である。自然のなかで、自然に支 えられて生きる人間という、正しい世界観をわれわれが再発見することなしに、環境問題はけっして解決しない。そのためには、われわれ自身がまず変わる必要 がある。われわれは見失ってきた「自然の声」、「地球の声」を聞くことのできる感受性をとりもどし、それら と呼び合うことのできるような人間へと、われわれ自身が変わってゆかねばならない。このような意識変革(自己実現)があってはじめて、真の自然保護が可能 となる。この自然観は、人間中心主義ではなく、人間非中心主義(nonュanthropocentrism, biocentrism)である。自然に対するそのような態度を実戦するために、われわれは自分たちが住む足下の地域の自然にもっと真剣なまなざしを向 け、その地域独自の自然に即したやさしいライフスタイルを模索してゆかねばならない(生活地域主義、生命地域主義bioregionalism)(4)。

 
何千年もの間、西洋文化は「支配」の観念にとりつかれてきた。自然の支配、男性による女性の支配、 富めるものによる貧しいものの支配、西洋による非西洋文化の支配。ディープエコロジーは、これらの考え方を誤った、危険なものと考える。ディープエコロ ジーは、われわれ自身のことを、有機的な全体の一部として考える。物質科学による視野の狭いリアリティの把握を超えるとき、リアリティの精神的側面と物質 的側面は統合されるのである。ディープエコロジカルな意識の探求は、客観的な意識の探求であり、それはアクティヴでディープな真理探求と、 ディープな暝想のプロセスと、ディープな生活様式によって達成される。そうすることによって、哲学的・宗教的レベルの知恵を獲得することができる。それ は、近代科学の方法によっては決して確証できないものである(10)。

 つまり、まず自己の探求や暝想などによって、誤った近代的世界観を捨て去り、その代わりに、有機的な生命世界のなかに織り込まれて存立している真 の自己のあり方に目覚め、そして生活をエコロジカルなものに改め、調和のとれた世界を実現してゆくための直接行動に立ち上がろう、というのがディープエコ ロジーの考え方である。彼らの言説のなかに、自己と世界との境界をなくすとか、暝想によって意識変容をはかるなど言葉が出てくるのは、明らかにヨガや禅などを重視するアメリカ・ニューエイジ運動からの影響である。1970年代から80年代前半に 盛り上がった、アメリカ・ニューエイジ運動のひとつの結実が、このディープエコロジーであると見ることもできる(11)。



以上の諸潮流を総合したディープエコロジー思想の最近の完成品として、T・ベリーの『地球の夢』(1988) がある(24)。ベリーは、キリスト教神秘主義の立場に立ちながらも、エコフェミニズム、ガイア仮説、ネイティヴアメリカン研究、生活地域主義などの成果 を肯定的に吸収し、自然世界のなかに偏在する「心的エネルギー」(psychic energy)と交歓できるような、霊的次元での成長の必要性を力説している。ベリーの思想は、詳しい分類をすれば「神秘主義的エコロジー」 (spiritual ecology)の分野に入るものであるが、広い意味ではディープエコロジーの成果だと考えても間違いではない。

 彼はいう。近代西洋文明以前は、人類は地球との親密な関係を維持していた。自然界すべてには「神秘的エネルギー」があまねく満ちており、宇宙は多 様な形態をとった1個のエネルギー事象であるが、古代人はそれに気づくことで創造神話を生みだし、その神話が多くの文化を生みだした。そして、諸文化のな かにみられる儀礼は、コミュニティによって必要とされるエネルギーを維持し、チャネリングするための主要な道具であった。

 ところが、近代になって状況が変化する。それまで人類が維持してきた世界把握、たとえば「自然の季節的リズム」や「心的エネルギー」などへのまな ざしが失われ、そのかわりに究極的な目的実現のための一直線的な時間観念が出現した。そして産業社会が到来した。

 しかし環境危機に直面したいま、求められているのは、「エコロジカル・プロセスの神秘的側面をもっと適切な形で表現することである」。エコロジー には、神秘的な基盤がなくてはならない。この神秘的な側面は、ユンクが言うような、グレート・マザー、マンダラ、宇宙の樹などの「元型」のなかに、最もよ く表現されている(25)。

