思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

認知における意識の働き

2009-02-25 16:14:58 | Weblog
<認知における意識の働き>

現代の認知科学や脳科学では入力された情報が神経ネットワークにより

細かく分析されることがわかっているが、その分析されたものが如何にして

一つにまとめ上げられるのかが分かっていない。そこで私は大胆な仮説を

考えてみた。

その前に、意識というものが何のために生まれてきたか、ということについて

私の考えを述べてみよう。

私の考えでは、意識というのは複雑な情報を取り入れ、すばやく処理するために発達し、

進化してきたシステムではないかと思っている。意識は脳に入ってきた大量の情報を瞬時に

処理することを目的として生み出されてきたシステムといえよう。

従って意識は脳の認知過程において非常に重要な役割を果たしていると考えられる。

ではどのように意識は認知過程に関わっているのだろうか。私の仮説を述べてみよう。

脳は外界から入ってきた情報を神経ネットワークによって細かく分析するのであるが

意識はこの分析された情報を、様々なデータベースをもとにして再構成し、一つにまとめ

上げるのではないだろうか。

分析された情報は色や形、位置、空間、動き、平面、立体、遠近感などの様々なデータベース

に基づいて意識によって再構成され、一つの世界を作り出すというのが私の仮説である。

たとえば風に揺れる赤いバラを見ているとしよう。

脳によってバラの色や形、動きなどが細かく分析される。この分析された情報に基づき意識は

色や形、動きなどのデーターベースを利用して風に揺れる赤いバラを再構成していくのである。

複数のデータベースによって並列処理された情報は意識によって瞬時に重ね合わせられ統合される。

これはニューロンの同期発火が関係しているだろう。

これらは単なる分析した情報とデータベースの照合ではなく、より能動的で創造的な行為である。

データベースの違いによって生じる処理速度のずれは意識の働きにより修正されるのだろう。

ではいかにしてデータベースは作られるのだろうか。

私の考えでは対象に意識を向けることによってデータベースが作られていくのではないかと思われる。

人間は生まれたときからすでにデータベースを作り始めるのだ。

赤ちゃんが一つのものを凝視するのは形や色のデータベースを作るためであり、幼児が積み木を

様々な角度から眺めるのも立体のデータベースを作るためでではないだろうか。

従って意識はデーターベースと密接につながっていると言える。

対象に意識を向け、そのデーターベースに関する情報が入力されることで

そのデーターベースが活動し始めるのだ。

形に関する情報が入力されることで形のデータベースが活性化し、動きに関する情報が

入力されれば動きに関するデータベースが活性化し働き始めるのである。

<意識を絞れば絞るほどより詳細な情報を得ることができるので意識が対象を選択し

その情報を拾い上げていると言える。>

データベースには具体的なものから文法構造のような抽象的なものまで様々なものがあると思われる。

人間は新しい環境においても情報をデータベース化することで適応していくのだろう。

入学したばかりの新入生がいつの間にか学校に適応してしまうのもそのせいではないだろうか。

データーベースを豊かにすることでより柔軟で多様なものの見方ができるようになると思われる。

同じものを見ても見るたびに違った見え方や解釈が可能になるのだ。

好きな人を繰り返し見ることでその人がより魅力的に見えてくるのは、その人の声や表情などの

データベースがふえるためだろう。見れば見るほど魅力的とは正にこのことである。

画家は対象を凝視することで視覚のデーターベースを豊かにし音楽家は音に意識を向けることで

聴覚のデータベースを豊かにして行くのだろう。

意識を向けるという行為が認知能力を発達させ脳の進化に重要な役割を果たしてきたと言える。

未知なるものに出会うことによってもデータベースを増やし脳を活性化できるのではないだろうか。

人間は意識を対象に向け世界と相互作用することで新たな意味を生み出していく存在なのである。

現在でも意識は進化し続けており、世界の認知の仕方は主格分離から主格合一へと

進化していくのではないだろうか。

そしてそのことによって対象と一体となった、より本質的な認知を行えるようになるのかもしれない。






コメント

最近思いついたこと

2009-02-18 14:01:47 | Weblog
意識は脳が分析した情報を様々なデータベースをもとにして再構成し、一つにまとめあげている。
異なる種類のデータベースを柔軟に結びつけることで多様で豊かなものの見方ができる。
赤ちゃんや幼児が一つのものを凝視するのは、ものの形や色などのデータベースをつくるため。
対象に意識を向けることで、データーベースを作っていく。
意識とデータベースは密接につながっている。
画家は対象を凝視することで視覚のデーターベースを豊かにする。
音楽家は音に意識を向けることで聴覚のデータベースを豊かにする。
未知なるものに出会うことでデータベースを増やし脳を活性化できる。
意識を絞ることでより詳細なデータを得ることができる。
人間は新しい環境においても情報をデータベース化することで適応していく。
意識は複雑な情報を取り入れすばやく処理するために発達し、複雑な情報を処理することで進化してきた。
現在でも意識は進化し続けており、進化することで世界の認知の仕方は主格分離から主格合一へと
変化し、対象と一体となった、より本質的な認知を行えるようになるだろう。
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意識とスキーマ

