エラン・ヴィタール 人間とは何者か?(前編)
http://www.hiroshitasaka.jp/kotoba/library_file/02_TM0185.html
――生命体としての宇宙
「宇宙論」の光
画家ゴーギャンの言葉であっただろうか。
「我々はどこから来たのか?我々はどこに行くのか?我々は何者か?」
人として生まれ、つかのまの生を駆け抜ける我々が、一度は心に浮かべる「問い」である。
古来、多くの宗教が、この「問い」に答えを与えようとしてきた。そして、二十一世紀を迎えんとする、いま、科学がこの「問い」に答えを与えようとしている。
この「問い」に、科学は二つの方向から光を当てようとしている。
「宇宙論」そして「生命論」。それが二つの光である。今回は、このうち「宇宙論」の光を当ててみよう。
「我々の住むこの宇宙は、どうして生まれたのか?」
この「問い」は、「我々はどこから来たのか?」という「宗教者の問い」に誘われて生まれてくる、「科学者の問い」である。そして、この「科学者の問い」に対する、一つの「答え」が、「ビッグ・バン」である。
「ビッグ・バン」。一六〇億年前、この宇宙は、突如、すさまじい大爆発とともに生成したという、アメリカの科学者ジョージ・ガモフが提唱した仮説である。このビッグ・バン仮説は、近年、マサチューセッツ工科大学のアラン・グースらの提唱する「インフレーション宇宙論」へと発展している。
インフレーション宇宙論によれば、この宇宙は「真空のゆらぎ」から突如生成したとされる。「真空のゆらぎ」とは我々の日常感覚では理解できない概念だが、現代物理学では「真空」の状態の中にも膨大なエネルギーが眠っていると考えている。そして、この「真空」が"揺らぐ" ことによって、膨大な潜在エネルギーから、突如、この「宇宙」が生成してきたというのである。
「真空」の中から、壮大かつ多様な森羅万象を含むこの「宇宙」が生まれてきた。
現代物理学は、そう我々に教えるのだ。
こうした現代科学の教えは、不思議なほど「色即是空空即是色」という言葉に通じる響きを持っている。
なぜなのだろうか?
「時間(とき)」のはじまり
この「ビッグ・バン仮説」や「インフレーション宇宙論」を聞くと、我々の心の中には必ず、次の「問い」が浮かぶ。
「では、その"ビッグ・バン" の前には何があったのか?」
この「問い」は、素朴かつ自然な「問い」である。しかし、現代宇宙論においては、この「問い」は意味を持たない。
なぜならば、我々が生きている「世界」、この「時間(とき)」、この「空間(ところ)」は、「宇宙」の生成とともに生まれたからである。久遠の過去から「時間」と「空間」が存在し、その"器"の中で「宇宙」が生成したのではない。このことも、現代物理学が教えるところである。
「時間(とき)」には"はじまり"がある。そして、その"はじまり"の前には、何も無かった。そこにはただ「空」があったのみである。その「空」の"一点"から突如、この「時間」も「空間」も、「宇宙」も「世界」も"すべて"が生まれてきたのである。その"すべて"とは、いま、「年齢」において「一六〇億年」の宇宙、「広さ」において、「数百億光年」の大きさの宇宙なのである。
「一六〇億年」とは、どれほどの時の流れなのだろうか。これをイメージするために、一つの比喩をあげてみよう。
いま、宇宙の誕生が一六〇億年前、地球の誕生が四六億年前、人類の誕生が二〇〇万年前、歴史の誕生が五〇〇〇年前とする。これら四つの時間、「宇宙の誕生」「地球の誕生」「人類の誕生」「歴史の誕生」を、我々の生活する一年におきかえてみよう。
一月一日の午前零時に宇宙が誕生し、現在が、十二月三十一日の除夜であると考えるのである。この場合、まず一〇〇日を経た四月十日頃に地球が誕生する。しかし、人類が誕生したのは十二月三十一日の深夜十一時頃であり、歴史の誕生は除夜の直前十秒前である。
我々"人類"という存在は、宇宙の悠久の時の流れの中で、わずかこれほどの時間しか存在していないのである。
