思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

エラン・ヴィタール 人間とは何者か?(前編)

2013-04-28 15:58:21 | Weblog
エラン・ヴィタール 人間とは何者か?(前編)


http://www.hiroshitasaka.jp/kotoba/library_file/02_TM0185.html


――生命体としての宇宙




「宇宙論」の光



画家ゴーギャンの言葉であっただろうか。

「我々はどこから来たのか?我々はどこに行くのか?我々は何者か?」

人として生まれ、つかのまの生を駆け抜ける我々が、一度は心に浮かべる「問い」である。

古来、多くの宗教が、この「問い」に答えを与えようとしてきた。そして、二十一世紀を迎えんとする、いま、科学がこの「問い」に答えを与えようとしている。

この「問い」に、科学は二つの方向から光を当てようとしている。

「宇宙論」そして「生命論」。それが二つの光である。今回は、このうち「宇宙論」の光を当ててみよう。

「我々の住むこの宇宙は、どうして生まれたのか?」

この「問い」は、「我々はどこから来たのか?」という「宗教者の問い」に誘われて生まれてくる、「科学者の問い」である。そして、この「科学者の問い」に対する、一つの「答え」が、「ビッグ・バン」である。

「ビッグ・バン」。一六〇億年前、この宇宙は、突如、すさまじい大爆発とともに生成したという、アメリカの科学者ジョージ・ガモフが提唱した仮説である。このビッグ・バン仮説は、近年、マサチューセッツ工科大学のアラン・グースらの提唱する「インフレーション宇宙論」へと発展している。

インフレーション宇宙論によれば、この宇宙は「真空のゆらぎ」から突如生成したとされる。「真空のゆらぎ」とは我々の日常感覚では理解できない概念だが、現代物理学では「真空」の状態の中にも膨大なエネルギーが眠っていると考えている。そして、この「真空」が"揺らぐ" ことによって、膨大な潜在エネルギーから、突如、この「宇宙」が生成してきたというのである。

「真空」の中から、壮大かつ多様な森羅万象を含むこの「宇宙」が生まれてきた。

現代物理学は、そう我々に教えるのだ。

こうした現代科学の教えは、不思議なほど「色即是空空即是色」という言葉に通じる響きを持っている。

なぜなのだろうか?



「時間(とき)」のはじまり




この「ビッグ・バン仮説」や「インフレーション宇宙論」を聞くと、我々の心の中には必ず、次の「問い」が浮かぶ。

「では、その"ビッグ・バン" の前には何があったのか?」

この「問い」は、素朴かつ自然な「問い」である。しかし、現代宇宙論においては、この「問い」は意味を持たない。

なぜならば、我々が生きている「世界」、この「時間(とき)」、この「空間(ところ)」は、「宇宙」の生成とともに生まれたからである。久遠の過去から「時間」と「空間」が存在し、その"器"の中で「宇宙」が生成したのではない。このことも、現代物理学が教えるところである。

「時間(とき)」には"はじまり"がある。そして、その"はじまり"の前には、何も無かった。そこにはただ「空」があったのみである。その「空」の"一点"から突如、この「時間」も「空間」も、「宇宙」も「世界」も"すべて"が生まれてきたのである。その"すべて"とは、いま、「年齢」において「一六〇億年」の宇宙、「広さ」において、「数百億光年」の大きさの宇宙なのである。

「一六〇億年」とは、どれほどの時の流れなのだろうか。これをイメージするために、一つの比喩をあげてみよう。

いま、宇宙の誕生が一六〇億年前、地球の誕生が四六億年前、人類の誕生が二〇〇万年前、歴史の誕生が五〇〇〇年前とする。これら四つの時間、「宇宙の誕生」「地球の誕生」「人類の誕生」「歴史の誕生」を、我々の生活する一年におきかえてみよう。

一月一日の午前零時に宇宙が誕生し、現在が、十二月三十一日の除夜であると考えるのである。この場合、まず一〇〇日を経た四月十日頃に地球が誕生する。しかし、人類が誕生したのは十二月三十一日の深夜十一時頃であり、歴史の誕生は除夜の直前十秒前である。

我々"人類"という存在は、宇宙の悠久の時の流れの中で、わずかこれほどの時間しか存在していないのである。

では、宇宙の大きさはどれほどか。現代宇宙論によれば、この宇宙はビッグ・バンの直後に光の速さで膨張をはじめ、いまもなお膨張を続けているのである。従って、この宇宙を隅から隅まで光の速さで走ってもやはり数百億年かかるのである。そして、この宇宙の中には、文字通り無数の「星」が存在している。

イメージしてみよう。まず、我々の住む太陽系。この太陽系は、これを光速で横断するのに十一時間かかるほどの大きさである。このような恒星系が数千億集まって「銀河系宇宙」を構成している。これが晴れた夜に見える「天の川」である。そして、この銀河系宇宙が、さらに数千億集まって「超銀河団」を形成しているのである。