2009-02-16 13:15:25 | Weblog
意識はスキーマに従って世界を再構成しているのではないだろうか。
われわれが認知する世界は意識がスキーマによって再構成した世界なのだ。

意識は脳によって分析された情報の一部を選択し、拾い上げて一つにまとめ上げる働きを持つ。
意識を向けるとはその対象の情報を拾い上げることであり、意識を絞ることでより細かいことまで
知ることができる。意識は世界の再構成の場である。われわれが見ている世界は意識によって
再構成された世界である。
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スキーマ

2009-02-15 13:51:17 | Weblog
スキーマという概念そのものは、バートレットの古典的な研究にすでにみられる。人はある事柄を記憶する
ときに、それを何かに関連づけて記憶しようとするが、その関係づけをもとめるときの既得の知識構造のこと
を、バートレットはスキーマとよんだ。それを認知心理学の枠組みの中でつかえる概念に練成したのが
ラメルハートやシャンクである。たとえば、「買い物をする」というのは、店にでかける、品物をさがす
、どれを買うかきめる、お金をはらうという一般的な構造をもつから、ひとつのスキーマである。

一般的に何かを買うということはなく、買い物はどこかで何かを買うという行為のはずである。
店はいくつもあり、買うべき品物も無数にあるから、具体的な購買行動は、この一般的スキーマの各項を変数
とみて、それを一定の値(デフォルト値)でおきかえていく行為だと考えられる。

さらに、スキーマは、埋め込み構造ないし包含関係によって、いくつかのスキーマが相互に関連する形にでき
、その意味で、スキーマは知識のかたまりである。これがラメルハートのスキーマの定義である。

3 B シャンクのスクリプトの定義

他方、シャンクは、レストランで食事をするという行為は、店にでかける、いすにすわる、メニューをみる、
ウエイターにオーダーするなど、一連の連鎖した行為、つまりスキーマからなりたっており、したがって、
通常のわれわれのレストランでの行為は、このレストラン・スキーマのプログラムにしたがってなされている
と考え、このようなスキーマを俳優が台本にあわせて演技するときの台本になぞらえて「スクリプト」とよんだ。

われわれは世界でのさまざまな経験をスキーマやスクリプトの形に統合して長期記憶にたくわえ、また、
今現在の認知や行動を、既得のそのようなスキーマやスクリプトをガイドに実行している可能性がひじょうに
高い。つまり、過去の経験を知識として統合してたくわえつつ、現行の認知をそれによって枠づけるという
ように、スキーマやスクリプトは二重の機能をもっている。

こうして、スキーマやスクリプトに関する認知研究が多数生みだされることになった。また、文章読解など、
心理学的に重要な認知研究のテーマでありながら、古典的な研究の枠組みのもとではじゅうぶんに
とりくめなかった問題が、これらの概念をもちいることによって徐々に解明されつつある。


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場の記憶

2009-02-12 12:56:51 | Weblog
繰り返し発生した波動は時空の場に刻まれ保存される。
この波動情報は共鳴によって引き出すことができる。
喜多郎の古事記やヴァンゲリスのエルグレコは共鳴によって
過去の出来事を音楽で再現したといえる。

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環境の認知

2009-02-11 13:55:03 | Weblog
人間の五感は環境の中で生きていくために進化したものである。
したがって世界を客観的に捉えるために視覚や聴覚があるわけではない。
見える必要のあるものが見え、見える必要のないものは見えないのである。
霊魂が見えないのは見える必要がないからであり、存在しないからではない。
霊能者は何かのきっかけでその能力が目覚めたのだろう。
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霊魂の正体

2009-02-07 15:27:24 | Weblog
意識は脳によって分析された情報の一部を選択し、拾い上げて一つにまとめ上げる働きを持つ。
意識を向けるとはその対象の情報を拾い上げることであり、意識を絞ることでより細かいことまで
知ることができる。意識は世界の再構成の場である。われわれが見ている世界は意識によって
再構成された世界である。

では意識の働きは脳のどの部分で行われているのだろうか。残念ながら神経ネットワークにそのような
働きをする能力はないようだ。意識の場は神経ネットワークそのものではなく神経ネットワークの働きに
よって生じる電磁場が意識の働きを担っているらしい。
ニューロンの情報を拾い上げ波動の働きで瞬時に処理し一つにまとめ上げることで人間は素早く物事を
認知できるのだ。これは量子コンピューターの一種と言える。
意識の電磁場は波動の量子力学的な働きを利用して情報の素早い並列処理を行っているのである。
この神経ネットワークの複製ともいえる意識の電磁場は繰り返し発生することによって固定化され
るため、脳が死んでもすぐに消え去ることはない。
脳に電気が流れなくなることで引きつけるものがなくなり、荷電粒子とともに外へ抜け出して一つにまとまり
霊魂になるのである。
この電磁場と荷電粒子の複雑な相互作用によって脳と同じ働きができる様になるのである。

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2009-02-06 12:54:38 | Weblog
変性意識状態とはなにか
                                             1999/2/20.