 ベリーは、このような精神的次元での転回をなしとげるためには、新しい物語の創造が必要だという。そしてそれは、宗教的啓示に裏づけられていなけ ればならない。「我々は、伝統的な宗教なしではやっていけない。しかし、伝統的な宗教は、いまなすべきことを行なうことができない。新しいタイプの宗教的 方向付けが必要なのだ。私の考えでは、これは宇宙についての新たな物語から出てくるにちがいない。そしてこの物語は、新たな啓示的な経験を用意する。その 経験は、<進化的過程はその始めから物理的プロセスであると同時に、霊的なプロセスでもある>ということを我々が理解するやいなや、把握されうるのであ る。(26)」

 ディープエコロジーの最近の成果としては、W・フォックスの「トランスパーソナル・エコロジー」の 試みがある。

 フォックスは、著書『トランスパーソナル・エコロジー』(1990)において、ディープエコロジーをトランスパーソナル心理学と結合させようとし ている。トランスパーソナル心理学とは、A・マズロー、S・グロフ、K・ウィルバーなどによって提唱されてきた心理学であり、人間の意識の深層にまで降り てゆくと、そこでは人間たちのこころはお互いにつながっており、さらには人間以外の生命体ともつながっていると主張する。

 フォックスは、もとディープエコロジストであったが、それをさらに深めてゆくことで、「ディープエコロジー」を脱したと言う。すなわち、ディープ エコロジーは自己変革と真の「自己」の発見を強調するが、その真の自己の発見をまじめに追求してゆくと、それは「自我的で自伝的で個人的な自己」を超えざ るを得なくなる。その自己の経験は、「個人的なもの」、「存在論的なもの」、「宇宙論的なもの」へと3段階に深まってゆく。宇宙論的な自己経験とは、「我 々とすべての存在者は、自己展開してゆく唯一のリアリティのいろいろな側面にすぎない」という深い気付きに基づくものである。そこまで深まった体験をもと にしたエコロジーは、トランスパーソナル・エコロジーとよばれるべきである。自我のレベルを超えてそこまで深まることで、エコロジーは真に人間中心主義を 超えることができるのである(29)。

 フォックスは同書で、エコロジーの心理学化と、トランスパーソナル心理学のエコロジー化を同時に主張している。エコロジーと心理学との結合という 彼の試みの意図は、高く評価されるべきであると思う。この方向の可能性は将来にゆだねられている。

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ディープ・エコロジー

2017-09-25 10:52:17 | 思想、哲学、宇宙論




ディープ・エコロジー/シャロー・エコロジー[deep ecology / shallow ecology]


 「ディープ・エコロジー」とは、ノルウェーの哲学者A・ネス(Arne Naess)により提唱された環境思想の一つである。あくまで人間に役立つものとして自然を保全しようとする「シャロー・エコロジー」を乗り越え、人間の意識そして社会におけるエコロジカルな変革を促すことが目標とされている。自然界におけるあらゆる存在は全て相互依存の関係にあり、等しい内在的価値を保持しているという主張、そして人間が他の存在者の生存を侵害することに対する批判をその特徴とする。

 ネスが初めてディープ・エコロジーの定義づけを行ったのは、1973年の「シャロー・エコロジー運動と長期的視野を持つディープ・エコロジー運動」と題された論文においてである。そこでは当時主流であった、環境汚染や天然資源の枯渇に対する懸念に動機づけられた環境運動は、結局は人間社会(特に先進諸国)に価値をおいたものであり、よって「浅い(shallow)」ものとして批判される。一方でネスが唱える環境思想は、自然界に存在する全てのものに対する見方を根本的に問い直し、その作業を通じて必ずしも人間の利益に供するものではない新たな価値観を構築することを求めており、その点において「深い(deep)」ものと考えられている。