この「数」は、すでに我々のイメージの限界を超えている。「三千大千世界」。この仏教の言葉は、この宇宙のイメージを語っているのであろうか。

「真空」の一点から生まれた「宇宙」の大きさとは、これほどのものなのである。そして、この「宇宙」の "すべて"が「真空」の"一点"から生まれてきたとするならば、まさに「これを握れば"一点"となり、これを開けば"無窮"となる」という言葉が深い響きを持って我々の心に迫ってくる。



無数に生まれる「宇宙」という泡




現代物理学が教える、この壮大な「宇宙」のイメージ、「時間」と「空間」の広がりのイメージは、科学的なイメージであることを超え、むしろ宗教的な感覚をこそ我々の心に生み出していく。

ある意味では、現代の先端科学こそが「世界の深淵」を垣間見せ、宗教的イメージを喚起する「場」を我々に与えてくれている。

もう一つの「深淵」をのぞいてみよう。

インフレーション宇宙論によれば、我々の住むこうした「宇宙」は、「真空のゆらぎ」の中から"泡"の如く無数に生まれているという。

そして、それらの「宇宙」のうち、ほとんどは生成した直後に消滅していく。重力の大きさや光の速度などの「宇宙定数」と呼ばれるものの値が、長期的に存在することができない値の組み合わせとなっているからだ。こうして生まれたばかりの「宇宙の卵」は、そのほとんどがまもなく潰れてしまう。

まさに、生まれては消え、生まれてははかなく消える"泡"のごとき存在としての「宇宙」。

じつに、それこそが、現代宇宙論が描く、「三千大千世界」のイメージである。

しかし、これらの"泡" のうち、いくつかの"泡"は比較的永く存在していく。「宇宙定数」が長期生存に適した値となっているのだ。

その"祝福された泡"は、大きく成長を続けていく。

そして、一〇〇億年を超える悠久の時の流れとともに、その胎内に、銀河を生み出し、太陽を、惑星を、そして我々の住むこの「地球」を生み出していく。

「空」の中から"ゆらぎ" を通じて、突如、無数の「宇宙」が生まれる。それらのうち最も"祝福された定数" を与えられた「宇宙」が生存し、成長を遂げていく。

「適者生存」のルールによって淘汰を受ける「宇宙」と生き残る「宇宙」。そして、生き残った「宇宙」は一〇〇億年を超える時の流れの中で「進化」を遂げていく。

あたかも、突然変異によって発生した生物が、「適者生存の原理」によって淘汰され、優れた種が進化を遂げていく「生命世界」のごとく、我々の住むこの「宇宙」も、こうした原理によって存在しているのだろうか。

そうであるならば、我々の住むこの「宇宙」もまた、一つの「生命体」なのだろうか。

生物の自然淘汰による進化の原理を、提唱者ダーウィンの名前に因んで、「ダーウィニズム」と呼ぶ。この言葉に模して命名するならば、「宇宙ダーウィニズム」。

それが我々の住む「宇宙」を支配する原理なのだろうか。



「祝福された宇宙」に住む人類




「ロンドンの霧は、それを詩人が詩に歌うまでは、存在しなかった」

有名な英国詩人の述べた、この言葉を模するならば、次のように言えるかも知れない。

「宇宙は、それを人類が認識するまでは、存在しなかった」

こうした思想にもとづく宇宙論を提唱しているのが、"車椅子の科学者"として有名なスティーブン・ホーキングらである。

「人間原理宇宙論」と呼ばれるこの思想は要約すれば、次のような考えを述べている。


――この宇宙が、その存続に最適な「宇宙定数」を有していることは驚くにあたらない。逆に、数多くの宇宙が生まれてはすぐに消えていくなかで、たまたまこの「宇宙」が最適な「宇宙定数」を備えていたからこそ、一六〇億年にわたって存在し、かつ、そのなかで「物質の進化」と「生命の進化」を遂げてくることができたのである。

そして、その「生命の進化」の果てに、ついに、この「宇宙」は「人類」を生み出した。だからこそ、我々「人類」が、この「宇宙」を観測し、そこに最適の「宇宙定数」によって構成された「祝福された宇宙」を発見したとしても、決して不思議ではない。この「宇宙」が「祝福された宇宙」であるからこそ、我々「人類」を生み出すことができたのだ。すなわち、この「宇宙」は、我々「人類」を生み出すためにこそ「誕生」し、「進化」してきたのである――


この「人間原理宇宙論」の思想は、「歴史とは絶対精神の自己認識過程である」と述べたドイツの哲学者ヘーゲルの歴史観を彷彿とさせる。

この「宇宙」は、「空」の中から誕生し、一六〇億年という歳月を費やして「物質進化」と「生命進化」を遂げ、その果てに、ついに「人類」を生み出した。この「人類」の誕生によって、はじめて「宇宙」は、自分自身を見つめ、自分自身を理解する「精神」を生み出したのである。