  1 変性意識状態 (Alterd States of Consciousness)



    気がつくと、わたしは炎のような雲に包まれていた。一瞬、火事かと思った。

   どこか近くが大火事になっているのかと思ったのだ。ところが、つぎの瞬間、燃えているのは

   自分の内側であることに気づいた。その直後、えもいわれぬ知的な光明をともなった極度の

   高揚感、歓喜の絶頂がやってきた。そして、宇宙が死せる物質によって構成されているので

   はなく、一つの「生ける」存在であることを知った。単にそう考えたわけではない。わたしは自らの

   永遠の生命を自覚した。永遠に生きるという確信をもったのではなく、自分に永遠の生命が

   あることを自覚したのだ。さらに、人類すべてが不死であることを知った。あらゆる物事が協力

   しあいながら、互いのためによかれと思って働いていること、あらゆる世界の根本原理が、

   いわゆる愛であること。そして、長期的に見れば、誰もが幸福になることは絶対に確実であること。

   宇宙の秩序とはそういうものであることを知ったのだ。

                      ――R.M.バック (ケン・ウィルバー『無境界』から)


     『無境界―自己成長のセラピー論』 ケン・ウィルバー 平河出版社 



    これが変性意識状態――つまり悟りとよばれる状態だ。(と推定される)

    あるいは古来、人々が神や仏といった人格として呼び習わしてきたものだ。(と私は解釈する)