 ディープ・エコロジーの主張としてはじめに挙げられるのが、生態系におけるあらゆる存在が持つ固有の内在的価値である。シャロー・エコロジー的な観点においては、人間にとって有意義かどうかが存在の価値を決める基準とされているが、ディープ・エコロジーは生態系の構成員全てが「生き栄えるという等しく与えられた権利」を持つとする(ネス[2001] 33)。ゆえにそれらの存在者は平等に扱われるべきであり、不当にその生存を侵されてはならない。こうした概念をネスは「生態圏平等主義(biospherical egalitarianism)」と呼ぶ。これは従来の人間中心主義的な環境思想を自然中心主義的なものへと転換することを促すものである。ただネスはあらゆる殺生を禁じているわけではなく、「生き物は自らの生命維持のため、いくらかの殺害、搾取、抑圧を必要とする」(ネス[2001] 32)と述べている。

 さらにネスがディープ・エコロジーにおける重要な概念として提示するものとしては、生態系に関する「全体論的な(holistic)」見方がある。それによると、ある環境にそれぞれの存在が関わりを持つことなく独立して存在しているという「原子論的モデル」は、生態系のあり方を正確に示しているとはいえない。むしろそれらは網の目状に相互に関係しており、ゆえに「個々の生命はその関係の網の結び目にあたる」という考えこそが、ディープ・エコロジーの志向する世界観である(ネス[2001] 32)。この見方によれば、生態圏はそこに存在する有機的生物だけでなく、それらを取り巻く無機物の環境も含めた全体によって構成されているものとなる。よってその場から離れた存在者は、その性質そのものを変化させてしまうのであり、常に恒常的な状態にはあるわけではないと言える。

 1989年にネスはそれまでの自身の論考をまとめた『ディープ・エコロジーとは何か』を出版した。そこで中心に論じられているのが、ディープ・エコロジーにおける第三の主要な要素である「自己実現(Self-realization)」論である。ネスにとって自己は単独で存在するものでなく、常に生態系における他との相互依存の関係にある。それゆえに必然的に自己の範囲は「ますます多くのものを含む」ように拡大し、他のものとの「一体化(identification)の過程」を経て、最後には個々の「自己(self)」が全体的な「自己(Self)」へと成長するとネスは述べる(ネス[1997] 92)。よって人間の繁栄、すなわち自己実現は、他の存在の利益を侵害するのではなく、むしろそれを増加させるものとなる。なぜなら「自己の拡張を通じて、私たち自身にとっての最善がまた他の存在にとっての最善にもなっている」からである(ネス[1997] 279)。ネスによれば、こうした環境に対する共生の思考は個々人がそれぞれ発展させるべきものであり、そうして出来上がった「生態圏内の生命の状況に啓発された哲学的世界観あるいは体系」を彼は「エコソフィ(ecosophy)」と呼ぶ(ネス[1997] 63)。

 ディープ・エコロジーは幅広い思想的背景から生み出されてきたと言える。ネスが頻繁に触れるのはB・スピノザ(Baruch de Spinoza)やM・K・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)であるが、他にも I・カント(Immanuel Kant)などの西洋哲学、禅などの東洋思想、そしてアニミズムへの言及も見られる。他の環境思想との共通性としては、A・レオポルド(Aldo Leopold)の「土地倫理(land ethic)」やJ・ラヴロック(James Lovelock)の「ガイア理論(the Gaia hypothesis)」との類似性が挙げられる。さらにネスの思想は、アメリカを中心とした環境思想家達に多大な影響を与えた。特にB・ディヴォール(Bill Devall)、G・セッションズ(George Sessions)、ネスの著書の英訳者であるD・ローゼンバーグ(David Rothenberg)、そしてF・カプラ(Fritjof Capra)らの名を挙げることができる。なかでもセッションズは、1985年に「プラットフォーム原則」と呼ばれるディープ・エコロジー運動における基本的な行動基準をネスと共に発表している(ネス、セッションズ 75-82)。