そして、この人類の「精神」の誕生によって、はじめて「宇宙」は、真に"存在する"ことになったといえるのである。

もし、そうであるならば……

この悠久の「宇宙」の歴史とは、はたして「宇宙」が「人類」を生み出すことによって"自分自身を知る"ための、長い長い"旅路"であったのであろうか。

そして、もし、そうであるならば……

この"旅路"の彼方には、何が待っているのだろうか。


 





 




エントロピーとこころ

2013-04-20 17:35:06 | Weblog
音楽の音質が良いほど、こころは快感と意味を感じる存在である。

音質が良いとは、言い換えればエントロピーが低いということである。

人間の心はエントロピー増大則に反して、エントロピーの低いものを好む存在である。

心というものは物質世界以外の法則に従っているといえるだろう。

おそらく心は高次元世界に属している。

高次元世界では粒子性より波動性が高いため、個々はつながりやすくエントロピーは増加しない。

むしろ高次元世界では秩序や構造を生み出す方向へ、物事は進んでいくだろう。

こころも高次元世界の法則に従って、より複雑な構造や秩序を、内部に作り出していくと考えられる。

生命も単なる物質の集まりではなく、ミクロレベルでは、目に見えない高次元世界の影響下にあるのではないだろうか。

そのためにエントロピー増大に逆らい、より複雑な構造を作り出せるのである。

生命だけでなく、自然界や宇宙もミクロレベルで高次元世界の影響を受けながら進化してきたと思われる。

高次元世界はこの世界を生み出すイデア界的な存在であり創造主のような存在といえるだろう。

これからの科学の方向性

2013-04-12 18:09:14 | Weblog

宇宙が膨張していることがわかってビッグバンが考えられたように、

場の量子論で、無数の場の存在が考えられるようになり、

高次元の場というものを想定することができるようになりました。

今までの科学が同じ次元上の水平次元の発展とするなら、これからは、

高次元を含めた垂直次元の発展を遂げていくと考えられます。

それによって神の正体が科学で解明されるかもしれません。

しかしそれは今まで宗教で言われてきた神とは全く異なるものでしょう。

■進化論と創造論

2013-04-11 16:17:26 | Weblog
■進化論と創造論

http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-87.htm


 「ダーウィンの進化論」は、明確に偶然が支配する世界である。例えば、人間のような精緻な生命体はいかにして造られたか?ダーウィンの進化論では次のように説明される。地球上の生命は原始生命から始まり、突然変異により、様々の生物種が生まれ、その中で、環境に適応したものが生き残った。

 この理論のポイントは、偶然に起こる突然変異により、多種多様な生物種がつくられ、適者生存の仕組みにより、勝組が選択される、という点。つまり、人間は偶然の産物であり、あらかじめ設計されたものではない。一方で、この理論に疑問を投げかける人たちもいる。人間のような複雑で精緻きわまる存在が、偶然の連発で生まれるわけがない、猿に紙と鉛筆を与えたら、偶然、「美しい星」ができあがった?

 キリスト教原理主義のある宗派は、進化論を次のように非難している。例えば、人間の目は、最も精巧なカメラよりはるかに複雑だ。眼球は、ガラス体とそれを包む網膜、光を集める水晶体、水晶体の厚みを変えて焦点を調節する毛様体、光量を調整する瞳孔、水晶体をシールドする角膜、さらには集光した光情報を脳に伝える視神経からなる。確かに複雑だ。

 ここで重要な点は、目はこれらの部品がすべて同時に出現しないかぎり機能を果たさないということ。ところが、目が段階的に進化したとすれば、すべての部品がそろうまで、各部品はガラクタにすぎない。ところが、意味のないガラクタ部品はすべての部品がそろうまで生きのびることはできない。意味のないものは自然淘汰されるからだ。つまり、目はいつまでたっても完成しない。これは現実と矛盾する。目は現実に存在しているからだ。進化論の伝家の宝刀「自然淘汰」を逆手に取った恐るべき反論である。

 このキリスト教宗派は、進化論をただ非難しているわけではない。ちゃんと、代替案も用意している。「神による天地創造論」だ。この説によれば、目は神が設計し創造した必然の産物で、偶然にできたものではない。だから、どれほど複雑であっても驚くことはないのだ、と。

 仏教徒にとって、「神による天地創造」は重い。とはいえ、説得力がないこともない。ただ、この説にも弱点はある。神の存在がまだ科学的に証明されていないことだ。一方、現在では、科学者の中にも、ダーウィンの進化論に懐疑的な人たちもいる。ただし、進化論のすべてを否定しているわけではなく、「銀の弾丸」ではないと言っているだけなのだが。