    ふつうわれわれは悟りの状態がどのようなものであるか、ほとんど耳にしない。

    仏教では悟りへ至る方法論や修行法はあちこちに説かれているのだが、

   はて、どのような状態をめざしているのかとなったら、そのような記述にはあまり出会わない。


    ケン・ウィルバーの『無境界』という本のこのような記述に出会って、はじめてわたしは、

   宗教とは「救い」や「依存」を求めているだけではなく、こういう意識の究極の状態を

   めざしているのだということを知った。


    世界や宇宙との一体感、全知全能感、強烈な幸福感といった、この世界の神秘と

   触れられるのならいちど触れてみたいと思うのはわたしだけではないだろう。



    変性意識状態にはつぎのような特徴があるとされている。


    1・表現不能性

    2・高揚した鮮明さと理解の感覚。

    3・変成した時空間の知覚

    4・宇宙の全体論的な合一的な統合性、および自分がそれと一体であることの感得。

    5・宇宙が完全だという感覚を含む、強烈な肯定的情緒。

                      ――ロジャー・ウォルシュほか『トランスパーソナル宣言』から



    こういう意識の究極の状態があるということはわれわれの日常意識からして

   考えられもしないことだが、数多くの宗教者たちの歴史が物語っているとおり、

   そのような状態が「現実」に存在すると思われてきたわけだ。


    最近では臨死体験を突破口に――というのはその体験のなかに変性意識状態と

   同じ体験がある――このような意識状態が注目されている。


    ほんとうにそんなものがあるのかないのかなんか、わたしにはわからない。

    ただもしそのような意識状態があるのなら一度は垣間見たいと思うし、

   もしそれがまったくハナから絵空事であるのなら先人たちは何千年もの月日をかけないと思う。


    あるいは死に恐れおののいてきた人類がつくりだした「死の虚妄」なのかもしれないが、

   どうもなんらかの通常意識とは違った意識がなにかあると見当をつけるのが妥当だと思う。


    ただわれわれの日常意識、通常意識のほかに違った意識状態があるというのは

   にわかには信じ難い。

    この日常意識のほかにどんな意識があるのだ、とだれだって思うだろう。

    視覚に囲まれ、音に囲まれ、においに囲まれ、触覚に囲まれ、

   頭の中でぶつぶつひとり言を言いつづけ過去を想起する思考に憩われる――

   このほかにどんな意識状態があるというのか。


    この日常意識こそ、サンサーラ(幻覚、幻)にほかならないと宗教者たちはいう。

    日常意識は夢を見ている状態と同じであるといい、この心は過去の過ちの習慣性から

   おこったのものであるという。

    仏教の覚者からすれば、われわれこそ「病者」の世界に生きていることになる。


    いろいろな意識の状態があることは西洋の心理学によって観察されてきた。

    しかし西洋の心理学者たちはそれをすべて「病的状態」としてあつかってきた。

    西洋心理学では「病者」を癒すまなざししかもたず、健康人あるいはそれ以上の意識レベル

   が存するのではないかという探求すらつい最近までおこなってこなかった。

    なぜなら精神異常を治す医者しか存在しなかったから――つまり医者は「病者」しか

   とりあつかえない、とどのつまりみんな病者に「規定」しないと商売にならないわけである。

    それ以上の意識レベルに関しての職業は皆無である。

    せいぜいは自己啓発くらいしかなく、かつての宗教が行なってきたような高次の意識レベル

   の向上や探究はだれも手をつけなくなってしまっていた。


    高次の意識レベルの探究はマズローとかケン・ウィルバーなどの自己実現の心理学、

   トランスパーソナル心理学によって途についたばかりである。

    西洋心理学、あるいは近代科学はこの変性意識状態をどのようにとりこめるだろうか。


    現代の日本の多くの人は宗教を信じない。

    ただ仏教がめざしてきた変性意識状態が西洋心理学あるいは科学の光のもとに

   さらされれば、現代人はその現象を新しい視点から見直すことだろう。

    宗教とはいかがわしく、あやしいものだと思っているわれわれでも、

   意識のなかには異なった次元の状態があるかもしれないと示唆されたとき、

   それは宗教の範疇に押し込めておかれなくなるのだろう。




  2 変性意識状態はなぜ起こるのか


    変性意識状態へといたる方法についてはさまざまな宗教がその方法を開示している。

    呼吸法であったり、瞑想であったり、ヨーガであったり、祈りや念仏であったり、

   死に直面するような荒行であったり、とにかくいろいろある。

    いろいろあるだけあって――つまり容易には達せられないということである。


    修行しなくてもただふつうにそのような状態になる人もいると思えば、

   何十年修行しても達せない人がいるし、死に直面して臨死体験というコワイ経験をして

   その世界を垣間見てくる人もいるし、ドラッグによってそれを得る人たちもいる。


    シャーマン的素質をもっているような人なら近い世界なのかもしれないが、

   わたしのような神秘的経験がまったく無縁のどぼとぼの日常の俗人にとって、

   高次の意識レベルなどまるで手が届かない。


    せいぜいこのような意識状態がなぜ起こるのかと問えるくらいだ。

    (ただし、これに答えるものをわたしはなにひとつもっておらず、以下の考察は

   ともかくやたらめったらな文章であることをまず始めにお断りしておきます。)


    この意識状態は日常の知覚とはまったく違う次元にある。

    ふつうの目や耳、鼻などの知覚を働かせていれば、この変性意識にはならない。

    心が内にもなく、物質に向かわないようにと坐禅ではすすめられる。

    心を空っぽにするわけであり、思考(言葉)では体験できるものではない。


    呼吸に集中することも説かれており、そうすることによって思考の増殖を食いとめ、

   身体がただ在るという状態にゆだねる。

    思考がなく、外界の知覚がなく、ただ身体にゆだねるという状態――。


    意識もなく、外界の知覚もない状態というのを思い浮かべられるだろうか。

    睡眠状態と同じではないか、あるいはそれに近い。

    でもそれだったらまったくなんの意識も自覚もないではないか!

    (はい、考察はこれでオシマイになりました!)


    「主は空いている容器を見つけのおり、ご自分の祝福をその中へお容れになる」

   というとおり、外界の知覚や通常意識がついえた地点からなにかが始まるのだろうか。

    通常の知覚や意識のほかにわれわれにはその他の認識の方法が備わっているのだろうか。

    直観や第六感と俗にいわれるものはそのようなものか。


    通常の知覚や意識が滅却したところに意識の変容があるようである。


    外界の知覚からとき放たれると心のエネルギーは内部へと向かう。

    そうすると無意識に眠っていたものを自覚できるようになるそうである。

    つまり瞑想は外界の知覚へと向かうエネルギーを深層意識へと向けるわけだ。

    夢で見ている同じものを目覚めている状態でも見れるようにするのである。


    この無意識の中に意識変容といわれるものがあるのだろうか。


    ふだんわれわれの意識はさまざまな外界の知覚に翻弄されている。

    あっちで音がなれば注意し、動くものを見つければ目は注目し、

   頭の中でひとり言や過去が想起され、われわれの意識はまるでサルのように落ち着きがない。

    このような知覚に翻弄されているから、われわれはみずからの深層意識に辿り着けない。

    瞑想はそのようなふらつきさまよう意識を無意識へとつなぎとめるわけだ。


    目覚めていながら、無意識の世界を見ればどのような世界がわきあがってくるのだろうか。


    われわれの日常意識とはたいてい視覚の感覚に集中している。

    見ている対象に対応した視覚の感覚に焦点を合せている。

    視覚は多くは思考を継起させ、思考は頭脳感覚への集中をうながし、

   頭部への感覚の埋没をひきおこす。

    つまり感覚のかたよりがおこり、からだ全体の感覚を喪失してしまう。

    感覚を全体として生きることに意識の変容があるといわれている。


    あるいは二つの方位があるとされている。(鎌田東二『身体の宇宙誌』)