では、宇宙の大きさはどれほどか。現代宇宙論によれば、この宇宙はビッグ・バンの直後に光の速さで膨張をはじめ、いまもなお膨張を続けているのである。従って、この宇宙を隅から隅まで光の速さで走ってもやはり数百億年かかるのである。そして、この宇宙の中には、文字通り無数の「星」が存在している。
イメージしてみよう。まず、我々の住む太陽系。この太陽系は、これを光速で横断するのに十一時間かかるほどの大きさである。このような恒星系が数千億集まって「銀河系宇宙」を構成している。これが晴れた夜に見える「天の川」である。そして、この銀河系宇宙が、さらに数千億集まって「超銀河団」を形成しているのである。
この「数」は、すでに我々のイメージの限界を超えている。「三千大千世界」。この仏教の言葉は、この宇宙のイメージを語っているのであろうか。
「真空」の一点から生まれた「宇宙」の大きさとは、これほどのものなのである。そして、この「宇宙」の "すべて"が「真空」の"一点"から生まれてきたとするならば、まさに「これを握れば"一点"となり、これを開けば"無窮"となる」という言葉が深い響きを持って我々の心に迫ってくる。
無数に生まれる「宇宙」という泡
現代物理学が教える、この壮大な「宇宙」のイメージ、「時間」と「空間」の広がりのイメージは、科学的なイメージであることを超え、むしろ宗教的な感覚をこそ我々の心に生み出していく。
ある意味では、現代の先端科学こそが「世界の深淵」を垣間見せ、宗教的イメージを喚起する「場」を我々に与えてくれている。
もう一つの「深淵」をのぞいてみよう。
インフレーション宇宙論によれば、我々の住むこうした「宇宙」は、「真空のゆらぎ」の中から"泡"の如く無数に生まれているという。
そして、それらの「宇宙」のうち、ほとんどは生成した直後に消滅していく。重力の大きさや光の速度などの「宇宙定数」と呼ばれるものの値が、長期的に存在することができない値の組み合わせとなっているからだ。こうして生まれたばかりの「宇宙の卵」は、そのほとんどがまもなく潰れてしまう。
まさに、生まれては消え、生まれてははかなく消える"泡"のごとき存在としての「宇宙」。
じつに、それこそが、現代宇宙論が描く、「三千大千世界」のイメージである。
しかし、これらの"泡" のうち、いくつかの"泡"は比較的永く存在していく。「宇宙定数」が長期生存に適した値となっているのだ。
その"祝福された泡"は、大きく成長を続けていく。
そして、一〇〇億年を超える悠久の時の流れとともに、その胎内に、銀河を生み出し、太陽を、惑星を、そして我々の住むこの「地球」を生み出していく。
「空」の中から"ゆらぎ" を通じて、突如、無数の「宇宙」が生まれる。それらのうち最も"祝福された定数" を与えられた「宇宙」が生存し、成長を遂げていく。
「適者生存」のルールによって淘汰を受ける「宇宙」と生き残る「宇宙」。そして、生き残った「宇宙」は一〇〇億年を超える時の流れの中で「進化」を遂げていく。
あたかも、突然変異によって発生した生物が、「適者生存の原理」によって淘汰され、優れた種が進化を遂げていく「生命世界」のごとく、我々の住むこの「宇宙」も、こうした原理によって存在しているのだろうか。
そうであるならば、我々の住むこの「宇宙」もまた、一つの「生命体」なのだろうか。
生物の自然淘汰による進化の原理を、提唱者ダーウィンの名前に因んで、「ダーウィニズム」と呼ぶ。この言葉に模して命名するならば、「宇宙ダーウィニズム」。
それが我々の住む「宇宙」を支配する原理なのだろうか。
「祝福された宇宙」に住む人類
「ロンドンの霧は、それを詩人が詩に歌うまでは、存在しなかった」
有名な英国詩人の述べた、この言葉を模するならば、次のように言えるかも知れない。
「宇宙は、それを人類が認識するまでは、存在しなかった」
こうした思想にもとづく宇宙論を提唱しているのが、"車椅子の科学者"として有名なスティーブン・ホーキングらである。