 例えば、進化論の急先鋒、「木村の中立説」。突然変異によって、環境に有利な変異体と不利な変異体が生まれた場合、有利な方が子孫を残し、不利な方は淘汰される。これは、自然淘汰による適者生存で、偶然ではなく必然が支配している。一方、突然変異で変異体が生まれるとして、環境に有利な変異体と不利な変異体のどちらが生まれやすいのか?答えは、
「五分五分=偶然」
つまり、突然変異はランダム(偶発的)に起こり、有利な変異体が生まれやすいことはないのである。これが、「木村の中立説」。

 ところが ・・・

 ある実験で、有利な変異体のほうが、不利な変異体より高い確率で突然変異が起こることが確認されている。これは、突然変異がランダムではなく、特定の方向性をもつことを意味している。つまり、必然が介入している。

■インテリジェント デザイン理論
 今、インテリジェント デザイン(intelligent design、ID)理論が熱い。インテリジェントは「知性」、デザインは「設計」。つまり、インテリジェント デザイン理論とは、
「宇宙や生命が偉大なる知性によって設計された」
という説。なるほど、よくある神様の創造物語かと思いきや、そうでもない。その証拠に、
「宇宙や生命が神によって創造された」
とは言っていない。よく見ると、「神」は「偉大なる知性」に、「創造」は「設計」に置き換えられている。この差異により、インテリジェント デザイン理論が怪しげな宗教ではなく科学である、と強調したいのかもしれない。なかなか芸が細かい。

 ただ、「創造論」にしろ「インテリジェント デザイン理論」にしろ、「生命は適者生存の自然淘汰によって創られた」とするダーウィンの進化論と対立する。前者によれば生命は必然の産物、後者によれば偶然の産物だからだ。

 インテリジェント デザイン理論の有名な解説に、数学者ウィリアム デムスキーの「ネズミ獲り機」がある。ネズミ獲り機はネズミを捕獲するための装置で、ネズミをはさみ込むハンマー、ハンマーを固定するバネと解放する引き金、これら部品を固定する台からなる。当然、部品が一つ欠いても、ネズミ獲り機として機能しない。また、不要な部品も一つもない。つまり、ネズミを捕獲するという単一目的で最適化された完全体なのだ。これが、試行錯誤で段階的に完成するはずがない、というわけだ。

 面白いことに、この「ネズミ獲り機」の話は先のキリスト教宗派の「目の話」に酷似している。インテリジェント デザイン理論の信奉者たちは、地球上には、こうした特定の目的のためにデザインされた無駄のない構造物であふれていると言う。この世界が、未知の「偉大なる知性」によって、目的を意図して設計されたというのだ。つまり、偶然ではなく必然。

 さて、あやしい宗教と科学のハイブリッド理論と、ノーベル賞理論とどっちを信じる?ところが、完全無欠と思われた「不確定性原理」の不等式が破られたという情報もある(※2)。最先端の科学もまだゆらいでいるのだ。

 じつは、インテリジェント デザイン理論の騒動は、アメリカのブッシュ大統領の一言から始まった。ブッシュ大統領が記者団の前で、
「公立学校では、インテリジェント デザイン理論を進化論とともに教えるべきだ」
と発言したからである。前述したように、インテリジェント デザイン理論は進化論より、「神による天地創造論」に近い。そのため、一神教を信奉する各宗派も活気づき、議論百出となった。

 にぎやかな騒動の顛末はさておき、この議論が行き着くところは、
「世界は偶然の産物かそれとも必然か?」
これは立場による。宗教関係者は必然を、科学者は偶然をとることが多い。科学者が必然を毛嫌いするのは、必然を肯定すれば、「必然の根源 = 世界の設計者」を証明する必要があるからだ。もし、世界が偶然の産物なら、面倒な説明をすべて確率になすりつければいいのだから。

■宇宙はいかにして始まったか
  だがよく考えてみれば、この世界が偶然の産物だとしても、偶然を起こすための部品やプロセス(法則)が必要なわけで、それはどうやって創られたのだろう?ニュートンの万有引力の法則やハイゼンベルクの不確定性原理のような物理法則が段階的に進化したとは思えない。これらの法則が、宇宙の誕生とともに一撃で完成しないかぎり、その後の宇宙創造のプロセスが説明できないのだから。

 そう考えれば、天地創造のもう一つの仮説、「宇宙は神の一撃で始まった」のほうがまだ説得力がある。この仮説は、偶然も必然も眼中になく、
「この宇宙は宇宙の外から持ち込まれた!」
大胆不敵、驚愕の仮説である。ところが、この論者は日本を代表する大学の教授であり、宇宙物理学の権威だという。聖書に記された「世界は神が創った」は決して荒唐無稽とは言えないのだ。