    頭部の集中による神や霊への接近、身体下部の集中による自然・大地化してゆく方法。

    前者はイメージ瞑想を主とするカバラや密教、神秘学、後者は初期仏教や禅。

    こういうふうにふたつの方法が提示されれば、どちらの方法がよく、

   身体になにがうながされるのかよくわからなくなる。


    脳内ではどのようになっているのだろうか。

    物質還元的な知識はあまりないのでよくわからないが、エンドルフィンとかよばれる

   快楽物質が過剰に放出された状態がそれに当たるのだろうか。

    恍惚感がずっとつづく躁病のような状態が悟りとよばれるものなのだろうか。

    ある種のドラッグは意識変容をおこさせるようだが、身体をあとあと蝕む。

    瞑想には睡眠やリラックスしたときに出る脳波が現れるそうだが、

   この状態も意識変容と関わりがあるのだろう。

    これらの脳内現象と変性意識は直接に関わっているのかわからないが、

   脳内現象のみに原因を求めてしまえば、宇宙の直観というものまでは説明し切れないと思う。


    神秘学や宗教では肉体のほかに異なる身体があるようなことをいっている。

    この身体を離れて霊や魂といったものがほんとうに存在するのだろうか。

    精神のありかを身体の働きに求める知識があまりにも当たり前になった現代人にとって、

   こういう考え方はまことに信じ難いことだが、逆にその医学知識自体を疑う必要もある。

    げんざい正当だと思われている知識もいつ覆されるかもしれないし、

   また、げんざい正当とされているから真とするのはどこかの宗教徒と同じく愚かな態度だ。

    だいたい知識なんて「権力」であり、「政治力学」なのであるから。


    基本的にわたしは霊や魂なんてものは死を恐れた人類たちの「慰め」の物語だと思っている。

    ただ、視覚や空間、時間を超えた意識形態というのはありうるのではないか、

   空間や時間――つまり視覚や思考――に拘束されない意識の在り方というのが

   あってもおかしくはないのではないかと考えている。

    空間や時間という「へだたり」があるのが当たり前だという常識を疑う必要があると思う。

    視覚による距離感や空間把握こそ、じつのところ「錯覚」の領域ではないのか。

    それは外界を把握するための知覚による創造ではないのか、わたしはこんな疑いをもっている。

    視覚という断絶があるから、われわれは誤った固着観念(ケン・ウィルバーによるところの

   境界の断片への同一化)を定着させてしまうのではないか。


    シェルドレイクという学者は科学者たちから「現代の焚書」とよばれる書の中で、

   全生命の記憶や学習したものを貯め込んでおく「形態形成場」というものがどこかにあって、

   われわれの脳はそこから発せられる情報を受信するにすぎないといっている(らしい)。

    身体や脳だけに意識や知の発生源を特定できないといっているわけだ。

    ユングだって「集合無意識」という領域を設けている。

    われわれは空間や時間という概念を超えた――あるいはそもそもそんなものは錯覚に

   過ぎない?――意識のありようをもっているのではないだろうか。

    「脳の中のどこにも心は存在しない」と大脳生理学者のペンフィールドはいっている。

    心や意識は脳や心のみの産物なのだろうか。


    いま、自分の意識を省みたらたしかに自分の意識はこの身体にあるようにしか思えない。

    どこかほかのところにあるとはとても思えない。

    ただそれはさまざまな境界をもうけ断片に同一化する通常意識のなせるものかもしれない。

    この意識を超えたところに世界との一体感を感ずる超越意識が潜んでいるのだろうか。


    変性意識状態はなぜ起こるのか、なぜ可能なのか、あるいはほんとうにあるのか。

    わたしにはよくわからない。

    もうあるとするのならそのような意識状態を一度は体験してみたいし、やはり魅かれる。

    仏教書であるとか神秘主義の本ではそのような方法はたくさん提示されている。

    あまりオカルトであるとかいかがわしい世界に行かない程度に――それなりの抑制を

   もって、わたしはこの変性意識状態とよばれる意識状態をさぐってゆきたいとおもっている。








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認知の変容と悟り

2009-02-05 10:45:25 | Weblog
悟りとは意識の統合レベルの高まりによって生じる認知の変容と考えられる。
意識の統合レベルが高まるにつれ自分と世界は一つに融合し、大いなる法則
によって世界は美しく調和されていると感じるようになる。
この感覚が持続するとき悟ったと言えるのではないか。
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変性意識で検索しました。

2009-02-04 13:14:36 | Weblog
果てしなき脳宇宙・無意識と創造性



私たちの意識を、私たちの心を揺さぶる何かがある。

意識の奥底にひそやかに働きかける何かがある。


「脳と心」第六集のテーマは、「無意識と創造性」であり、芸術的な創造性だけでなく、宗教的な体験についても触れるつもりである。

読者の皆さんがたいへん興味を持つテーマだと思うが、人間の心の神秘に触れる最も奥深い問題あり、脳科学ではまだほとんどのことが解明されていない。しかし、それだからといって避けて通ってしまったら、人間の心を扱ったことにならない。それであえてこのテーマに挑戦したわけだが、十分に解明された事実より、推論の部分が多くなってしまうことを、あらかじめお断りしておく。





1.際限のない想像力や芸術的な創造性は、いったいどこにあるのだろうか?