「人間原理宇宙論」と呼ばれるこの思想は要約すれば、次のような考えを述べている。
――この宇宙が、その存続に最適な「宇宙定数」を有していることは驚くにあたらない。逆に、数多くの宇宙が生まれてはすぐに消えていくなかで、たまたまこの「宇宙」が最適な「宇宙定数」を備えていたからこそ、一六〇億年にわたって存在し、かつ、そのなかで「物質の進化」と「生命の進化」を遂げてくることができたのである。
そして、その「生命の進化」の果てに、ついに、この「宇宙」は「人類」を生み出した。だからこそ、我々「人類」が、この「宇宙」を観測し、そこに最適の「宇宙定数」によって構成された「祝福された宇宙」を発見したとしても、決して不思議ではない。この「宇宙」が「祝福された宇宙」であるからこそ、我々「人類」を生み出すことができたのだ。すなわち、この「宇宙」は、我々「人類」を生み出すためにこそ「誕生」し、「進化」してきたのである――
この「人間原理宇宙論」の思想は、「歴史とは絶対精神の自己認識過程である」と述べたドイツの哲学者ヘーゲルの歴史観を彷彿とさせる。
この「宇宙」は、「空」の中から誕生し、一六〇億年という歳月を費やして「物質進化」と「生命進化」を遂げ、その果てに、ついに「人類」を生み出した。この「人類」の誕生によって、はじめて「宇宙」は、自分自身を見つめ、自分自身を理解する「精神」を生み出したのである。
そして、この人類の「精神」の誕生によって、はじめて「宇宙」は、真に"存在する"ことになったといえるのである。
もし、そうであるならば……
この悠久の「宇宙」の歴史とは、はたして「宇宙」が「人類」を生み出すことによって"自分自身を知る"ための、長い長い"旅路"であったのであろうか。
そして、もし、そうであるならば……
この"旅路"の彼方には、何が待っているのだろうか。
http://www.hiroshitasaka.jp/kotoba/library_file/02_TM0185.html
――生命体としての宇宙
「宇宙論」の光
画家ゴーギャンの言葉であっただろうか。
「我々はどこから来たのか?我々はどこに行くのか?我々は何者か?」
人として生まれ、つかのまの生を駆け抜ける我々が、一度は心に浮かべる「問い」である。
古来、多くの宗教が、この「問い」に答えを与えようとしてきた。そして、二十一世紀を迎えんとする、いま、科学がこの「問い」に答えを与えようとしている。
この「問い」に、科学は二つの方向から光を当てようとしている。
「宇宙論」そして「生命論」。それが二つの光である。今回は、このうち「宇宙論」の光を当ててみよう。
「我々の住むこの宇宙は、どうして生まれたのか?」
この「問い」は、「我々はどこから来たのか?」という「宗教者の問い」に誘われて生まれてくる、「科学者の問い」である。そして、この「科学者の問い」に対する、一つの「答え」が、「ビッグ・バン」である。
「ビッグ・バン」。一六〇億年前、この宇宙は、突如、すさまじい大爆発とともに生成したという、アメリカの科学者ジョージ・ガモフが提唱した仮説である。このビッグ・バン仮説は、近年、マサチューセッツ工科大学のアラン・グースらの提唱する「インフレーション宇宙論」へと発展している。
インフレーション宇宙論によれば、この宇宙は「真空のゆらぎ」から突如生成したとされる。「真空のゆらぎ」とは我々の日常感覚では理解できない概念だが、現代物理学では「真空」の状態の中にも膨大なエネルギーが眠っていると考えている。そして、この「真空」が"揺らぐ" ことによって、膨大な潜在エネルギーから、突如、この「宇宙」が生成してきたというのである。
「真空」の中から、壮大かつ多様な森羅万象を含むこの「宇宙」が生まれてきた。
現代物理学は、そう我々に教えるのだ。
こうした現代科学の教えは、不思議なほど「色即是空空即是色」という言葉に通じる響きを持っている。
なぜなのだろうか?