参考文献:
(※1)三島由紀夫 「美しい星」 新潮文庫
(※2)日経サイエンス2007年4月号「不確定原理の今」

超次元への開放系宇宙

2013-04-11 12:21:04 | Weblog
超次元への開放系宇宙

 仮説としてより有効ということは、より広範囲の問題を取り込んで説明する能力をもつということである。この宇宙をより高次の世界に向かって開かれた開放系と解釈する方が、自己完結的に閉ざされていると解釈するよりも、我々の解決すべきより多くの問題に対応することができ、より多くの問題との有機的なつながりが生ずるのである。ジョンソンの言うように、宇宙を開放系と解釈するからといって生物学のなすべきことがなくなるわけではない。それどころか生物学は、今までつながりのなかった他の問題、たとえば生命の価値とか生きる目的といった問題を取り込み、生物学は生命学としてより豊かな研究ができるであろう。そこには死後の生命といった問題とも関連が生ずる。
 お前の生命や心の根源は物質だと言われて、納得できる人は少ないだろう。自分の生命や心は、何らかの自分を超えたものの生命や心とつながっていると考える方が、考え易いのである。死後の生命というものが全くありえないという人も少数であろうが、そういうことを言い張る人は、あの世とか神とかでなく開放系宇宙を視覚化してみればよい。宇宙が高次元世界へと開かれていれば、私自身も高次元世界へと開かれているのである。
 ところで開放系とか閉鎖系とかいう問題は、物理的な意味では、系の外側とのエネルギーのやり取りがあるかないかという問題である。宇宙が外に向かって開かれているというような言い方をしてきたのは、むろん物理的(空間的)な外側をいうのでなく、次元的な外側である。そのことが誤解されてはならない。
 物理的には、我々のこの宇宙は閉鎖系であろう。生まれたものは死ななければならないように、時空的に始まったものは、いつか時空的に終わらなければならないだろう。物理的に言えば、熱の落差はなくなる一方であり、いわゆる熱力学の第二法則によって、エントロピーの最大値、「熱死」を迎えねばならないだろう。ところが、この宇宙(といっても実は地球だけに集中している)は明らかに、生命や意識の高度化へ向かって進化している。この矛盾をどう考えるか。なぜ宇宙も人(小宇宙)も、生まれ成長してまた死ぬのか。
 実はこの矛盾も、超次元への開放系宇宙という仮説(すなわちID理論)から、解決が導き出されると私は考える。私の考えはこうである。この地上最高の生命(つまり人間)を通じての宇宙生命の高度化とは、意識がより大きく覚醒していくことである(脳や体の複雑化はそれを可能にするものにすぎない)。これを「霊的に覚醒していく」と言ってもよい。我々の太陽はいずれ燃え尽きるだろう。仮にそのときまで我々人類が生きていて、太陽の死とともに死ぬとしよう。そのとき物理的宇宙と我々の肉体はなくなるが、覚醒しきった霊は生きているのである。そして我々の霊(意識)の発祥地である高次元世界へと自然に吸収されるのである。これは宇宙と人類が、そんなふうにデザインされているのではなかろうかという仮説である。これは一人の人間(小宇宙)についても同じである。我々は生まれてきて死ぬまでの間に、可能な限り自分を霊的に覚醒させて死ぬようにデザインされていると考えるべきではなかろうか。
 人はこれを奇妙な考えだと笑うかもしれない。しかし、この熱力学法則と進化の矛盾を解くのに、あくまで宇宙を閉鎖系と考えた上で、その内部に生命進化の未知の「法則」やデザインの能力が内在すると仮定して四苦八苦するスチュアート・カウフマン(Stuart Kauffman)やポール・デイヴィス(Paul Davies)の仮説よりは、はるかに辻褄が合うのではなかろうか。

『世界思想』No. 354. (2005年 4月号) 