ヒトの脳は、大脳新皮質が巨大化して不安定になった。

人類の脳の大きな特徴は、他の動物に比べて、大脳新皮質という新しい脳が極端に大きくなっていることだ。進化の上で最も新しい大脳新皮質は、哺乳類の進化とともに、徐々に大きくなってきた。そして、類人猿からヒトにいたる過程で飛躍的に増大を遂げた。

他の動物にとって、自分の五感で直接確かめられるもの、あるいは過去に直接体験したことが、ほとんど世界のすべてだろう。しかし、新しい大脳新皮質の中で最も新しい前頭葉は、今目の前に存在しない未来や、空間的に遠く離れた所で起こっているできごとを思い浮かべることができるし、他人の心を思いやったりすることもできる。

こうした能力は他の動物でも芽生えているのだが、人類、特に新人(現代がホモ・サピエンス)になって、次元の変わるような猛烈な発展を遂げた。そして、実際には存在しないものを際限なく思い浮かべる想像力をも人類にもたらした。




危ないバランスを保つために、強力な安定装置を必要とした。

ヒトの脳は、何の根拠もないのに、ただ呪いをかけられるだけで、死に追い込まれてしまう脆さを秘めている。自然科学の発達は、そうした、いわれのない脅しや魑魅魍魎たちを完全に追放したかのように思われた。しかし、本当にそうだったのだろうか。

そもそも人類の社会では、直接確認できる事実よりも、イリュージョンの方が遙かに重要な役割を果たしてきたと言える。私たちは、地球が丸いことを知っているし、今ではDNAの中に生命の設計図が描かれていることさえ知っている。しかし、それらの事実は、大部分の人達にとって、自分の手で直接確かめた事実でなく、ヒトから聞いた話、間接的な手段によって与えられた事実である。

人類は、自分の経験を越えた事実を、言葉のシンボルという形で受け入れて、そのシンボルを頭の中で操作することによって活動の範囲を広げてきた。その結果、クロマニヨン人の子孫達は、他の動物には考えられない文明を築き上げることができた。

際限なく肥大する知識や認識の基盤が他の人達と共有されている場合はいいが、それができなくなると、知識は妄想と見なされる。裏を返せば、他の人たちと知識や世界理解の基盤を共有し、その基盤を共同で支えていくこと、つまり文化が、頭でっかちの不安定な脳を安定化させる強力な装置なのだ。

しかし、人と人の調節だけで充分な安定化が図れるわけではない。ヒトの大脳新皮質が巨大化したとき、不安定になる脳の手綱を締める生物学的な安定化装置が一人一人の脳に内蔵されていたからこそ、人類は進化の歴史を生き抜いてくることができたのだ。

脳に内蔵された安定化装置とはいったいどのようなものか。
原始人の洞窟の外に広がる暗黒で跳梁した魑魅魍魎たちは、私たちの脳から完全に追い払われたのではなく、脳の安定化装置によって、心の奥深く押し込められているだけなのである。




天才と狂気は紙一重

人類の脳は大脳新皮質が極端に肥大化して不安定になった分だけ、非常に強力な安定化装置が必要になり、また、それが備わっているからこそ、人類は精神の自己崩壊を免れている。

しかし、この精神の安定化装置が強くなりすぎると、毎日が代わり映えのしない、無味乾燥な日々の繰り返しになってしまうだろう。狂気に近づいた芸術家達のことを思い合わせると、脳の強力な安定化装置のネジが少し緩めることを通して、芸術的な創造性を呼び覚ますことがあるのではないだろうか。




狂気の脳では、何が起こっているのか。

ムンクの「叫び」にも表現されたように、精神分裂病の患者はよく幻聴を体験する。傍らにいる人の声がはっきりと聞こえるという。

精神分裂病の患者の脳の、どこの働きが亢進しているか調べると、脳の表面の大脳皮質ではなく、内部の芯の方にある大脳基底核の活動が異常に亢進していることが
わかってきた。

精神分裂病の患者の脳は、大脳基底核の働きが失調していて大脳からの思考の出力を一本に絞ることがうまくいかないから、思考が分裂する。大脳基底核は、
巨大な新しい脳を支える、非常に重要な安定化装置なのだ。