 ディープ・エコロジーの思想については、これまでに多くの批判がなされている。それは例えば、自然を単純に良きものとみなす、またはそれを過度に神秘化する傾向に対するものや、全体主義的な要素(特にネスとセッションズにより提案された人口減少の必要性)に関する懸念などが挙げられる。なかでもM・ブクチン(Murray Bookchin)らのソーシャル・エコロジーは、ディープ・エコロジーにおいては社会的な要素、すなわち環境破壊を悪化させている元凶である政治・経済的な搾取の構造に対する考察が欠けていることを指摘している。またエコフェミニズムの側からは、ディープ・エコロジーにおける拡大された自己の概念が中性化されており、女性の抑圧が忘却されていることに対する批判が見られる。しかしながらこれらの思想にはディープ・エコロジーと共通する点も多い。よってこうした批判はディープ・エコロジーを否定するものというよりは、それを再考し補完していく契機として捉えられるべきものと思われる。

(巴山岳人)



参考文献

・フリチョフ・カプラ、アーネスト・カレンバック『ディープ・エコロジー考―持続可能な未来に向けて―』靍田栄作訳(佼成出版社、1995)

・アラン・ドレングソン、井上有一共編『ディープ・エコロジー―生き方から考える環境の思想』井上有一監訳(昭和堂、2001[原著:1995])

・アルネ・ネス「シャロー・エコロジー運動と長期的視野を持つディープ・エコロジー運動」ドレングソン、井上 31-41.

---. 『ディープ・エコロジーとは何か―エコロジー・共同体・ライフスタイル』斎藤直輔、開龍美訳(文化書房博文社、1997[原著:1989])

・アルネ・ネス、ジョージ・セッションズ「ディープ・エコロジー運動のプラットフォーム原則」ドレングソン、井上 75-82.

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命が「わたし」している

2017-09-23 10:58:06 | 思想、哲学、宇宙論

http://newstyle.link/category44/entry596.html






命が「わたし」しているということ



について、解説していきます。





世間一般では、自分が生きていることを、



「私は生きている」という言い方をすると

思います。





ですが、トランスパーソナル心理学では、



命が「わたし」しているという



言い方をします。





これは、どういうことかと言いますと、



この世界全体に、命という大きな



エネルギーの大海が存在し、



その命が無数に分かれて、

我々人間の形をとって、



生きているという考え方なのです。





したがいまして、



私が生きているのではなく、



命が、私を演じているので、



命が「わたし」しているという



言い方をするのです。





実際のところ、私達がそれぞれ

個別に生きているという考え方は、



正しくありません。





非常に大きな、



宇宙大の命のエネルギーが、



私という形をとって、

役割を演じているというのが、



実際の姿なのです。





ですので、自分の命なんて

小さな考え方はやめるようにしてください。





あなたの命ではないのです。



あなたは、命という巨大なエネルギーの



一部なのです。





このような考え方からしますと、



自らの命を絶つ行為は、

非常に大きな罪であることが

分かると思います。





あなたの命ではないのです。



宇宙から与えられた人生であり、

借り物ですので、



自らの命を絶ってしまうと、



他者の命を奪ったのと同じくらい



大きなカルマを積んでしまいます。





そして、莫大な徳を失い、



天界に入ることはできずに、



長い間、地界をさまよい続けないと



いけなくなるのです。





人生を送る上では、

自分が生きていると考えるのではなく、



命が自分を通して、



生活を演じていると考えてください。





あなたは、分割された個体

ではないのです。




命という巨大なエネルギーが



生み出すオーケストラの一部なのです。





そして、オーケストラの一部として



活動するには、



自分の心に自然と浮かび上がる感覚に

素直に従っていくといいのです。





自分の感覚に素直に従って、



行動してください。



直感を信じて行動してください。





それこそが、オーケストラの一部として、



神々が奏でる素晴らしい音楽を



完成させる行動であり、



あなたに至福と安心をもたらす

生き方なのです。









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レーザーと高次元空間

2017-09-22 10:49:41 | 思想、哲学、宇宙論
音楽体験から高次元空間はコヒーレントな波のエネルギーの世界であることが

わかりましたが、どうして波がコヒーレントになるのかを

レーザー光線をヒントに考えてみました。

レーザー光線は、対向した鏡に繰り返し反射させることで波長と位相を揃えています。

もし高次元の空間そのものに鏡のような性質があれば、

同じように波長と位相が揃うのではないでしょうか。

高次元では発生したものがフィードバックされ、

揃った波になって広がるのかもしれません。
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