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IDの知的存在とは高次元の場

2013-04-10 18:51:52 | Weblog

生命場は高次元空間に存在すると思うので科学で発見するのは難しいかも知れません。

科学も高次元に研究対象を移す必要があると思います。

音楽的には喜多郎やバンゲリスの世界が高次元の場の世界だと思います。

シンセサイザーの登場によって人間の認識できる世界は高次元へと拡大されました。

量子力学も高次元への扉を開いたと思います。

インテリジェントデザインの 知的存在を、自発的に秩序や法則

複雑な構造を生み出す能力をもった存在と仮定すると

高次元の場がそれに当てはまります。

量子力学では複数の状態の重ね合わせが成り立つので、場の種類は無数に存在すると思います。

生命の進化には、場の振動がミクロレベルで素粒子と相互作用したと考えられます。



神の多様性

2013-04-08 15:53:29 | Weblog

ビッグバンのエネルギーを、創造と進化の意志を持った神のエネルギー

と考えると、生命が長い時間をかけて進化し、多様性を持つに至ったのと同じように、

神のエネルギーも、長い時間の中で成長し、多様な姿に自己組織化し、

階層化していったのではないだろうか。

喜多郎やバンゲリスの音楽は、多様な姿に自己組織化した

神のエネルギーを表現したものだと思う。

神のエネルギーは、長い時間をかけて宇宙を進化させ、生命を生み出し

美しい秩序を作り出してきたのだ。



ちなみに人格神は、人間の霊が霊的進化によって、

神のエネルギーと一体化したものと言えると思います。

どの階層の神のエネルギーと一体化しているかによって、神の位が決まるでしょう。

ヤーウェの神は、一番上の階層の神のエネルギーと融合していると考えられます。

高次元の場は生命の揺りかご

2013-04-06 13:36:37 | Weblog
高次元の場というのは、質量のない粒子て構成された海のようなものではないだろうか。

海に流れや波、縦波振動が生じるように

高次元の場も複雑な流れ、波、振動が生じ多様な姿に変化することができる。

水は高次元の場の性質を受け継いだ物質と言える。

水は生命を誕生させるために,、高次元の場によって作り出された物質なのだ。

高次元の場は我々の世界を海のように包み込んでいる。

高次元の場は生命のゆりかごであり生命の母である。

高次元の場は自らの性質に似せて生命世界を生み出したのだ。

生命を生み出すためには論理が必要であるが、場は波動で成り立ち、

波動は数学的論理で成り立っているので、場が物質に働きかけて生命を作ることは可能だろう。

場の自発性と波動的論理によって、生命を生み出したのではないかと考えられる。





インテリジェント・デザイン論

2013-04-04 18:04:10 | Weblog
http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/019.html


現実を解明する形而上学
――「デザイン」ということの究極の意味――

渡辺 久義   

心という要因

 「インテリジェント・デザイン論」の「デザイン」とは日本語のデザインとは違って、構想、設計、計画、意図、目的といった概念のすべてを含むものであるから、簡単に言えば心の作用であって、この新しい理論は要するに、この宇宙ないし自然界には「心」という要因が働いていることを正当な科学として認めようではないか、という科学界の基礎をゆさぶる理論だと言ってよい。宇宙ないし自然界を構成するのはもちろん物質であるが、その物質と物理的力、すなわち必然(自然法則)と偶然のほかに、デザイン、すなわち心の作用を付け加えるべきだと主張するのである。
 宇宙といったときに、あるいは自然といったときに、すでにそこに何らかの心を含めて考えるのが習慣になっている宗教的な人々からすれば、当たり前のことかもしれないが、当たり前と考えてもらっては困るのである。それでは宗教としても益するものがない。
 我々は普通、宇宙とか自然といえば、目に見えるものとしてのそれを考える。それが近代人の習慣で、科学も我々のそういった習慣と共通の前提に立って構築されてきた。しかしそれでよいのか、それは根本的に考え直すべきではないのか、という内部からの異議申し立てとして現れてきたのがインテリジェント・デザイン理論であって、今まで人が科学の常識として当然のように受け入れてきた考え方は、「自然主義」として相対化されるようになった。だからこれは科学界の革命運動というべきものである。
 宗教家にとっては宇宙や自然界に心があるのは当たり前かもしれないが、経験的に捉えることのできるものだけに基づいて考える自然主義=唯物論からすれば、心は脳からのみ生ずるものであるから、宇宙空間のどこにも脳が見当たらない以上、そういう心には文字通り根拠がないということになる。
 その心の存在をデザイン論者たちは今、経験的に把握できるものとして実証しつつあるのである。私はその実証の仕方を、目に見えないものを見える状態に置く、つまり周囲から塗りつぶして真ん中の白い部分を浮き立たせる作業にたとえることができると思う。そこにある文字が浮き出るならば、それを否定することはできないのである。

経験論哲学の病

 二十世紀という時代はおおむね唯物論の幅を利かせた時代であった。形のない目に見えないものを軽蔑する、あるいは存在しないと考えるのが知的であるかのような風潮があった。前号の最後の部分に言及したアインシュタインがバートランド・ラッセルの哲学を評して言った「形のないものへの恐怖」とは、“fear of metaphysics”であって、アインシュタインはこれを、ヒュームから現代にまで続いている経験論哲学の病だと言っている。バートランド・ラッセルといえば、私の学生時代には世界の知識人の代表であって、文章が明瞭ということもあって英語の教科書にしきりに使われたものである。このラッセルに代表されるような考え方が当時の若者の心を支配し、この時代を支配したのである。
 自然界に働く「デザイン」とは、自然界あるいは宇宙が心に思い描く構想と考えられるから、これは形のない目に見えないものである。ところで、このデザインという概念は、生物種の創造についてのみ当てはまるのであろうか。デザイン論者がダーウィニズムを否定して、自然界に働く要因として、必然(自然法則)と偶然のほかに、デザインを認めよと言うとき、最初の二つは盲目の物理力のようにみえる。しかし盲目の物理力といったものは存在しないという認識に、科学者は次第に到達しつつあると言える。
環境も含めて自然界全体を考えたとき、デザインは生物に限定されてはいない。例えば水という物質は、それ自体ではきわめて単純な生命をもたぬ化合物だが、実は生命のために絶妙にして万能の機能をもった驚くべき物質であり、いわば生命の一部としてデザインされたものと考えざるをえないのである。地球という環境全体を取ってみても、これもデザインされたものとしか言いようがない。このことは何回かにわたって、マイケル・デントンの所説に拠って述べた。
 また基本的な物理法則や物理常数や初期値といったものも、将来、生命のために、特に高等生物のために絶妙に「微調整」されたものであって、これもデザインされたものと考えざるをえないのである。(いわゆる「冷たい自然の法則」というものはないのである。)