激しい妄想や幻聴に悩まされる急性の患者に、非常に良く効く薬がある。ドーパミンという神経伝達物質のレセプターに蓋をして、ドーパミンによる伝達を妨げる物質だ。

最近の研究では、ドーパミン・レセプターの中のD4というタイプのレセプターが、分裂病の患者では健常者の六倍に増えているという。脳幹に近い黒質という部分から上がってくるA-9と呼ばれる神経の束が、大脳基底核に向かって伸び、標的の神経細胞に対してドーパミンを放出する。

大脳基底核が脳の安定化装置だとすると、その安定化装置のネジを緩めるのはドーパミンということになる。このドーパミンが、芸術的な創造性に深い関わりがあるのかもしれない。




創造性とドーパミン

前頭葉にもたくさんのドーパミン・レセプターが分布している。A-10ドーパミン神経は、前頭葉の神経細胞に実質的な情報を送り込むのでなく、他の神経細胞から前頭葉の神経細胞に流れ込む情報量を調節している。それで、ドーパミンが多く放出されれば、前頭葉の神経細胞への人力が増え、前頭葉が活発に働くようになる。

前頭葉に伸びるA-10ドーパミン神経が、ある限界を超えて興奮し始めたとき、ドーパミンの過剰放出に対してブレーキのかかるのが遅れる。そのため、ある時間の間、ドーパミンがどんどん放出され続け、前頭葉の活動が加速度的に高まってゆく。創造の瞬間はこのようにして訪れるのではないか、という仮説がある。




2.宗教的体験は、脳の安定化装置の緩みから起きてくる?


宗教を創始した人の多くは、「変性意識」を体験している。

脳の安定化装置のネジがゆるんだ結果もたらされる心の状態を、「変性意識状態」という。意識が通常とは違った状態になる。という意味だ。創造の瞬間にも変性意識が深く関わっているが、人が深い宗教的な体験をするとき、やはり変性意識状態が重要な働きをする。

これまで、みずから宗教を創始した人々を振り返ってみると、たとえばキリストは、イスラエルの荒野、テンプテーション・マウンテンでの40日の修行でさんざん悪魔の幻覚に悩まされたし、マホメットも、てんかん発作の前兆の中で天国を見せられる体験をしたと伝えられている。

日本でも、多くの新宗教の教祖にとって、変性意識の体験(神がかり)が、宗教的体験の核心をなしている。既存の宗教の教えに従うのではなく、みずから新しい宗教の道を切り拓いた人達は、人生の途上で、何らかの理由で脳の安定化装置のネジが緩み、その緩みが深い宗教的体験をもたらしているようだ。




肉体の修行を通して脳の安定化装置を緩める「行」

日本では、言葉を使ってあれこれ頭で考えるのではなく、肉体に試練を課し、肉体から脳に上がってゆく情報を通して脳に働きかけることによって、脳の働き方のパターンを根本的に変えていこう、という「行」の伝統が行き続けてきた。

荒行でも、極度の睡眠不足や空腹、単調な読経が続くと、不思議な体験がいろいろ起こってくるらしい。真言宗を開いた空海も、修行中に超現実的な体験をしている。室戸岬の近くの洞窟でただ一人、虚空蔵求聞持法をひたすら修していると、明星が口に飛び込んできたという。




キノコや植物を使って、安定化装置のネジを緩める

何もしない断食とは対照的に、メキシコでは古代から、幻覚を起こすキノコや植物が宗教的儀礼に使われてきた。

16世紀の初め、アステカ帝国を征服したスペイン軍に同行した医師は、原住民がキノコを食べて恍惚状態になり、神と対話したと報告している。
現在でも、メキシコ中南部やガァテマラの山丘地帯では、キノコを宗教的な儀式や民間医療に使うクランデーロ(呪術医)が活動を続けている。

幻覚を起こすキノコは、シロベという種類で、成分はシロシンとシロシビンという物質で、分子構造が、神経伝達物質の一つであるセロトニンと非常によく似ていることがわかった。脳の中のセロトニン・レセプターに結合して、セロトニンの働きを強めることによって幻覚を引き起こすらしい。

代表的な幻覚剤のLSDも、セロトニンやシロシン、シロシビンと共通の構造を持っている。LSDを飲むと、身のまわりの何でもない鈍い色彩のものが色鮮やかになり、輪郭が虹色に滲んだり、歪んできたりする。こうした幻覚は、LSDが一部のセロトニン・レセプターと結合して、セロトニンの働きを増強することによって起こる。

幻覚キノコの成分であるシロシンやシロシビン、LSDは、主に前頭葉のセロトニン・レセプターに結合するらしい。目や耳から入った感覚情報は、脳の心の所にある視床を通ってそれぞれの感覚野に届けられるが、さらに前頭葉に送られた後、再び視床に情報を戻して、外部から過剰な入力が入らないように、視床にフィルター機能を果たさせている。視床は脳への入力を絞る第二の安定化装置なのだ。