「時間(とき)」のはじまり
この「ビッグ・バン仮説」や「インフレーション宇宙論」を聞くと、我々の心の中には必ず、次の「問い」が浮かぶ。
「では、その"ビッグ・バン" の前には何があったのか?」
この「問い」は、素朴かつ自然な「問い」である。しかし、現代宇宙論においては、この「問い」は意味を持たない。
なぜならば、我々が生きている「世界」、この「時間(とき)」、この「空間(ところ)」は、「宇宙」の生成とともに生まれたからである。久遠の過去から「時間」と「空間」が存在し、その"器"の中で「宇宙」が生成したのではない。このことも、現代物理学が教えるところである。
「時間(とき)」には"はじまり"がある。そして、その"はじまり"の前には、何も無かった。そこにはただ「空」があったのみである。その「空」の"一点"から突如、この「時間」も「空間」も、「宇宙」も「世界」も"すべて"が生まれてきたのである。その"すべて"とは、いま、「年齢」において「一六〇億年」の宇宙、「広さ」において、「数百億光年」の大きさの宇宙なのである。
「一六〇億年」とは、どれほどの時の流れなのだろうか。これをイメージするために、一つの比喩をあげてみよう。
いま、宇宙の誕生が一六〇億年前、地球の誕生が四六億年前、人類の誕生が二〇〇万年前、歴史の誕生が五〇〇〇年前とする。これら四つの時間、「宇宙の誕生」「地球の誕生」「人類の誕生」「歴史の誕生」を、我々の生活する一年におきかえてみよう。
一月一日の午前零時に宇宙が誕生し、現在が、十二月三十一日の除夜であると考えるのである。この場合、まず一〇〇日を経た四月十日頃に地球が誕生する。しかし、人類が誕生したのは十二月三十一日の深夜十一時頃であり、歴史の誕生は除夜の直前十秒前である。
我々"人類"という存在は、宇宙の悠久の時の流れの中で、わずかこれほどの時間しか存在していないのである。
では、宇宙の大きさはどれほどか。現代宇宙論によれば、この宇宙はビッグ・バンの直後に光の速さで膨張をはじめ、いまもなお膨張を続けているのである。従って、この宇宙を隅から隅まで光の速さで走ってもやはり数百億年かかるのである。そして、この宇宙の中には、文字通り無数の「星」が存在している。
イメージしてみよう。まず、我々の住む太陽系。この太陽系は、これを光速で横断するのに十一時間かかるほどの大きさである。このような恒星系が数千億集まって「銀河系宇宙」を構成している。これが晴れた夜に見える「天の川」である。そして、この銀河系宇宙が、さらに数千億集まって「超銀河団」を形成しているのである。
この「数」は、すでに我々のイメージの限界を超えている。「三千大千世界」。この仏教の言葉は、この宇宙のイメージを語っているのであろうか。
「真空」の一点から生まれた「宇宙」の大きさとは、これほどのものなのである。そして、この「宇宙」の "すべて"が「真空」の"一点"から生まれてきたとするならば、まさに「これを握れば"一点"となり、これを開けば"無窮"となる」という言葉が深い響きを持って我々の心に迫ってくる。
無数に生まれる「宇宙」という泡
現代物理学が教える、この壮大な「宇宙」のイメージ、「時間」と「空間」の広がりのイメージは、科学的なイメージであることを超え、むしろ宗教的な感覚をこそ我々の心に生み出していく。
ある意味では、現代の先端科学こそが「世界の深淵」を垣間見せ、宗教的イメージを喚起する「場」を我々に与えてくれている。
もう一つの「深淵」をのぞいてみよう。
インフレーション宇宙論によれば、我々の住むこうした「宇宙」は、「真空のゆらぎ」の中から"泡"の如く無数に生まれているという。
そして、それらの「宇宙」のうち、ほとんどは生成した直後に消滅していく。重力の大きさや光の速度などの「宇宙定数」と呼ばれるものの値が、長期的に存在することができない値の組み合わせとなっているからだ。こうして生まれたばかりの「宇宙の卵」は、そのほとんどがまもなく潰れてしまう。