構想と素材の相互作用

 ところでこの宇宙自然界は、無形の「デザインするもの」と有形の「デザインされるもの」すなわち素材という二面から成っていると言うことができる。心と物の二つの側面から成っていると言ってもよい。すなわち、デザインという目に見えぬ構想の働きと、それを受け止めて構想を実現していく素材という二つのものの相互作用(弁証法)によって作られていく、と考えることができる。これは何も難しいことではない。芸術家の創作過程と同じことである。それをなにか難しいことのように思うのは、「形而上学への恐怖」にとらわれている我々の哲学のせいである。芸術家が限られた素材しか使うことができないように、我々の宇宙も限られた数の元素しか持っていない。
 しかしその素材は、たまたまそこにあったというものではない。素材自体がデザインされたものである。宇宙はその素材を作るのに何十億年をかけて、まず素粒子そして水素から始め、炭素、窒素、酸素へと次第に重い元素を、爆発を繰り返す星々の内部で作り出し、それらを使って最後には、我々のような高等生物とそれらが住めるこの奇跡的な惑星を作っていったと考えざるをえないのである。
 デザインの働きとデザインを実現する素材という考え方は、近代科学が浸透する以前の西洋においてはごく自然な考え方であった。アリストテレスの自然学で言う「形相」と「質料」(質量にあらず)という考え方がそれである。有名なアリストテレスの「四つの原因」説は近代科学が捨て去ったものだが、その本来の価値を見直すように主張するデイヴィッド・ボームやポール・デイヴィスのような物理学者がいるのである。
 アリストテレスが考えた自然界の生成に働く四つの原因とは、「形相因」「目的因」「質料因」「作用因」であるが、彼はこれを説明するのに大工が家を建てる例を使っている。「形相因」とは建てようとする家の設計図(紙に描かれていても頭の中にあるものでもよい)であり、「目的因」とはその家を建てる動機としての使用目的であり、「質料因」とは木材やコンクリートといった建築材料であり、「作用因」とは大工の労働力である。この四つの原因(causeであるが本当は要因であろう)がなければ、いかなるものも生じたり成長したりすることはないという。
 昔、私が最初にこれを読んだときに、これはおかしいではないかと思ったことを告白しておきたい。なぜなら自然界の生成を説明するのに人工物を例に取るからである。おそらく大多数の現代人がこれを不審に思うであろう。なぜなら近代科学によって現代人は、自然界の営みと人間の営みは全く別のものではないか、人間には心があって考えるが、自然は考えたりしないではないか、と思うように躾けられてしまったからである。これが我々の陥った落とし穴であった。自然界には無心の物理力だけが働く、つまりHowだけが働くのであってWhyなど関係ない、存在しない、というのがいつしか考え方の前提になってしまったのである。
つまり近代科学は、アリストテレスの四つの原因のうちの「質料因」と「作用因」だけを残して「形相因」と「目的因」を切り捨ててしまったのである。しかしアリストテレスにとっては、宇宙自然界には当然、目的があり、動機があり、「デザイン」があった。従って彼にとっては、大工の例は違和感のないごく自然なものであったと思われる。
 アリストテレスの世界観は目的論的世界観と言われる。これに対して近代科学のそれは機械論的世界観と言われる。そして今、科学者たちは嫌でも目的論的観点を無視できないような状況に追い込まれていると言ってよいであろう。まず何より宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない。そして創造には目的がなければならない。目的も意味もない創造などというものはない。
 因みに、ここに展開してきたような議論は、本紙に同時に連載中の渡辺芳雄氏による「現代に生きる統一思想」を併せ読むことによって、よりよく納得してもらえるのではないかと思う。アリストテレスをそのまま復活させよとは誰も言わない。けれども「形相」と「質料」の相互作用という観点、宇宙自然界の生成を芸術家の創造過程のように捉える観点は、今からの科学にとって不可欠であろうと思う。これは渡辺氏の講義に出てくる「性相」と「形状」に当たるであろう。ただ、この「統一思想」においては、その概念はアリストテレスの哲学にはない、より有機的な、かつより緻密な概念として用いられている。
 要するに、何らかの形而上学なしに、つまり目に見えないものの実在と働きを仮定することなしに、形而下の世界を解明することはできないということである。数学という抽象世界の構築物が、現実の世界の構造を解明すると言われる不思議な事実がよい例である。ただそれには理由がなければならない。すなわち人間の頭脳が、物理的宇宙の構造を(徐々に)理解できるようにデザインされている、宇宙をデザインした頭脳が人間に分与されている、と考えたときにのみ納得がいくのである。