前頭葉のセロトニン・レセプターに幻覚キノコの成分、シロシビンが付くと、前頭葉から視床へのフィードバック・ループが妨げられる。その結果、視床のフィルター機能が破綻して過剰な情報が入ってくる。外部からだけでなく、脳の内部に記憶されていた情報もどんどん前頭葉に入ってくるようになる。このようにして、幻覚が現れるらしい。

幻覚はまさに視床という安定化装置の緩んだ結果起こる現象であり、セロトニンは、脳の安定化装置のネジを緩めるもう一つの物質だといえるのだ。

同様に、断食でもセロトニン・レセプターの数が増加し、セロトニンに対する感受性が高まり、幻覚が生み出される。




3.創造性の源は、人間が持つ深い無意識の世界にあるのかもしれない。

無意識の世界に下りていくと、まず個人的な無意識の層がある。

人類の発達した大脳新皮質は、実にさまざまなことを想像したり、考え出したりすることができるが、一刻一刻、一つの結論に従って行動しなければならない。

いつまでもたくさんの可能性を抱え込んで結論を出さずにいると、社会に適合して生きていけなくなるので、ある可能性を選び、他の可能性を切り捨てて先に進むことになる。この切り捨てたはずのものが、実は無意識の中に仕舞われてるらしいのである。ただ、そうした他の可能性がたびたび意識に上ると、過去に自分が下した決断がぐらつく、果たしてあれで良かったのかという迷いや悩みが生まれ、混乱を招くのでそう簡単に意識の表面に浮上しないような、抑え込まれているのだ。

人は、成長するにつれて、少年時代からの脱皮を求められる。社会に適合するための戦いの中で、少年時代のことは忘れていく。個人的無意識とは、こうした少年時代の思い出や、その人が人生のどこかで出会った驚きや喜び、そして深い悲しみの体験、かつて持っていた人生の潜在的な可能性が仕舞われている世界なのだ。

個人的な意識より深い層には、集合的無意識の世界がある。
個人の体験を越えて、民族に共通した、あるいは人類に共通した、心の動き方の原型がここに潜んでいる。

この集合的無意識の世界は、長い間人々に語り継がれてきたおとぎ話にうまく結晶していることが多い。心の奥底にある願望や恐れ、秘められた残酷さなどもさりげなく表現されていることがある。

ユングは、こうした深層での根源的な心の働き方を表すイメージを「原型」と呼んでいるが、いくつかの象徴的な人格が含まれている。たとえば大母(非常に頼りになるが、同時にこちらを飲み込んでしまいかねない恐ろしさを併せ持つ母)、老賢者(深い知識と心の広さを備えた白髪の老人)などが代表的だ。

この集合的無意識のレベルでは、自分と他人を隔てている壁がなくなる。このレベルまで下りれば、相手の心の奥底がよく見えるようになるらしい。




4.解明されない脳宇宙の謎。


ネアンデルタール人たちより大きい前頭葉と発達した言語野を持ったクロマニヨン人の子孫である私たちは、言語のシンボルを頭の中で操作することによって、比類ない文明を生んだ。そして数々の発見を積み重ねることによって、人類を長年の呪縛から解き放ってきたことも確かである。しかし、世界を改造する止めどもない力の行使が、ついに深刻な地球汚染として、私たちに跳ね返ってきた。

人類の脳は、今後もずっと、このままの状態で続いていくのだろうか。社会の中で競い合いながら生きていく多くの人間が、不可逆的に身につける人間の本性。未来永劫、人類の続く限り、この人間の本性を土台として、あらゆることを考えていかなければならない。

臨死体験者の多くは、自分が生きていることに対する感謝の気持ちが湧いてきて、他の人達に深い思いやりがもてるようになる。しかもこうした人格の変化は、簡単に元に戻らない。もしこのような人格の不可逆的変化が大勢の人に起きたら、社会は大きく変わって行くのではないだろうか。それはまさに、人類の意識の進化だ。

しかし人間の脳は、安定化装置を緩めると無防備になり、非常に操作されやすくなる。世の中は、この弱みにつけ込んで人の心を弄ぶ落とし穴に満ち満ちている。

これまで社会がこれを禁忌(タブー)としてきたことには、それなりの重い意味がある。手軽な方法で脳の安定化装置を緩めようとしても、体験するのは深い意味を持たないものばかりで、脳の不可逆的な荒廃という大怪我をするのがおちである。

これまでのように、選べれた芸術家や少数の宗教家ばかりでなく、私たちのような平凡な一市民が、注意深くさまざまな危険を避けながら、深い集合的無意識の世界を体験し、自分の奥深く眠っている創造性に目覚めることを通して、他者との深いつながりに気づくことが求められていくのではないだろうか。



脳と心6(NHK出版)



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