まさに、生まれては消え、生まれてははかなく消える"泡"のごとき存在としての「宇宙」。
じつに、それこそが、現代宇宙論が描く、「三千大千世界」のイメージである。
しかし、これらの"泡" のうち、いくつかの"泡"は比較的永く存在していく。「宇宙定数」が長期生存に適した値となっているのだ。
その"祝福された泡"は、大きく成長を続けていく。
そして、一〇〇億年を超える悠久の時の流れとともに、その胎内に、銀河を生み出し、太陽を、惑星を、そして我々の住むこの「地球」を生み出していく。
「空」の中から"ゆらぎ" を通じて、突如、無数の「宇宙」が生まれる。それらのうち最も"祝福された定数" を与えられた「宇宙」が生存し、成長を遂げていく。
「適者生存」のルールによって淘汰を受ける「宇宙」と生き残る「宇宙」。そして、生き残った「宇宙」は一〇〇億年を超える時の流れの中で「進化」を遂げていく。
あたかも、突然変異によって発生した生物が、「適者生存の原理」によって淘汰され、優れた種が進化を遂げていく「生命世界」のごとく、我々の住むこの「宇宙」も、こうした原理によって存在しているのだろうか。
そうであるならば、我々の住むこの「宇宙」もまた、一つの「生命体」なのだろうか。
生物の自然淘汰による進化の原理を、提唱者ダーウィンの名前に因んで、「ダーウィニズム」と呼ぶ。この言葉に模して命名するならば、「宇宙ダーウィニズム」。
それが我々の住む「宇宙」を支配する原理なのだろうか。
「祝福された宇宙」に住む人類
「ロンドンの霧は、それを詩人が詩に歌うまでは、存在しなかった」
有名な英国詩人の述べた、この言葉を模するならば、次のように言えるかも知れない。
「宇宙は、それを人類が認識するまでは、存在しなかった」
こうした思想にもとづく宇宙論を提唱しているのが、"車椅子の科学者"として有名なスティーブン・ホーキングらである。
「人間原理宇宙論」と呼ばれるこの思想は要約すれば、次のような考えを述べている。
――この宇宙が、その存続に最適な「宇宙定数」を有していることは驚くにあたらない。逆に、数多くの宇宙が生まれてはすぐに消えていくなかで、たまたまこの「宇宙」が最適な「宇宙定数」を備えていたからこそ、一六〇億年にわたって存在し、かつ、そのなかで「物質の進化」と「生命の進化」を遂げてくることができたのである。
そして、その「生命の進化」の果てに、ついに、この「宇宙」は「人類」を生み出した。だからこそ、我々「人類」が、この「宇宙」を観測し、そこに最適の「宇宙定数」によって構成された「祝福された宇宙」を発見したとしても、決して不思議ではない。この「宇宙」が「祝福された宇宙」であるからこそ、我々「人類」を生み出すことができたのだ。すなわち、この「宇宙」は、我々「人類」を生み出すためにこそ「誕生」し、「進化」してきたのである――
この「人間原理宇宙論」の思想は、「歴史とは絶対精神の自己認識過程である」と述べたドイツの哲学者ヘーゲルの歴史観を彷彿とさせる。
この「宇宙」は、「空」の中から誕生し、一六〇億年という歳月を費やして「物質進化」と「生命進化」を遂げ、その果てに、ついに「人類」を生み出した。この「人類」の誕生によって、はじめて「宇宙」は、自分自身を見つめ、自分自身を理解する「精神」を生み出したのである。
そして、この人類の「精神」の誕生によって、はじめて「宇宙」は、真に"存在する"ことになったといえるのである。
もし、そうであるならば……
この悠久の「宇宙」の歴史とは、はたして「宇宙」が「人類」を生み出すことによって"自分自身を知る"ための、長い長い"旅路"であったのであろうか。
そして、もし、そうであるならば……
この"旅路"の彼方には、何が待っているのだろうか。