宇宙と人間は同じデザイン

 私がいま読んでいるのは『特権的惑星―宇宙における我々の位置がいかに発見のためにデザインされているか』(Gonzalez & Richards, The Privileged Planet: How Our Place in the Cosmos Is Designed for Discovery)という本であるが――この本については次号に紹介する――ここに次のような注目すべき記述がある。

 ユージン・ウィグナーが「自然科学における数学の理に合わぬ(unreasonable)効力」について語ったのは有名であるが、理に合わないのは、ただ宇宙がreason(理性、合理性)というものによって裏打ちされていないと想定するときにのみ理に合わないのである。ウィグナーは、宇宙の仕組みを記述する数学の単純さと、我々がそれらを発見することが比較的容易なことに、強い驚きを覚えたのであった。哲学者のマーク・シュタイナーは『哲学的問題としての数学の適用可能性』の中で、両者の深いつながりの詳しい例と、自然法則に適用された純粋数学の不気味な予言能力をあげて、ウィグナーの瞑想に更に新しい考察を加えている。(傍点引用者)

 こういう問題があることについては、アインシュタインの「宇宙について唯一理解できないことはそれが理解できることだ」という言葉とともに、ポール・デイヴィスの『神の心』から引用しながらすでに述べた(本年二月号)。なぜこういうことを「理に合わぬ」「理解できない」「不気味」と感ずるのであろうか。それは著者がここで軽く言ってのけているように、宇宙が、人間に与えられた理性と同じ理性(理法)によって作られていると考えない限り、そのように感ずるのである。宇宙も、宇宙について考え理解しようとする人間も、同じデザインから生まれ、デザインを内在させていると考えざるをえないのである。
 理解できるということは、考える主体と考えられる対象が共鳴を起こすということである。両者が同じ理法を共有せず全く異質のものであったならば、共鳴ということは起こらない。もちろん今のところ、この共鳴は部分的なものであって、全面的共鳴ではないだろう。科学の役割は、宇宙について理解しうる範囲、すなわち共鳴の範囲を徐々に広げていくことだと考えられる。今のところ科学の対象は物理的宇宙に限られている。しかし宇宙が単なる物理現象でないことは今の段階ですでに明らかであって、そのいわば霊的(形而上的)宇宙を理解する能力もまた、我々人間の中に組み込まれているものと考えることができる。
 例えば、生命がどのようにして始まったかということは誰も解明できない深い謎である。こういうことは形而上学を軽蔑して、自然主義や経験主義の枠内で理解しようとしても、いつまでたっても不可能であろう。私の考えでは、生命の創造や進化(これも創造である)も、デザインする働き(形相)とデザインを受ける素材(質料)の間に共鳴が起こったときに、形を取って現れるのである。素材がデザインを受け入れるようにあらかじめデザインされていなければ、そしてなおかつ、デザインを受け入れるような物理的段階にそれが達していなければ、その共鳴は起こらないであろう。物理的な側だけの「自己組織化」によって創造ということは起こらないのである。
 宇宙とか生命というものを、目に見える次元へと還元することはできない。芸術作品は精神を素材によって表現したものである。我々人間も創造者の心の表現である。これをもっぱら素材の側から眺めることによって理解することはできないのである。

『世界思想』No.345(2004年7月号)

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振動エネルギーの三態

2013-04-04 15:26:03 | Weblog
物質が個体、液体、気体の三態に変化するように

振動エネルギーは、振動状態の違いによって、物質 精神 空間の三つの状態をとると考えられる。

物質と精神の混合状態や、精神と空間の混合状態も存在するだろう。

物質性をもった精神や、精神性をもった空間が存在すると思う。

この世界は、物質 精神 空間の三つのエネルギー状態が、重なり合って存在している。

振動状態の違いによって多様な物質、多様な精神、そして多様な空間が存在できる。

ビッグバンのエネルギーは、物質 精神 空間の混合状態だったのではないでしょうか。

我々の住む宇宙は、ビッグバンの振動エネルギーが長い時間をかけて多様な姿に変化した結果であり

振動エネルギーと、振動エネルギーが生み出した物質との相互作用によって造られた創造物である。